2.






  予想どおり、幾らも経たないうちに地面は白い結晶に覆われ始めた。吐き出した息が白く弾む。身体は最早すっかり冷え切っていて、歩くことをやめればその瞬間に鼓動さえも止まってしまいそうな心持ちがした。
「ポーランド、大丈夫?」
「平気だし!」
 小柄で体力のないポーランドの息は早くも上がっている。リトアニアは心配そうに眉を顰めたが、彼がこういうときにけして弱音を吐かない性格なのも知っていたので、ただそのぎこちない足運びを横目で見守るに留めた。
「山の天気が変わりやすいのは知ってるけど、まさかこんなに早い時期に雪が降り始めるなんて予想外だったね」
「来るの来週に延ばしてたら、残っとったキノコ全部雪の下に埋まっとったかもしれんし。今日来て良かったんじゃね?」
「そうだね。でも、無事に山を下りられないと、折角採ったそのキノコも無駄になっちゃうけど」
「何言うとるん。下りられん訳ないし。俺の明日の夕飯は、リトの作ったキノコのスープって、100年前から決まっとるんよ」
「……その予定に、ポーランドが手伝ってくれる、ってのは入ってないの?」
「俺は食べるの専門って1000年前から決まっとるんだし〜」
 紡がれる言葉はいつもどおりの軽口だが、口調は普段の威勢に遠く及ばない。早くどこか休める場所を見付けないと……焦りは禁物だと自分に言い聞かせながらも、やはり逸る気持ちは抑えきれず、リトアニアはぎりっと奥歯を噛みしめた。
「うわっ!?」
 足元に転がっていた石を気付かず踏みつけて、ポーランドはがくんとバランスを崩した。支えようと伸ばしたリトアニアの手も間に合わず、ポーランドは足首を押さえてその場に蹲った。
「ポーランド!」
「―――ッ…何でもないし!」
 立ち上がろうとして、ポーランドは小さく呻いた。強い痛みと違和感に、足に力を入れることが出来ない。
「ポーランド、無理しないで」
 険しい表情で言い、リトアニアは彼の傍らに膝を付いた。しかし手当てをするにも、雪の降り積もった山道の只中は幾ら何でも場所が悪い。一度ブーツを脱いでしまえば、腫れや熱を持った足に再びブーツを履かせるのは難しくなる。山道を素足で歩く危険を冒す訳にはいかない。せめて雪を凌げる場所まで移動する必要があった。
「ツイとらんし……」
 流石に気落ちした表情で俯くポーランドの背を元気付けるように摩りながら、祈るような気持ちでリトアニアは顔を上げた。
 いつの間にか、森の外れのほうまで迷い出てしまったらしい。まばらになり始めた木々の向こうに、黒々とした断崖が切り立っているのが見える。その岩肌にぽっかり開いた黒い穴を認めて、リトアニアはポーランドの腕を掴んだ。
「洞窟がある…!ポーランド、あそこまで歩ける?」
「当然だし」
 よろめきながらも何とか立ち上がったポーランドにリトアニアが肩を貸す。二人はそのまま慎重に岩場を歩き始めた。雪の積もった足場は不安定で滑りやすく、一歩を踏み出すのさえ大変な労力を必要とした。ここで転んでリトアニアまで足を痛めるような事態になれば万事休すだ。ピンと張りつめた糸のような緊張感が、二人の全身を支配していた。気力も体力も限界に近づき、身体は鉛のように重かったが、寄り添った互いの体温が、ともすればぼやけそうになる意識を現実に繋ぎとめていた。
 引き摺るような足跡が新雪の上に刻まれてゆく。実際にはそれほどではないはずの距離が恐ろしく遠い。永遠とも思えるような時間をただひたすらに歩き続け、そして漸く辿り着いた洞窟の中へ、二人は半ば崩れ落ちるようにその身を投げ出した。
 一先ずの安堵と疲労に思考は白く飛び、呼吸をするのさえやっとの状態だった。ぐったりと地面に横たわったまま、二人は暫く動けずにいた。悴んだ指先に触れる乾いた地面の感触が、今は酷くありがたい。
 疲労がどっと押し寄せてくる。だらしなく四肢を投げ出した体勢のまま眠りの中へ落ちていきたくなる誘惑を、リトアニアは懸命に堪えた。重い瞼を無理やりこじ開けて、隣に倒れている相棒のほうを見遣る。視線が合うとポーランドは、疲労困憊といった様子の顔にそれでも勝気な笑みを浮かべて見せた。
「何とか―――なったし」
「だね」
 釣られてリトアニアも微笑み、強張った身体を叱咤して起き上がった。水気を含んで重くなったマントを脱ぐ。幸いにして、中に着ていた服は思ったほどには濡れていなかった。
 洞窟の中には時折気紛れに吹き込んでくる風が長い年月をかけて集めたのか、乾いた落ち葉や木の枝があちこちに散らばっていた。内部に充分な広さがあることを確かめてから、リトアニアはそれらをかき集め、手早く火を熾す。手招きでポーランドを呼ぶと、彼は痛めた足を引き摺りながら、火の傍に這い寄ってきた。
「足、見せて」
 なるべく痛みが走らないようにと、慎重にブーツを脱がせる。外気に晒された足首は、早くも熱を持ち始めていた。
「痛む?」
 リトアニアが訊ねると、ポーランドはきゅっと唇を引き結び、強がるような表情をみせたものの、結局黙って頷いた。だんだん痛みが我慢出来なくなってきたらしい。
 リトアニアは鞄の中から小さな麻袋を取り出すと、積もった雪をその中に詰め込んで簡易の氷嚢を作った。赤く腫れ上がった足首に押し当てると、背筋を凍らせるような冷たさにポーランドは小さく息を洩らした。
「無理させちゃったかな…ごめんね、ポーランド」
「はあ?何でそこでリトが謝るんよ?意味わからんし」
 ポーランドは唇を尖らせたが、相対するリトアニアは曖昧な笑みを浮かべただけだった。氷嚢を支える指先は、すっかり冷え切って血色を失っている。それを見ていられず、ポーランドはリトアニアの手から無理やり氷嚢を引っ手繰った。
「リトの手震えてるし。ダサすぎ」
「もう。人が心配してるのに、その言い方はないでしょ」
 茶化した口調で言えば、漸くリトアニアの顔にいつもの穏やかな笑みが戻ってきた。それだけで随分と心が軽くなったような気がして、ポーランドは肩の力を抜いた。極限に近い状況だからこそ、普段のような遣り取りが出来ることが何より嬉しい。
 雪は一向に止む気配を見せない。姿の見えないままのエストニアとラトビアのことは心配だったが、今の状況では下手に捜しに行くことも出来ない。どうか無事でいてくれと、祈るよりほかになかった。
「早く帰ってきちんと手当てをしたいところだけど、雪が止むまではここにいるしかないね…。取り敢えずは体力を温存して、いざというときに動けるようにしておかないと。ポーランド、携帯食料持って来てるよね?」
「……あ〜……」
 リトアニアの問いに、ポーランドは気まずい表情を浮かべて視線を逸らした。
「もしかして…食べちゃったの?もう?」
「だって〜……こんなことになるなんて思わんかったんよ…」
 リトアニアは溜息を吐いて、自分の手持ちの食料を確認した。干し肉が数片と干し杏が数粒。二人で分け合っても一晩くらいなら何とかなる量だが(先ほど採ってきたキノコはきちんとした調理を必要とするものが殆どなので、非常時の食料には向かなかった)、この雪が明日の朝までに止んでくれるとは限らない。折角外が晴れても、その時までに自分たちの体力が持たなければ下山は難しい。ならば、多少なりとも体力が残っている今のうちに行動するべきだ。そう判断して、リトアニアはポーランドを振り返った。
「確か―――この山の麓付近に炭焼き小屋があったよね。そこになら食料が常備してあったと思うから、今から行って取ってくるよ。もしかしたら、着替えや薬も手に入るかもしれないし。すぐに帰ってくるから、それまでポーランドはここで待ってて」
「ちょっ……!?」
 聞き捨てならない発言に、ポーランドは思わず腰を浮かせ掛け、足首に走った痛みに呻いた。
「一人で行く気なんリト?だったら俺も行くし!」
「駄目。その足で雪の中をこれ以上歩ける訳ないでしょ。無理して本当に動けなくなったら、そっちのほうが大変だよ。俺は一人で大丈夫だから、怪我人は大人しく休んでること。わかった?」
 早口で言い募りながら、リトアニアは濡れたままのマントを羽織った。その横顔が怒っているように見えて、ポーランドは唇を噛む。実際、リトアニアは酷く憤っていた。ポーランドに対してではない。傍に付いていながら彼に怪我を負わせてしまった、自身の不甲斐なさに対してだ。
 ポーランドからの返事を待たずに、リトアニアは慌ただしく身支度を整えると洞窟の外へと足を向けた。
「リト」
 背後から投げかけられた声に振り向くと、若草色の眼差しが常にない静けさを湛えてこちらを見つめていた。
「ちゃんと帰って来んかったら承知せんからな。肝に銘じておけだし」
「うん」
 片膝を付き、リトアニアはポーランドの顔を正面から覗き込んだ。寒さと緊張で紅潮した頬にそっと触れ、リトアニアは小さく笑った。
「絶対に帰ってくるよ。約束する」
 ―――ポーランドの意識は、ふいに追憶の果てに飛んだ。自軍の上げる鬨の声と大地を穿つ蹄鉄の音が混じり合い、痛みを伴うほどの大音響となって耳を打つ。埃っぽい戦場の空気。逆光の中に透けて見えた、リトアニアの泥に汚れた顔が鮮明に思い出されて、ポーランドは瞳を細めた。
 不敗と謳われたドイツ騎士団に、絶体絶命の危機に追い込まれたあの時。総大将である自分を置いて、戦場から姿を消したリトアニアを、誰もが臆病な卑怯者と罵った。だが――彼は戻ってきた。勝つために、そして自分を救うために、危険を顧みずにその身を投げ出して。
 一歩間違えれば、命を落としかねない危険な賭けは、敵だけでなく味方の兵をも驚愕させたが、その機転と功績を讃えられてもリトアニアはただ静かに笑っているだけだった。必ず戻るって約束したから―――たった一言だけ告げられたその言葉に、酷く嬉しいような、泣きたいような気持ちに襲われたことを、ポーランドははっきりと思い出した。
「―――ん、行って来い」
 知らず詰めていた息をゆっくりと大きく吐き出して、わざと居丈高にポーランドはそう言った。不安がないと言えば嘘になる。けれど、あのときと同じ表情を浮かべた深緑の瞳を前にすると、掛けられる言葉などほかに見付からなかった。普段は穏やかであまり自分の意見を押し通すことの少ないリトアニアだが、その反面、一度譲らないと決めたことに関しては、誰が何と言おうと貫き通す強情さも持ち合わせていることを、ポーランドはよく知っている。引き留めたところで結局、彼は行くのだろう。ならば、自分に出来ることはただ一つ、彼を信じて待つことだけだ。
 小さく、だがしっかりと頷いて、リトアニアは立ち上がった。その後ろ姿が出口の向こうに霞んで見えなくなっても、ポーランドは暫し、彼の去った方向から瞳を逸らすことが出来なかった。




 ―――それから、どれほどの時間が流れただろう。
 抱えた膝の間に顔を埋めるような姿勢で座り込んでいたポーランドは、いつしかうとうとと微睡み始めていた。
 時折強く吹き荒れる風の音と、焚き火のぱちぱちと爆ぜる音以外は何も聞こえない。まるで世界の全てから切り離されてしまったかのように、そこは静かな空間だった。だが、その静寂を破った微かな物音に、ポーランドの意識は一瞬にして覚醒する。
「リト!?」
 相棒が帰って来たのかもしれない。期待を込めて視線を跳ね上げたポーランドの顔は、次の瞬間驚きに凍りついた。
 そこに立っていたのは、厚手の灰色のコートと白いマフラーに身を包んだ少年だった。雪のように淡い銀色の髪が、焚き火の照り返しを受けて紅く輝いている。ポーランドと目が合うと、少年は大柄な体躯の割にあどけなさを残した顔ににっこりと穏やかな笑みを浮かべた。綺麗な微笑みだったが、綺麗に整いすぎているが故に掴みどころのない―――寧ろ空恐ろしさのようなものさえ感じさせる、そんな笑顔だった。ポーランドは内心怯えたが、それを悟られるまいと精一杯険しい顔つきで相手を睨みあげる。
「……誰だし?」
「やあ、こんなところにいたんだね。捜しちゃったよ」
 ポーランドの問いには答えず、少年はのんびりとした声で言った。警戒心を露わにした猫のような視線にも動じることなく、少年はポーランドの傍らまで歩み寄るとその隣に腰を下ろした。彼の発する気配から、自分たちと同質のものを読み取って、ポーランドはドキリとする。
「お前………国なん?」
「うん、そうだよ」
 今度は事もなげに少年は答えた。緊張感の欠片もない、余裕に満ちた口調だった。恐らく彼のほうは、ポーランドが国であることなどとっくに気付いているのだろう。もしかしたら、最初から知った上で近付いて来ているのかもしれない。
 欧州は狭い場所に数多くの国がひしめき合うように存在しており、ポーランドといえどもその全てを把握している訳ではない。名前は聞いたことはあっても顔を知らない国はたくさんいる。名前すら聞いたことのない国が存在していたところで、別段何の不思議もない。目の前の少年も、そういった「知らない国」の中の一人なのだろうか。興味と困惑の入り混じった眼差しで、ポーランドは少年をまじまじと見つめた。髪や肌の色、顔の造作からして、東欧もしくは北欧のどこかなのだろうと見当は付けたが、ポーランドにわかるのはそこまでだった。
 しかし幾ら気になるとは言え、元来人見知りの激しいポーランドに、初対面の相手の素性を聞き出すなどという芸当が出来るはずもなかった。もしこの場にリトアニアがいたら、ポーランドはとっくに彼の背中に隠れているところだ。どこの誰かもわからない国と同じ空間に二人だけでいるのは、酷く不安で落ち着かない。これなら、一人きりで待っていたほうがまだマシというものだ。
(うう〜…リト早く帰って来てー……)
 居た堪れなさを打破するための会話の糸口すら見付からない。声には出さず、胸の中だけでポーランドは泣き言を呟いた。だが、そんなポーランドの胸の内を見抜いたかのように、少年は自分から話しかけてきた。
「あのさ、君、ポーランドだよね?」
 その声は柔らかく、口調は親しげだった。少なくとも表面上は、敵意や害意のようなものは感じられない。
「―――そうだけど?」
 答える声は緊張のあまり酷くつっけんどんになったが、少年は意に介した様子もなく、ふふ、と嬉しそうに笑った。
「良かったぁ。実はね、僕、君に会いに来たんだ」
「―――俺に?」
 相手の真意を測りかね、ポーランドは訝しげに眉を顰めた。
 国が国を訪ねるというのは、それだけで政治的意味を持つ行為だった。ポーランド自身も東欧随一の大国として、他国と会談の場を持った経験はそれなりに多い。だが、それらは全て宮廷の中で、予め決められた手順に則って開かれたものだ。国としてではなく個人として親しくしているバルト三国やハンガリーなどのごく一部のものを除けば、ポーランドは他国と謁見の間以外の場所で顔を合わせたことがない。
 先触れはおろか供もつけず、加えて王宮でなくこのような雪の降る山へ。自分を訪ねて来るにしても、何故このような形を取ったのか。考えてもわからず、混乱に陥りかけるポーランドに向かって、少年はにこやかな声で告げた。
「うん。君の友達……リトアニアっていったっけ?ねえ、あの子を僕にちょうだい」












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