■Ночь на Лысой горе■







 1.






 冬が来る。冬が来るよ。
 色も熱もない、ただ一面の白に覆われた世界。
 無慈悲なほど圧倒的な、だからこそ嘘のない世界。栄光も虚飾も意味を為さない、誰もが等しく命ひとつの存在となり果てる世界。
 ああ、冬が来るよ。冬が来る。




 薄曇りの空から注ぐ光は頼りなく、間近に控えた季節の訪れを否応なく肌に感じさせる。
 バルト海沿岸部の気候が比較的穏やかなのに対し、寒暖差の激しい内陸部の秋は短い。山々が雪で閉ざされてしまう前に、出来るだけ多くの食料を集め、来たるべき冬に備えておかなくてはならない。大切な仕事ではあるが、気心の知れた仲間との遠出は楽しみでもあった。
「マジでいっぱい見付けるからな」弾む足取りのまま、ポーランドが得意げに籠を掲げる。後に続くラトビアの眼元がじんわりと潤んでいるのは、「可愛い毒キノコがたくさん集まりそうですね」と余計な返しをして頭を小突かれた所為だろう。他愛ないやり取りを目にして溜息をつくエストニアの澄ました横顔も、普段に比べてどことなく楽しげな気配を帯びている。
 秋の山は実りの宝庫だ。落ち葉の陰や気の根元に隠れたキノコを見付けだすのは、まるで宝探しをしているかのように楽しい。次第に重くなっていく籠の感触も、採れたキノコでどんな料理を作ろうかと思いを巡らせるのも、この季節ならではの楽しみだ。収穫の期待に浮き立ってはしゃぐ皆を、同じ気持ちで眺めていたリトアニアは、しかしふと背後から視線のようなものを感じて振り向いた。
 

(見ぃ付けた)


 見れば街道脇の樅の樹の根元に、一人の少年が佇んでいた。年の頃は自分たちと同じか、ともすればやや上のようにも見える。吹き抜ける風に揺れる髪は白銀で、見つめているうちに風景に霞んで消えてしまいそうなその淡さは、降りしきる雪の冷たさをリトアニアに思わせた。
 厚手の灰色の古びたコートを隙なくきっちりと着込み、擦り切れてぼろぼろになった白いマフラーを首に巻いた出で立ちは、寒さの厳しい地であるとは言え、まだこの季節には幾分早い。山に入るに当たって、一応は自分たちも防寒用のマントを持ってきているが、それはまだ背負い鞄の一番底に仕舞われたままだ。あんな格好で暑くないのかな……?リトアニアは首を傾げたが、直後、少年の周囲の気配がひんやりと冷気を帯びているように感じられて背筋がゾクリとした。
(見付けたよ)
 少年がゆっくりと顔を上げる。こちらをじっと見つめてくる瞳は、黄昏を思わせる鮮やかな紫だった。美しいのに、どこか恐ろしい、酷く現実離れした熱のない色。その瞳が微笑みを浮かべるのを見た瞬間―――リトアニアは周囲一帯の空気が凍りついたように感じて息を呑んだ。
「―――リト、どしたん?」
 唐突に肩に手を置かれ、リトアニアはびくっと身体を震わせる。振り向くと、金色の髪をさらりと揺らしたポーランドの怪訝そうな顔が見えた。やはり足を止めてこちらを振り返るエストニアやラトビアとの間には、もう随分と距離が出来てしまっている。
「………ポーランド。今、そこに男の子がいたんだけど……」
 喉に絡むような声で呟きながら、視線を樅の樹の根元に戻して、リトアニアは愕然とした。
 ―――誰も、いない。
 ぽっかりと空いたその空間を見つめ、リトアニアは信じられないような面持ちで瞬いた。どっしりと聳え立った樅とその周囲の草花が、そよぐ風に葉を揺らしている様は平和そのもので、凍りつきそうに冷え切っていた空気も、いつの間にかその温度を取り戻している。
「昼間っから寝ぼけてるなだし」
 唇を尖らせた相棒に頬を抓られて、リトアニアも我に返った。「ちょっ…やめてよ痛いから」転がり出た言葉は殆ど反射のようなもので、実際それほど強く抓られたわけではない。ポーランドもすぐに手を放して、先を急かすように顎をしゃくった。
「ボケッとしとるのが悪いんよ、さっさと来んと置いてくし〜」
「もう、待ってよ。すぐ行くから」
 駆け出した相棒の背中に声を掛けてから、リトアニアはもう一度樅の樹を振り返った。幾度となく通った道、見慣れた風景。その中の一角に立っていた少年の姿を思い返す。まるで幻のように儚げな色彩の少年だったが、幻と言い切るにはその存在感はあまりにも鮮明にすぎた。
(何だろ…この感じ……)
 背筋がゾクリと疼くような感覚が抜け切らない。忘れようにも、あの硝子細工のような冷たい紫色は、しっかりと脳裏に焼き付いてしまって暫く離れそうになかった。雪色の淡い髪、風を孕んで靡く白いマフラー…その面影に何かを思い出しそうになって、リトアニアは思わず空を振り仰いだ。薄い雲に覆われたそれは、あの少年の髪の色に酷く似ていた。




「なあなあリト、これマジ可愛いと思わん?」
「ちょっとポーランド。どう見ても毒キノコでしょそれ」
 訪れた山は想像どおりの恵みに溢れていた。樹の根元に積もった落ち葉を掻き分ければ、その下から様々な種類のキノコがひょっこりと顔を覗かせる。数日前に降った雨のお陰か、どれもふっくらと傘が大きく、香りも良い。スープにしたらさぞかし美味しいだろう…そう考えるリトアニアの脳裏からは、先ほどの不思議な出来事は殆ど消えかかっていた。
 あまりにも簡単すぎる宝探しに早々に飽きてしまったのか、ポーランドの関心はいつしか色鮮やかなものや奇妙な模様のキノコを探すほうに向かってしまったらしい。食用とは到底思えない毒々しいキノコを摘み取っては、隣のリトアニアを呆れさせることを繰り返している。やっぱりこうなったじゃないですか……と再び涙目になりかけたラトビアに、余計なことを言うほうが悪いんだよ、とぐっさり止めを刺して、エストニアはリトアニアたちとは反対側の繁みを探索しはじめた。隠れているキノコがまだあるかもしれない。
「でもピンクのキノコとかマジ珍しくね?もしかしたら味も吃驚するくらい美味いかもしれんし。食べてみてもいいと思うんよ〜」
「理屈にも何もなってないよ。それでお腹壊したら、誰が面倒みると思ってるの!?」
「そんなんリトに決まってるしー」
「もう、ふざけてないで真面目にやってよ。ポーランドの籠のキノコ、まだ俺の採った量の半分にもなってないよ」
 叱られて、剥れた顔でピンクのキノコを放り出したポーランドの視線が、数歩先の地面に注がれる。
「あ、ジロール見付けたし」
 鮮やかな杏色の傘が落ち葉の隙間から覗いている。色は派手だが食べられるキノコだ。駆け寄って摘み取ったポーランドが顔を上げると、少し離れた場所にまたしても杏色の傘が見えた。
「あっちにもあるし」
「ポーランド!あんまり奥に行っちゃダメだよ!」
「だってこんなにいっぱいあるんよ〜。折角見付けたんだから持って帰らんと損だし」
 リトアニアの呼ぶ声もどこ吹く風で、ポーランドは地面に座り込んで夢中でキノコを採り続けた。仕方ないなぁ、と肩を竦めながら近付いてきたリトアニアも、ポーランドが差し出した杏色のキノコを目にして歓声を上げた。
「わあ、凄いね。こんなにあるんだ」
「なっ!これ塩漬けの鹿肉と一緒に煮込んだら絶対美味いし」
「そうだね。じゃあ、明日は市に買い物に行こうか。いい肉が手に入るといいんだけど…。あ、それから香草と蜂蜜と岩塩も買っておかないとね」
 笑って交わす会話の間にも、作業の手は緩めない。二人分の籠は摘み取ったキノコの山で、ずしりとその重みを増した。
「これくらいでいいかな…あれ?」
 手についた土を払いながら立ち上がり、軽く周囲を見回して、リトアニアは深緑の瞳を僅かに見開いた。
「エストニアとラトビアは?」
「―――え?」
 言われてポーランドもぐるりと辺りを見渡す。黄金色に染まった森の中、立ち並ぶ木々の間のどこにも、見慣れた姿は見当たらなかった。
「近くにいるのかな?」
「呼んでみるし。エストニアー!ラトー!」
 ポーランドの声が周囲に木霊し、近くの繁みから野鳥が慌ただしく飛び立った。その羽ばたきが聞こえなくなっても、エストニアとラトビアは姿を現さない。
 もう一度、今度はリトアニアが二人の名を呼んだ。張り上げた声が秋の澄んだ空気の中で響く。応えは――ない。呼び声の余韻が消えると、森はしんと静まり返った。これまで心地よいばかりだったその静寂は、急に質量をもって自分たちの上に圧し掛かってきたように感じられた。
「近くにいたと思ったのに……いつの間にはぐれたんだろう?キノコ採りに夢中になって、全然気付かなかった」
「そんなん、向こうだって同じだろうからおあいこだし。悩んどる暇があったら探せばいーんよ」
「――うん、そうだね……っくしゅん」
 ふいに寒さを感じて、リトアニアは小さくくしゃみをした。見上げれば、空を覆っていた雲が随分とその厚みを増していた。気付けば気温も随分と下がって来ているようで、肌に触れる外気はひんやりと冷たくなっている。
「これ着たほうがいいし」
 ポーランドは鞄の底からマントを引っ張り出した。リトアニアも急いでそれに倣う。寒さを自覚すればその分だけ不安も増した。この森のどこかで、エストニアとラトビアも寒さに震えているのだろうか。あまり遠くに行っていなければいいのだが。
「二人が一緒にいればいいんだけど…。エストニアは大丈夫だろうけど、ラトビアが一人になってたらと思うと心配だな…」
「泣き虫で寂しがりのラトが、一人でどっか行くとは思えんし。俺らと一緒におらんのだから、エストニアと一緒じゃね?」
「…うん、そうだといいけど……」
 尚も不安な表情のままのリトアニアの鼻先に、ポーランドはびしっと人差し指を突きつけた。
「リト。悪い言葉は悪い未来を呼ぶんよ」
「…………ポーランド…」
「早く二人を見付けて合流すればいいだけの話だし。こんな所でもたもたしてないでさっさと行くし!」
「―――うん、わかった」
 若草色の瞳の力強い輝きに、吸い込まれるようにリトアニアは頷いた。荷物を抱え直し、歩き出そうとしたところで一際強い風が吹き付けてきて、二人は一瞬身を竦ませる。肌に突き刺さるような冷たさは、既に秋を通り越して冬のものだ。灰色の雲が頭上の空を物凄い勢いで流れてゆく。
「降るかもしれない―――急ごう、ポーランド」
「わかっとるし!」
 視線を交わして頷きあい、二人は山道を足早に歩き始めた。




 冬が来る。冬が来るよ。
 温もり全てを奪い去り、涙さえも凍らせる冬が。
 寒いのは嫌い。寒いのは怖い。


 ―――だからお願い。一人にしないで。




 最初は霧のように細かかった雨は、時間が経つにつれて次第に強くなってくる。鬱蒼とした繁みでただでさえ視界の悪い山道に雨粒のヴェールがかかり、泥濘んで滑りやすくなった足元は酷く覚束ない。来るときはあんなに楽しかった道なのに―――前髪を伝って流れ落ちてくる水を手の甲で拭って、リトアニアは必死に目を凝らした。どこかに長身のエストニアの後ろ姿が、ラトビアのふわふわした金の髪が見えないか―――。
「リト」
 ふいにマントの裾を引いた腕の力に、リトアニアはがくんとつんのめった。抗議しようと口を開きかけたが、ポーランドの思いのほか真剣な眼差しに、喉元まで出掛かった言葉が詰まる。
「なあ、来るとき、こんなとこ通ったっけ?」
「……え?」
 慌てて顔を上げ、周囲の景色を見回してみる。蔦の絡みついた楢や楡の木の立ち並ぶ細い道。この山の中でならどこででも目にするありふれた風景だ。だが、見慣れたはずの景色も空の暗さと煙る雨に包まれた中では、酷く近づきがたい、薄気味悪い場所のように見える。知らない世界に迷い込んだみたいだ……リトアニアはそう思った。いや、もしかしたら実際そうなのかもしれない。言われてみれば……ここは本当に来るときに通った道だっただろうか?
 遊びなれたと言えるほど馴染みが深い訳ではないものの、それでも一年に数度、ことに実りの季節には必ず訪れていた場所だ。迷うはずなどないという傲慢な思いが、心のどこかにあったことは否めない。よく見知ったつもりでいても、時間や天候等、様々な条件の違いによって、全く違う顔を見せるのが山の恐ろしさだ。加えて蓄積された疲労や焦りは、人の感覚や判断力を容易に鈍らせる。
「迷った……かも……?」
 薄暗い山道に、二人は愕然と立ち尽くした。しとしとと降り続く雨が二人の髪を、マントを重く濡らす。纏わりついた水の冷たさが、じわじわと身体を侵食してゆく。不安、迷い、絶望―――それらがまるで形を成して、この山ごと自分たちを飲み込もうとしているかのように。
「とにかく行こう!」
 冷え切った沈黙を必死の思いで振り払い、リトアニアは決然と言い放った。山道で迷ったときの鉄則は動かないことだが、ここでじっとしていれば雨が止むより先に凍死する破目になりかねない。
「せめて、雨宿り出来る場所を探さないと」
 頷いたポーランドが、あ、と小さく声を上げて額を抑えた。どうしたの?と訊ねる前に、リトアニアも首筋に落ちてきたそれの冷たさに肩を跳ね上げる。
「みぞれだし」
 指先に付いた氷の粒を見遣って、硬い声でポーランドが呟く。リトアニアは反射的に空を仰いだ。冷え切った空気を含んで落ちてくる雨粒の中に、結晶の形を保ったままのものがはっきりと混じり始めている。
 この雨は、雪に変わる。確信は焦りを一層募らせた。
 どちらからともなく、二人は互いの手をしっかりと握りしめた。互いの体温を頼りにするように、繋いだその手に意識を向けながら歩き出す。後ろから音もなく追いかけてくる不安を振り切るように。どれほど状況が悪くなろうと今自分たちに出来るのは、ただ互いを信じて歩くこと、それ以外になかった。













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