5.






 谷底へと投げ出され強かに打ち付けた全身が、痛みに軋んで悲鳴を上げるのに構わず、ロシアは歩き出した。
 星明りも届かぬ谷の道の深い闇も、耳の痛くなるような静寂も、少年の足取りを脅かすには至らない。いや、彼の世界にはもうずっと以前から、闇しか存在していないのかもしれなかった。
 地表より遠ざかりつつある視界の中、最後に見たのは、ポーランドの手をしっかりと掴んだリトアニアの姿だった。
 あの温かく優しい手が、ロシアに向けて差し伸べられることは遂になかった。彼はポーランドを選び、自分は未だこうして孤独の淵に取り残されたままでいる。
 まだ駄目だ。まだ足りない。
 もっと強くならなくては―――とロシアは思った。自分の手が、力がまだ、彼には届かないというのなら。もっと強く、もっと大きく。他の何者をも圧倒出来るくらいの。誰をも従わせるに足る―――誰も逆らうことなど出来ないほどの、そんな力を。リトアニアが自分を選ばないと言うなら、彼やポーランドを遥かに凌ぐ力を以って、逆らえないようにしてしまえばいい。
 必ず手に入れる。魂さえも凍らせるほどの孤独と決別する為には、それしか方法がないのだから―――新雪の上に血濡れの足跡を残しながら、それでも痛みなど忘れたような顔で、ロシアはそう嘯いた。紫水晶の瞳は暗い決意をその奥に熾火のように燻らせながら、ただ静かに夜の闇を見つめていた。












 幾分か薄らいだ黒雲の狭間より、銀色に輝く月が顔を覗かせている。淡い光に照らされ、雪に覆われた大地は宵闇にその輪郭を鮮やかに浮かび上がらせていた。
 先ほどまでの吹雪がまるで嘘のような、静かで穏やかな夜の帳の中を、リトアニアはポーランドを背負って歩いた。細い谷の道は危険なので迂回し、遠回りでも傾斜の緩やかな森の道を選んで進む。時間は掛かるが、麓まではあと僅かというところまで来ている今、さほど無理な選択でもなかった。
 リトアニアの背中越しに彼の温かな体温を感じながら、ポーランドはひっそりと溜息を吐いた。心地良い揺れに意識は微睡みそうになるが、じんじんと疼く足の痛みはそれを許さなかった。痛みを堪えるようにギュッと目を閉じれば、耳の奥にあの少年の言葉が呪詛のように木霊した。
 ―――僕は強いから、リトアニアのことをずっと守ってあげられるよ。
 ―――君と一緒にいるより、そっちのほうが彼のためにもなるんじゃないかなぁ?
 そんなことはない。リトアニアはこうして自分を選んでくれた……そう自身に言い聞かせようとするも、足の痛みと、満足に動くことも出来ない現状とがポーランドの自信を挫き、考える力を奪ってゆく。結局、自分は彼のお荷物でしかないのだろうか。リトアニアが自分を助けてくれるのは、ただ同盟国としての義務感、それだけなのではないだろうか。
 ロシアに殺されかかったことよりも、そちらのほうがポーランドにとってはよほど恐怖だった。思わず身震いすれば、気付いたリトアニアに寒い?と問われ、慌てて首を横に振る。同時に心の堰も切れ掛かり、ポーランドは募ったもやもやをぶち撒けてしまおうと口を開きかけた。その時。
「ありがとう」
 穏やかに紡がれた相方の思い掛けない言葉に、ポーランドの目が丸くなる。
「は?何のことだし?」
「ポーランドがいなかったら……俺はきっと…帰ってこれなかった。あの人の闇に引き摺られて…そのまま一緒に堕ちていたかもしれない」
「……リト…」
「俺にだって、何かを守ることが出来る。ポーランドがそう教えてくれたから、俺は自分を見失わずにすんだ。ポーランドがいてくれたから、俺は自分に帰る場所があると信じることが出来た」
 そこで一度言葉を切り、リトアニアは肩越しにポーランドを振り返って小さく微笑んだ。
「あの時…ポーランドを失うかもしれないって思ったら、気が狂いそうになった。もしあのままポーランドが崖から落ちていたら…俺は……。駄目だな…やっぱり。俺には、ポーランドがいなくちゃ駄目なんだ」
「そ……そんなん、当然だし!」
 ずっと胸に支えていたものが、すっと融けていくような心持ちがした。じわりと目頭が熱くなるのを、寒さの所為だからと自分に言い訳して、ポーランドは得意そうに声を張り上げた。
「リトってばホント、へタレだし。お人好しで流されやすくって、一人で放っといたら危なっかしすぎるんよ〜。そんなヤツの面倒ちゃんと見れんのなんか、世界中に俺くらいしかおらんし。だからリトは俺に感謝するとええんよ〜」
「うん、感謝してる。生意気で傲慢で自分勝手で口が悪いけど、ポーランドが俺の親友でいてくれて良かったって」
「…何なんその超引っ掛かる言い方。リトの癖に〜」
「いたっ、痛たたたっ!ちょっ…耳引っ張らないでってばポーランド!」
「―――心配せんでも、俺はここにおるから」
「え………?」
 リトアニアの首にぎゅっと抱き着き、ポーランドは甘えるような労わるような声で言った。
「俺がリト放っといてどっか行ったり、消えたりとかする訳ないし。約束したじゃんよ、リト必ず帰ってくるって。俺がおらんようになったら、リト約束守れんくなるじゃん。約束破るヤツはただの嘘吐きだし。だから、俺はリトが嘘吐きにならんでも済むようにしてやってるんよ。な、俺ってばマジ親友思いじゃね?」
「何、そのメチャクチャな理屈。も〜、ポーランドはいつもこうなんだから」
「うるさいし。まあ、そんな訳で心配いらんから。リトは安心して笑ってればええと思うんよ〜」
「はいはい。……ありがとう、ポーランド」
 初めは、単なる同盟相手でしかなかった。互いが生き残る為、より多くの利を得る為、相手を利用する関係にすぎなかった。だが、誰よりも長く隣にいて、多くの出来事を共有するうちに、いつの間にか何にも代え難く大切な存在になっていた。
 上司の思惑でも、国同士の都合でもなく。
 今、こうして自分たちが隣にいるのは、紛れもなく自分たちの意志なのだと、伝わる温もりが教えてくれるようだった。叫びたくなるほどの嬉しさを感じながら、ポーランドはそっとリトアニアの首筋に顔を伏せた。




 森の道が終わりに近づく頃には、東の空は薄らと白み掛かっていた。木々の梢を透かした向こうに、炭焼き小屋の屋根が見えてくる。その煙突からほっそりと煙が立ち上ってるのを認めて、二人は思わず顔を見合わせた。
「―――誰かいる?」
 言い様のない期待と不安に、進む足は自然と早くなる。小屋に着くと、リトアニアはポーランドを背後に庇い、慎重に中の気配を窺いながら入り口の扉を押し開けた。
 暖炉の火は殆ど消えかかっていたが、小屋の中はまだほんのりと温かかった。部屋のあちこちに荷物が乱雑に置かれ、壁に備え付けられた簡素な寝台には、中途半端に広がった毛布が何枚も無造作に重ねられている。それに包まって横たわっていたのは―――。
「エストニア!ラトビア!」
 驚きに鼓動が跳ね上がり、二人は慌てて寝台に駆け寄った。声を掛けながら身体を軽く揺すってみると、う〜ん…と寝惚けた声が返ってくる。どうやらただ眠っているだけのようだ。ほっとして、ポーランドは床にへたり込んだ。
「も〜…俺らは大変な目に遭ってたってのに、こっちは温かい部屋でのんびりぐっすりなん?心配して損したし」
「あはは…まあ、何にせよ無事で良かったよ」
 はは、と脱力した笑みを浮かべたリトアニアの視線が、ふと、部屋の片隅に置かれていた数本の酒瓶へと注がれた。
 寒さの厳しいこの地方では、身体を温める為に強い酒が好んで飲まれている。この小屋にも、訪れたものがいつでも飲めるようにと酒が常備されているのだろう。ここ暫くは来訪者もなかったと見え、瓶の表面は埃を被って薄らと白くなっている。しかし、その中に一本だけ、埃の付いていない瓶があるのにリトアニアは気付いた。
 見慣れない形の瓶の酒は、この地域で作られたものではなさそうだ。手に取ってみれば、中身は既に空になっていた。瓶の口に鼻を近付けてみると、酒の匂いに混じって、微かに薬のような匂いが感じられたような気がして、リトアニアは眉を顰めた。
「エストニア、ラトビア。このお酒って二人が飲んだもの?」
 振り返って訪ねるも、すっかり寝入っている様子の二人から返事はない。リトアニアは呆れた顔で寝台へと歩み寄った。と、古びてささくれ立った寝台の端に、何か白いものが引っ掛かっているのが見えた。訝しげに摘みあげたそれは、ぼろぼろになった布の切れ端だった。
「まさか……」
 白い幻が脳裏を過ぎる。雪風を孕んで靡いていた、あの少年の白いマフラーを思い出す。これがその切れ端だという確証はどこにもない。だが否定することも出来ず、リトアニアはその白い布片をただ見詰めるしかなかった。
 ロシアが本当にここへ来ていたのか、そうだとしたら何が目的だったのか、真相はわからない。後になってもう一度エストニアに訊ねたが、彼も困った顔で、わからないんですよ、と首を振るのみだった。
「君やポーランドとはぐれたのに気付いて、探しているうちに雪が降り出したところまでは覚えているんですが…それからの記憶が酷く曖昧なんです。誰かにあの炭焼き小屋まで連れて行って貰ったのは間違いないと思うんですが、それが一体誰だったのか……顔も名前もどうしても思い出せないんですよ。あの時は酷い寒さと疲れで、体力も判断力も低下していましたし、断言は出来ませんけど、もし身体を温める為にと酒を勧められていたとしたら、恐らく疑う気すら起こさずに飲んだと思います。その酒に本当に眠り薬が入っていたのか、そうだとしたら何の為にそんなことをしたのか―――その人が僕たちを助けてくれたのは、何かに利用するつもりだったからなのか、それともただ純粋な親切心からの行動だったのか。今となってはもう、知るすべもありませんが…。ただ、ひとつだけ言えるのは、もしその人物がいなかったら…僕もラトビアも恐らく無事では済まなかっただろうということです」
 得体の知れない予感と不安に苛まれながらも、リトアニアは無理にそれを押し殺した。床に座り込んだまま、何か言いたげな顔でこちらを見上げてくるポーランドに、大丈夫だよと笑いかけてから、リトアニアは未だ寝こけたままの同胞を起こすべく、寝台の毛布を剥ぎ取りに掛かった。





















 冬が来る。冬が来るよ。
 色も熱もない、ただ一面の白に覆われた世界。
 無慈悲なほど圧倒的な、だからこそ嘘のない世界。栄光も虚飾も意味を為さない、誰もが等しく命ひとつの存在となり果てる世界。
 ああ、冬が来るよ。冬が来る。










 ……あの時も、こんな風に雪が降っていたな、と。何処か痺れたような頭でポーランドはそう考えた。
 視界は降りしきる白にゆっくりと埋め尽くされてゆく。地に倒れ伏した身体から、体温が染み出してゆくのが、まるで他人事のように感じられた。ともすれば薄れそうになる意識を現実に繋ぎとめているものがあるとすれば、それは傍らで泣き叫ぶ親友の声だろう。

 ―――ポーランド!ねえ起きて!そんなのやだよ!!ポーランド!!―――

 元来泣き虫ではあったが、それでも戦場では一度として涙を見せたことのない相棒が、身も世もなく泣き叫ぶ姿は寧ろ滑稽ですらあった。いつも、どんな時でも常に、隣に在り続けた半身とも言うべき存在。それが容赦なく引き離される現実を目の当たりにしてすら、悲観的な気持ちは微塵も湧いてこなかった。
 リトアニアの声が徐々に遠ざかっていく。勝ち誇った顔のロシアに手を引かれ、彼は遠く東の地へと連れ去られようとしている。その姿が完全に視界から消えてしまうより前に、やらなければならないことがポーランドにはあった。
 痛みに軋む身体を叱咤して、ポーランドは顔を上げた。必死の形相でこちらに手を伸ばすリトアニアへ、ポーランドはいつもどおりの、人を小馬鹿にしたような笑みを返した。


「ぷぷっ。その顔マジウケるし」


 リトアニアは一瞬、何を言われたかわからないといったように目を見開いた。呆気に取られたその顔が次第に紅潮してゆくのが面白くて、ポーランドは半ば本気で笑った。笑って笑って、笑い疲れて地面に転がり直した時には、既にリトアニアの姿もロシアの姿も、何処にも見えなくなっていた。
 これでいい。
 涙の別れなんて、自分には似合わない。
(だって俺、言ったじゃん?)
(リトは安心して笑ってればええって)
 大きくひとつ息を吐いて、ポーランドは雪の舞い降りてくる空を見上げた。
 そう。あれもこんな風に、雪の降る日の出来事だった。
 あれからまた長い長い月日が流れたけど。
 あの時の気持ちは今も少しも変わることなく、自分の中に存在し続けている。
(心配せんでも、俺はここにおるから)
(リトが帰って来るのを、ずっとずっと待ってるから)
(だから、今度はリトが、約束を守る番だし)




 無慈悲な白に覆われた世界に。
 明けの兆しはまだ遠いけれど。

 ―――それでも。
 春は必ず、また巡り来るのだと信じて。





















執筆にも更新にも時間が掛かりすぎて、最早忘れ去られてる可能性のほうが遥かに高いような気がしますが
「Ночь на Лысой горе」、これにて完結でございます。
元々はオフで出すことを目的で書いた話なので、当サイトに収録されている小説の中では
一番長い話になりました(連載途中のパラレル話は除く)。
露立波にすっ転び、この3人で何か書きたい!!と意気込んだはいいものの、
どう考えても俺得でしかないんじゃね?需要ないにもほどがなくね?…な気も全力でしていたり;
ロシアさんファンの方特にすみません。ああでもラストがアレだから、リトやポーファンの方にも実に申し訳なく…
と、方々に謝り倒さなければならないような話でホントすみません;
こんなんでも楽しめたよ!!…と仰って下さる心優しいお方は、どうぞ帰り際にポチッと拍手でも押してやって下さいませ。
ここまでお付き合い下さいまして、ありがとうございました!!





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