4.






「いやだな…何を言ってるんですか」
 背筋を駆けあがる悪寒を必死に振り払い、努めて明るい口調でリトアニアは答えた。
「友達は友達ですよ。あなたと友達になったからと言って、俺がポーランドの友達をやめる理由にはなりません。当然のことじゃないですか」
「僕には充分な理由だけど?僕の友達が、僕以外の存在に目を向ける意味なんてないよね。それにさ、ポーランドだって、今までずっと君を独占してきたじゃない。こっちは三百年も待ってあげたんだから、そろそろ終わりにしてくれてもいいんじゃないかなぁ」
 リトアニアは息を呑んだ。彼が求める友達の意味が、自分の思うものとは全く違うものであったことに気付いて愕然とする。
 彼は―――ロシアはリトアニアを物としてしか見ていない。そうと知れば当然怒りも湧いたが、何故それが俺でなくてはならないのかという疑念はそれを上回っていた。そして、もう一つリトアニアは気付いていた。人を人とも思わないような発言をしながらも、リトアニアの手を握るロシアの手が微かに震えていることに。まるで……行かないでくれと懇願するかのように。
 だが、逡巡の後、リトアニアはその手を振り払った。
「俺は―――あなたと共には行けません」
 もし、たった一つを、選ばなければならないとしたら。
 答えはとっくの昔に決まっている。
 ロシアの瞳を正面から見据え、リトアニアはきっぱりとそう告げた。
「あなたは一人で帰って下さい。俺は、ポーランドの元に戻ります」
 その時のロシアが浮かべた表情を、ひと言で表すのは難しかった。顔は相変わらず笑みの形を保っていたが、リトアニアの目に、それは果てしない虚無を孕んで映った。
「僕は……三百年もの間ずっと―――ずっと一人で待ってたんだけどな」
 独り言のような……静かすぎるほどに静かな声で、ロシアは呟いた。
「やっと、友達になれたと思ったのに。どうして君まで、僕を置いて行くのかな……」
「俺だって―――ずっと一人でしたよ」
 国として生き残る為、ただ少しでも早く強くなろうと、そればかりを考えて生きてきた幼き日の自分を思い出し、リトアニアは僅かに唇を噛んだ。常に侵略の脅威に晒されながら生きていた自分にとって、周りに生きる国は全て敵も同然だった。人と同じ感情を有しながらも人ではない自分に、対等な立場で心を開くことの出来る存在などいるはずもなかった。
 だが。
(なぁ、リト)
 眩いばかりの陽光の下で、若草色の瞳が笑う。
(ほら、この麦畑見てみ。これ俺んちの自慢なんよ)
(これからは俺の神様が、リトのことも守ってくれるし)
 ―――戦うばかりが生き方ではないと、教えてくれた。
 生まれた場所が違っても、口にする言葉が違っても、同じ道を共に歩むことは出来るのだと。
 最初は上司同士の都合だった。互いの利、その為に必要な出会いであり、歩み寄りだったはずだった。だが、今は。
「ポーランドなんです。俺を孤独から救ってくれたのは」
 友達。人同士が結ぶそんな関係に、リトアニアはずっとずっと憧れていた。孤独には慣れており、自分の境遇に不満を持ったこともなかったが、それでも寂しくない訳ではなかった。
 そんな自分に―――ポーランドは手を差し伸べてくれた。国としてではなく人として、彼は自分を必要としてくれた。
「喩えどんなことが起ころうと、俺はポーランドを見捨てない。だから、彼を忘れろと言うのなら、俺はあなたと共には行けません。一人で―――帰って下さい。俺に言えるのはそれだけです」
「どうしてっ……!?」
 これまでの穏やかな口調とは一変した、叩き付けるような叫びと共に、ロシアはリトアニアの胸倉を掴みあげた。
「どうして…?やっと、一人じゃなくなるって思ったのに……どうして…どうしてポーランドなの?どうして彼なら良くて、僕じゃ駄目なの…!?」
「それなら、あなたこそ何故っ…!?」
 怒りより寧ろ悲しみを込めて、涙の代わりにリトアニアも叫んでいた。もう戻れることはないのだと知りながら、それでも記憶の中の少年に向かって。
「どうして…ポーランドに出会うより前に―――友情なんて知らなかったあの時に―――俺を、手に入れてくれなかったんですか……!?」


(君と友達になるんだ!)


 見知らぬ異国の少年が口にした「友達」という言葉に、あの時の自分がどれほど惹かれたか。
 人ではない「国」という存在の自分にも、同じ立場、同じ視線で向き合える「友達」が出来るかもしれないという希望を抱かせた少年が、あの時の自分にはどれほど眩しく見えたことか。
 それなのに。
(今は駄目だよ)
(まだ力不足だから)
 愛おしむように触れてきたその手を、しかしその一瞬後には躊躇いもなく離して。少年は森の奥へと一人消えてしまったのだ。まるで白昼夢のように。
 もし、あの時。
 あなたが、掴んだ手をあのまま離さずにいれば。
 俺の未来は変わっていたかもしれないのに。
 ポーランドと出会うことはなく、国としての形を保てているかどうかも定かではなく。それでもあなたの「友達」として、最期の日まであなたの傍にいることが出来たかもしれないのに。
 自分の辿って来た道に後悔はない。ポーランドという相棒を得て、共に築いてきた今の境遇は、既にリトアニアの誇りであり、何にも代えがたい宝となっている。それでも、リトアニアは考えずにはいられなかった。もしも違った出会い方をしていれば、自分はこの少年を救えたのだろうか。三百年もの孤独を経ても尚、これほどまでに求めてくれるのなら、どうしてあの時ではいけなかったのか。
「だって…だって……あの時は……」
 潤んだ瞳を瞬かせ、ロシアは叱られた子供がいやいやをするようにかぶりを振った。
 力のあるものは全てを手に入れ、力のないものは全てを失う。ロシアの生まれ育った東方において、国として存在する為に定められたルールは至ってシンプルだった。弱き国は消されるしかなく、それでも生き残りたいのならば、一方的な暴力と搾取に支配された日々を、ただひたすらに耐え抜くしかない。
 どんなに欲しいと切望したものでも、力がなければ奪われるしかない。逆に強くなりさえすれば、どんなものでも思うがまま手に入れることが許される。蹂躙の歴史の中で、姉を、妹を、そして国としての自らの尊厳さえ踏み躙られた少年が辿り着いた、それが唯一絶対の結論だった。
 支配するか、服従するか。手に入れるか、奪われるか。そんな単純な不文律のみが生きる世界で、対等な関係など望めるはずもない。いや、そんな関係がこの世に存在することすら、ロシアは知らなかった。捨てられない、手放したくないと思うものがあるなら、それを失わずにすむだけの力を得てからでないと、手に入れても意味がない。だからロシアは待ったのだ。奪われる立場から、奪う立場に。それが出来るほどの力を持った強い国へと、自らが成長を遂げるその時まで。
「あの時の僕じゃ、絶対取られちゃうと思ったから…。だって、僕は君が欲しかった。どうしても欲しかったんだもの…!」
 暴力と束縛に耐えかね、こっそり国許を抜け出した先で出会った、異国の少年。癖のある柔らかい髪は実り豊かな大地の色を、優しそうな瞳は陽光の恵みを受けた若葉の色をしていた。
(どうしたの?)
 掛けられた言葉は優しく、ロシアが焦がれてやまない労りに満ちていて。手袋越しであっても温かかったその手は、冷え切っていた心すらも温めてくれるようだった。帰り付いた後、逃げた罰として酷く痛めつけられたが、あの少年に出会えた奇跡を思えばその程度は些末でしかなかった。
 あの子が欲しい、と。殆ど直感的にロシアはそう思った。
 あの温もりが、優しさが欲しい。これだけは絶対に、誰にも渡したくない。その為には強くなるしかない。喩え何十年、何百年掛かろうと構わない。誰よりも強く、大きな国に。ただひたすら、それだけを思って生きてきたのだ。望むだけの力を得て、再会を果たしたその時に、彼が自分を受け入れてくれないかもしれないなどとは全く考えもせずに。
「……この手を、放して下さい。ロシアさん」
 胸倉を掴んだロシアの手から既に力は抜けていたが、リトアニアは敢えて引き剥がそうとはしなかった。ただ静かな声で、淡々と拒絶の意志のみを告げた。酷な行為だとわかっていたが、これ以上中途半端な優しさを見せれば、それは却ってロシアを傷付けることになる。
 ロシアが動く気配はなかった。唇を噛み締め小さく俯き、リトアニアの服を掴みあげた姿勢のまま。手を振り解くべきか迷いながら、リトアニアはじっと待った。やがてロシアは顔を上げ、感情の窺えない声で呟いた。
「僕ね、ここに来る前に、ポーランドに会ったんだよ」
「え……!?」
 リトアニアは驚いた。まさかロシアが自分のところに来るより先に、ポーランドの元を訪れていたとは考えもしなかったのだ。
「君のことは渡さないって言ってたよ。あんな小さな身体でさ、ちょっと力を入れたら簡単に壊れちゃいそうなくらい弱そうなのに、生意気だよね」
 ロシアは喉の奥でくくっと笑った。
「大人しくすれば痛くしないよって言ったのに。物分かりが良くないのは欠点だよね。あんな生意気な子のどこがいいのか、僕には全然わからないなぁ」
「まさか…ポーランドに、何かしたんですか!?」
「何かするのはこれからだよ。ふふっ、いいことを思い付いちゃった。あの子がいるから君が僕の友達になれないと言うなら、あの子がいなくなればいいんだよね。面倒な交渉なんてしないで最初からそうすれば良かった」
「なっ…!?正気ですか!?」
「僕は正気だし、至って本気だよ。言ってわからないなら、お仕置きするのは当然のことでしょう?」
「何を言ってるんですか。そんなことは……!?」
 思わず詰め寄ったリトアニアの腹部に、ロシアの拳が打ち込まれる。激痛に声もなく蹲るリトアニアを、ロシアは余裕の笑みで見下ろした。
「ごめんね。でも、邪魔をする君がいけないんだよ?すぐに片を付けて戻るから、それまでそこで待っててね」
 言い置いて立ち去りかけたロシアの足首を、リトアニアは必死の思いで掴んだ。行かせる訳にはいかない。何としてもポーランドを守らなければ…!ロシアは呆れたように溜息を吐くと、リトアニアの腕を掴みあげ、無理やり身体を引き起こした。
「大人しく待っててって言ったでしょ?それとも、君も一度痛い目に遭ったほうがいい?」
 腕の関節を、千切れそうなほどの力で逆方向に捩られ、リトアニアは呻いた。振り解こうにも、体格で勝るロシアはびくともしない。懸命に痛みを堪え、精一杯身体を捻って、リトアニアは肩越しにロシアの顔を見据えた。ずっと焦がれていたのだと告げた相手に理不尽な暴力を振るうその顔は、出会った時と同じ穏やかな笑みを湛えていた。
 笑顔は、ロシアの仮面だった。非道な侵略者の下で生き残る為―――本心を悟らせぬ為、相手の目を欺く為には、虫一匹殺せぬような穏やかな顔で、絶えず笑っていなくてはならなかった。やっとのことで独立を勝ち取り、自由の身となれた頃には、それ以外の表情の作り方などもはや忘れてしまっていた。
 だが、今は。
「やめて…下さい。ロシアさん……」
 絞り出すような声でリトアニアは言った。
「本当はあなただって、こんなことを望んでいた訳じゃないでしょう……?」
「これ以上ないくらいに望んでいたことだよ。決まってるじゃない。何でそんな変なことを聞くの?」
「じゃあ、何故…あなたはそんなに泣いてるんですか…?」
「え……?」
 その時初めてロシアは、頬をひりひりと刺す痛みに気が付いた。流れた涙の筋が凍りついた跡だと認識はしても、その理由が理解出来ず、ロシアは首を傾げた。
「本当だ。何でだろ?―――泣く理由なんて何もないのにね。ずっとずっと待ってた君を、もうすぐ手に入れられるんだから。ああ…もしかして僕、嬉しすぎてどうかしちゃってるのかなぁ?」
「リトから……離れろだし」
 唐突に聞こえた声には、いつもの張りも勢いもなかったが、重苦しく凪いだ水面に一石を投じるには充分だった。
 ロシアはゆっくりと背後を振り返った。崖の際に佇む枯れた楡の幹、そこに身体を預けるようにして、小生意気な笑みを口元に浮かべた金髪の少年が立っていた。傷付いた足を庇いながら、それでも懸命に駆けてきたのだろう。身形は泥に汚れてボロボロだったが、ロシアをきっと見据える若草色の瞳は、怒りと敵意を宿して爛々と輝いていた。
「………ポーランド……っ!?」
 悲痛な叫びを上げるリトアニアに構わず、ロシアは一層笑みを深くした。
「やあポーランド。ちょうど良かったよ。これから君のところに行こうと思ってたんだ。君のほうから来てくれるなんて嬉しいなぁ。捜す手間が省けたよ」
「俺に用があるん?マジ奇遇だし。幾らでも付き合ってやるから、さっさとリトを放せだし」
「ふふっ。僕に命令する気?君って本当に生意気だよねぇ。その偉そうな顔、相手に言うことを聞いて貰えるのが当たり前だと思ってるって顔だよね。大国として、恵まれた環境にあることを、自分に約束された当然の権利だと思ってる―――君みたいな傲慢な国が、僕はずっとずっと前から大嫌いだったんだよ」
 リトアニアの身体を雪の上に投げ出すようにして放し、ロシアはポーランドに向き直った。雪混じりの風にも似た冷気を孕んだ恐怖に背筋が粟立ったが、ポーランドは一歩も引かず、近付いてくるロシアの巨体を睨みつけた。
「自分のこと棚に上げてよく言うし。おまえがどこの国で、今までどんな境遇におったかなんて知らんけどな。いきなり来て一方的に自分の要求突きつけて、受け入れられんかったら力づくで奪おうとするとか、おまえのやっとることのほうがよっぽど傲慢だっつーの」
「僕はそれに見合うだけの犠牲を払い続けてきたよ。何百年もタタールの圧政に耐え、幾多の争乱を戦い抜いて、たくさんの民と自分の血を流してきた。ねえ、何で僕の身体はこんなに大きく成長したんだと思う?そうならなければ、生きてこれなかったからだよ。君みたいに……誰かに当たり前のように守られてきた国に、僕のことを笑う権利なんてないんだよ」
「おまえに好かれようなんざ最初っから考えとらんし、悲劇の主人公な自分に陶酔しとるのを邪魔する気も否定する気もないけどな。けど、俺はリトのことだけは誰にも譲るつもりはないんよ。大体、友達になるとかそれを守るとかってのに、大国だとか弱小国だとか関係なくね?」
「君の言い分なんてどうだっていいよ。取り敢えず、お互いの利害が一致しないってことだけはわかったから、この後どうするかなんて決まってるよね。君は僕と同じ国だから、この場で物理的な力で殺すことが出来ないのは残念だけど、せめて手足を2、3本折るくらいのことはさせて貰おうかな。リトアニアを連れ帰ってから、改めて僕の家の総力を以って、君の家を徹底的に潰してあげるから楽しみにしていてね」
「そっちこそ。返り討ちにしてやるから、せいぜい覚悟するといいし」
 言うなり、ポーランドは足元の雪を盛大に蹴散らしながらロシアへと飛びかかった。先手必勝を狙ってのことだろうが、彼が足を痛めていることを知っているリトアニアは思わず悲鳴混じりの叫びを上げる。
「……ポーランドっ!」
 不意打ちにもロシアは動じることなく、降りかかる雪の粉を両手で防ぐと、突っ込んできたポーランドの身体を難なく押さえ込んだ。暴れる彼の両手の手首を頭上でひとつに纏めて拘束し、片手で軽々と掴みあげる。
「っ…!放せだし、このバカ力!」
「本当に君は元気だねぇ。そんなに元気なら、あの崖から落ちても大丈夫かなぁ。試してみたくなっちゃった、僕」
 ゆらりと底の見えない笑みを浮かべ、ロシアが身体ごと向き直った先には、黒い奈落がぽっかりと口を開けて待っていた。近付いてくる絶望の予感。痛む身体を叱咤してリトアニアは跳ね起き、無我夢中で駆けた。間に合ってくれ、ただそれだけを祈りながら。
 谷底から吹き付けてくる風をものともせず、ロシアはその際まで歩を進めた。観念したのかすっかり大人しくなったポーランドが、反撃に転じたのはその時だった。足の痛みの一切を無視して勢いよく蹴り上げた爪先が、ロシアの喉元を掠める。
「!?」
 至近距離での攻撃にロシアの巨体がよろめいた。バランスを取り損ねた身体は、まるで何かに引かれるように奈落へと向かって倒れ込む。その手から離れたポーランドの小柄な身体も、また。
 考えるよりも先に身体が動いた。理由も理屈も打算も感情も、その一切を飛び越えてリトアニアは反射的に手を伸ばす。掴んだと思った瞬間、がつり、と鈍い衝撃が全身に広がる。弾みで宙に飛び出しそうになるのを何とか踏み止まり、懸命に瞳を凝らせば、繋がったお互いの手の先で泥だらけの顔で笑う相棒の不敵な瞳が見えた。
「ポーランド…!」
 安堵した瞬間、リトアニアは我に返った。その視界の端を白いものが過ぎる。名前を呼ぶ間すらなかった。叫び声ひとつ上げず、ロシアの身体は暗い崖下へと吸い込まれるように落ちていった。
 時間にすれば、それは本当に瞬きするほどの刹那だっただろう。だがリトアニアは見たような気がした。暗い虚無を宿した紫水晶の瞳を。救いを求めるように伸ばされたまま、空しく宙を掻いた手を。闇の咢の中へとひとり墜ちていった、母親に置いて行かれた子供のような顔を。
 助けられなかった。遅れて湧いたその実感に、リトアニアは唇を固く噛み締めた。
 二人ともを、というのはこの状況では無理な話だっただろう。どちらかを助ければ、必ずどちらかを見捨てることになる。そして自分はポーランドを選んだ。それはずっと前から決意していたことであり、後悔はない。それでも、胸にじわりと滲む苦さを止めることは出来そうになかった。
「………リトの所為じゃないんよ」
 崖上に引き上げられたポーランドがぽつりと零した呟きに、リトアニアは何も返せず、ただ一度強く瞳を閉じた。
 風鳴りの音が耳を打つ。それが、最後まで手を取り合うことの叶わなかった少年の泣き声のように、リトアニアには聞こえていた。












Back Next










戻る?

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送