3.






 予想を遥かに超えた少年の言葉に、一瞬、ポーランドの思考が停止する。
「え?」
「あれ?聞こえなかった?そんなに小さい声で言ったつもりはないんだけどなぁ。仕方ないからもう一度言うね。僕、リトアニアが欲しいんだ。ね、だから僕にちょうだい」
「………領土をよこせ、ってことなん?」
 投げかけられた言葉を漸く咀嚼して、ポーランドはきっと眦を釣り上げた。
 リトアニアの家は実り豊かな森林に覆われ、バルト海沿岸部には琥珀の産出地を多く抱えている。欧州に存在する国で、リトアニアの家を狙っているものはけして少なくはない。これはリトアニアの同盟国である俺に対しての宣戦布告か―――?ポーランドは身構えたが、少年は心外だというように首を横に振った。
「違うよ。領土が要らないと言ったら嘘になるけど、でも、それよりも僕は、彼と友達になりたいんだ」
「……………」
「僕ねぇ、やっと自由の身になれたんだよ。もうタタールの言いなりにならなくてもいいし、西の国とだって充分に戦えるくらい強くなったんだ。僕にはもう、彼と友達になれるだけの資格があるんだよ。君には他にも友達がいるみたいだし、別に一人くらい手放してもいいでしょう?だから、リトアニアは僕が連れて帰るね」
「なっ……?ちょっと待つし!」
 得体の知れない相手への恐怖も忘れ、ポーランドは思わず少年の腕を掴んでいた。
「リトを連れて行くって、どういうことだし?」
「だって、友達ってずっと一緒にいる相手のことをいうんでしょう?だったら、連れて帰るのは当然だよね」
「ふっざけんなだし!いきなりそんなこと言われて、俺が、はいどうぞって答えるとでも思っとるん?そーゆータチの悪い冗談は他所で言えだし」
「やだなぁ、僕は本気だよ。欲しいと思ったもの何でも手に入れられるのは、強い国の権利でしょう?弱い国に生き残る権利なんてないし、どうしても生き残りたかったら強い国の庇護下に入るしかないもんね。僕は強いから、リトアニアのことをずっと守ってあげられるよ。君と一緒にいるより、そっちのほうが彼のためにもなるんじゃないかなぁ?」
「俺がリトを守れんとでも…」
 言いかけて、足を痛めてリトアニアに負担を掛けている我が身の現状に思い至り、ポーランドははっと口を噤んだ。
 思えば、確かに国としてのポーランドは、隣国であり同盟国でもあるリトアニアを軍事・経済の面で支えているが、自分たち個人のことに限って言えばどうなのか。戦場では、彼の背中は常に自分の前にあった。自分はいつだって、あの背中に守られてきたのだ。自覚していない訳ではなかったが、それを改めて認識するのは胸に痛かった。
 ポーランドの沈黙を肯定と受け取ったのか、少年は再び嬉しそうに笑った。
「ね、やっぱり、僕と一緒のほうがいいって思うでしょう?」
「そ、そんなんお前が決めることじゃないし!大体何なんよ、お前のその言い方。くれるだのちょうだいだのって、リトは物じゃないし!もし、一億歩譲ってリトとお前が友達になったとしても、俺がリトの友達をやめる理由にはならんし。そもそも友達ってそーゆーもんじゃなくね?」
「悪いけど、君が何を言ってるのか僕にはわからないなぁ。だって、友達になるってことは、僕のものになるってことでしょ?ずっと一緒にいてくれて、何でも言うことを聞いてくれて…友達っていいよね。だから僕、ずっと友達が欲しかったんだ」
 何も疑う様子もなくそんな言葉を口にする少年を見て、ポーランドは全身の血が下がる思いがした。おかしい。この少年はどこか壊れている。まともな考え方とはとても思えないようなことを、こんなにもにこやかに楽しそうに話せるなんて。いや…そもそも彼は、顔を合わせたその瞬間からずっと笑顔だった。まるで―――それ以外に表情の作り方を知らないとでもいうかのように。
「―――お前みたいなヤツに、リトは渡さんし」
 威嚇をこめた低い声に、少年の片眉がピクリと動いた。
「やれやれ、物わかりの悪い国だよね君。折角こちらが平和的に物事を進めようとしてあげてるのに」
「一方的に押しかけてきて、人の友達をよこせとか言うヤツのどこが平和的なんよ!?」
「だってさ、わざわざこうしてお願いに来てるんだよ。別に僕は君をやっつけて彼を連れて帰っても良かったんだけど、元友達のボロボロな姿を見るのは、リトアニアだって辛いだろうし。ねえ、君は今までずっと、彼を独り占めしてきたんでしょう?そろそろ僕に譲ってくれてもいいじゃない。君が大人しく彼を手放すのなら、僕も何もしないでいてあげる。でも、逆らうなら―――君も、君の仲間たちも、どうなるかわからないよ……?」
「!?…まさかお前、ラトとエストニアに何かしたん!?」
「知らないなぁ。僕は可能性の話をしたまでだよ。でも、君が僕の言うことに素直に頷いてくれるなら、何もしないであげるっていうのは本当だよ。彼一人を手放すだけで、誰も傷付かずに済むんだもの、悪い話じゃないと思うけどなぁ」
 まるで聞き分けのない子供を宥めるかのような少年の口ぶりに、ポーランドは奥歯をぎりっと噛みしめた。
 自分たちは国である。故に、国として迫られた選択に、個人的な感情を持ち込んではならないということは、痛いほどに理解している。だが、この少年はリトアニアを手に入れる為なら、ポーランドを倒すことも辞さない構えでいる。この「倒す」は恐らく、ポーランド個人と殴り合いをするという意味ではないだろう。もしそうなら、国としての自分の強さを誇示するようなことは言わないはずだ。
 戦争は国土と民を疲弊させ、多くの悲しみと怒りを生む。少年の国力が実際どれほどのものなのかはわからないが、喩え相手がどこの国であろうと、戦えば必ず民に犠牲を強いることになる。不当な侵略に抵抗することに迷いはないが、自分たちの個人的な問題で国そのものを戦火に巻き込む訳にはいかない。国として生まれた存在なら、誰もが当然とするだろう心得を、この少年は最初から持ち合わせていないかのようにすらポーランドには思えた。
 捉えどころのない漠然とした恐怖感が、今やはっきりとした形を成して全身を支配する。怖い。理解出来ない。震えが細波のように襲ってくる。―――どうすればいい?俺は何を選べばいい?リト、助けて―――汗ばむ掌を握りしめたその時、はにかむように笑った親友の顔が脳裏を過ぎり、ポーランドははっとした。
 必ず帰ってくる―――確かに彼はそう言った。リトアニアはこれまで、どんなことがあってもポーランドとの約束を破ったことはなかった。彼に出来ることが自分に出来ないはずはない。
 そうだ。帰る、と彼は言った。それは、リトアニアは自分の帰る場所として、ポーランドの隣を選んだということだ。
「悪いけど―――俺、リトと約束したんよ。絶対に、リトが帰ってくるまで待ってるって。だから俺は、リトの帰るための場所を、誰にも渡すつもりはないんよ」
 これまで笑みに細められていた少年の瞳が、ふいに見開かれた。焚き火の灯りを映じた紫水晶の瞳の奥で、影としか表現しようのない黒いものが熾火のようにちらついている。
「ふうん、そう」
 一瞬、何が起こっているのか理解出来なかった。少年の虚ろな笑みが至近距離に迫ったかと思うと、酷い圧迫感と閉塞感を覚えてポーランドは喘いだ。首を締められている―――気付いて必死に相手の腕を引きはがそうと藻掻くが、喉に食い込む力は緩まる気配を見せない。
「ムカつくよねぇ君。何か偉そうだし、全然話通じないしさぁ。いいよ。つまりさ、僕のものになるってリトアニアがそう言えば問題ないってことでしょ?ここで君とくだらない言い合いをするのもそろそろ飽きてきたし。僕はリトアニアのところに行くから、君はいつまでもここで彼を待ってればいいんじゃない?ま、来ないと思うけどね」
 ふふっと肩を竦めて笑い、少年は勢いよくポーランドを放り出した。急に解放されてげほげほと咳き込むポーランドには目もくれず、少年は大股で洞窟の外へと歩み去ってゆく。
 引き攣る喉を何とか宥めてポーランドは立ち上がった。途端に足首に激痛が走るが、今はそれに構っている場合ではない。あの少年をリトアニアのところに行かせてはならない。確信が警鐘となってポーランドを突き動かした。
 腫れた足を無理やりにブーツに押し込め、痛みを堪えて懸命に出口へと進む。降り積もる雪に隠されて、自分たちがここに辿り着いた時の引き摺るような足跡と、炭焼き小屋に向かったリトアニアの足跡は既に跡形もなく消えていた。今、雪の上に点々と残された足跡は一つ。あの少年が付けたものだろう。
 この跡が、雪に消されてしまう前に。
(アイツには―――絶対渡さんし!)
 歯を食いしばり、無造作にマントを羽織ると、ポーランドは少年の後を追って歩き出した。




 焦りは全てにおいて禁物だ。そう自分に言い聞かせながら慎重に進んでいるうちに、運よく正しい道へと戻ることが出来たらしい。どれくらいの時間歩き続けたかもわからなくなった頃、ふと上げた視線に一際大きな樫の木が飛び込んできた。あれはこの山に登る時に、いつも目印としている木だ。自分の居場所を把握して、リトアニアの顔に安堵の笑みが浮かぶ。目的地の炭焼き小屋に確実に近付いていることがわかって、これまで糸のように張り詰めていた心にも余裕が生まれた。
(近道しよう―――確か、こっちのほうから行けたはず……)
 記憶を頼りに、リトアニアは雪の積もった繁みを踏み越え、奥へと歩を進めた。道を外れて少し行くと、突然視界が開ける。切り立った崖の上に出たのだ。
 この崖下は貴重な薬草の採取場所でもあり、細く頼りないものではあったが谷底へと下る道が付けられていた。勿論、踏み外せば下方までの転落は免れない。加えて晩秋の陽は短く、周囲は既に暗くなりかけている。だが、これまでに幾度も訪れた場所だという経験と、気を付けさえすれば大丈夫だという自信とが、リトアニアにこの道を選ばせた。
 幸いにして雪の降りも弱くなってきた。今ならそれほど労せず麓まで下りられるかもしれない。気持ちを落ち着けるように大きく息を吐き、リトアニアは足元を確かめながら徐に一歩を踏み出した。その時。


「見ぃ付けた」


 背後から聞こえた声に、息が止まりそうになるほど驚いて、リトアニアはびくりと肩を竦めた。空耳ではない。恐る恐る振り返った先には、まるで雪の化身であるかのような白銀の髪の少年が立っていた。
 今朝の光景が瞬時に脳裏に甦り、リトアニアの深緑の瞳が大きく見開かれる。
「――――あなたは……!?」
「やっと会えたね。久し振り、リトアニア」
 自分のことを知っているかのような少年の親しげな口ぶりに、リトアニアは首を傾げた。
「えっと……前にお会いしたことがありましたっけ?」
「やだなぁ、忘れちゃったの?でもまあ、仕方ないか。あれから三百年近くも経ってるんだもんね。でもね、僕は一日たりとも君のことを忘れたことはなかったんだよ」
「三百年……?」
 リトアニアは途方に暮れたような声で呟いた。人より遥かに長い時を生きる自分たちは、その分重ねられた記憶を人よりも多く長く保つことが出来るが、流石に三百年も昔の出来事を即座に思い出すのは難しかった。幾度も会ったことがあるならともかく、一度や二度顔を合わせただけの相手のことなど、そうそう覚えていられるはずもない。
 だが、少年のほうはリトアニアを覚えているという。三百年も前に会ったきりらしい自分をだ。一体どこで、どんな出会い方をした相手だっただろう。
「あの……すみません。名前を教えて貰えますか?」
 名がわかれば何かの糸口になるかもしれない。そう考えてリトアニアは訊ねた。少年は一瞬きょとんとした表情を見せたが、すぐに元のふわりとした笑顔に戻った。
「僕の名前かぁ。そう言えば教えてなかったね。ふふっ、一応モスクワ大公国なんて呼ばれたりもしてるけど……そうだねぇ―――ロシア……うん、ロシアって呼んでくれればいいよ」
「ロシア―――ルーシの国…?って、えっ……!?」
 唐突に、リトアニアの脳裏にとある光景が鮮明に蘇った。
 あれもやはり、こんな風に雪の降る日だった。身を切るような寒さの中、家路を急いでいた自分の前に現れた一人の少年。ぼろぼろの衣服とマフラーを身に纏い、手袋のない素裸の手は赤く腫れ上がって所々に血を滲ませていた。はにかむようなその笑顔を、おずおずと触れてきた手の感触を、リトアニアは今はっきりと思い出すことが出来た。
「もしかして―――あの時の、タタールの…?」
「そう。やっと思い出してくれた?」
 そう言って、少年はまた笑った。あの時はリトアニアより僅かに低かった背も、今では逆に見上げねばならないほど高くなり、子供っぽく骨ばっていた身体つきも青年のそれに近いがっしりした骨格に変わっていたが、未だあどけなさを残した顔には、あの頃の面影がはっきりと見て取れる。
「僕ねぇ、やっとタタールのくびきから解放されたんだ。もうあの頃みたいな辛い生活をしなくても良くなったんだよ。それでね、僕、自由になったら真っ先に君に会いに行こうって決めてたんだ。やっとこうして会えて、僕今凄く嬉しいよ」
 ロシア。それは長きに亘って東方のタタール族に支配され続けてきたルーシ族の悲願―――ここは自分たちの国なのだという誇りと希望が込められた名だった。圧政から逃れ、漸く独立を果たした人々が形作った国。その化身である少年は、酷く嬉しそうな笑みを浮かべてリトアニアの手を取った。あかぎれの跡の痛々しく残る掌は、しかし幼かったあの頃とは比べようもないほどに大きく、リトアニアの手をすっぽり包み込めるほどにまで成長していた。
 国として生まれた存在にとって、他国の支配下で生きるということは、常に消滅の危険と隣り合わせにあるということでもある。三百年前のあの小さな少年が、どのような思いでその現実を受け入れてきたのか。そして、ロシアへと成長を遂げた彼が、ここへ至るまでにどれほど過酷な道程を歩んできたのか。抗争の歴史には事欠かないものの、未だ他国の侵略に膝を折ったことのないリトアニアには想像もつかなかった。ただ、同じ国として、彼の受けた痛みが少しでも和らぐことを願いながら、取られた手を握り返すことしか出来なかった。
 しかし、物思いは長くは続かなかった。雪混じりの風に頬を嬲られ、リトアニアは現在の状況を思い出す。
「何でこんな山の中、それも雪の日に俺を追ってきたんですか?遭難するかもしれないのに、危ないじゃないですか」
「平気だよ。雪の降ってる場所は、僕にとっては庭みたいなものだからね。それに今は僕も結構大きな国になっちゃったから、政治的な用件抜きで他の国を気軽に訪ねるってことが出来なくなっちゃったんだよね。だから、君がヴィリニュスを離れる機会が来るのをずっと待ってたんだよ」
 ロシアはそこで一度言葉を切り、確かめるようにリトアニアの瞳を覗き込んだ。
「僕の友達になってくれるよね?」
「は、はい…」
 思いのほか真剣な表情で訊ねてくるロシアに気圧されるように、しかし大して深くは考えずにリトアニアは頷いた。簡単なことだ。何もこれほどの時を置かずとも、三百年前のあの時にだって躊躇なく承服していた答えなのだから。
「良かったぁ。それじゃ、早く帰ろう!」
 まるで花が綻ぶように、ぱっと顔を輝かせて笑うと、ロシアはリトアニアの手を引いた。
「え…!?帰るって、どこへですか?」
「決まってるじゃない。僕のうちだよ。今日から君のうちにもなったんだから、帰る場所はそこしかないでしょ?」
「……ちょっ!?何を言ってるんですか!?」
 リトアニアは慌ててロシアの肩を掴んだ。なあに?と邪気のない顔で振り向いたロシアに、困惑した口調で告げる。
「待って下さい。俺の帰る場所は、あなたのうちじゃありません。それに、友達がまだこの山にいるんです。置いて行くことは出来ません」
「どうして?君は僕の友達だよね?他の人なんて放っておけばいいじゃない」
「そんな訳にはいきません。俺にとってはポーランドも大切な友達なんです」
「ふうん。でも、君は僕のものになったんだから、僕の言うことだけを聞いていればそれで充分だよねぇ」
「僕のものって……俺はあなたの所有物じゃ…!」
「えー。だって君、言ったじゃない。僕の友達になるって。まさか今更、嘘でした、なんてことは言わせないよ?」
 にこやかに笑いながら、穏やかな口調でロシアは言う。緩やかな笑みの形に細められた目の、その奥に透けて見える紫水晶色の瞳が、少しも笑っていないことに気付いてリトアニアは総毛立った。












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