君死に給うことなかれ













1.


 ラズリルは、海辺の街だ。
 白亜の煉瓦と大理石で整えられた街並み、豪奢な船を幾隻もその懐に宿した港、そしてどこまでも碧く、穏やかに凪いだ海―――その壮麗な風景は、いつの時代も本国の貴族たちの愛してやまないものだった。
 だが、洗練された美しさを誇るこの街に、そぐわないものも確かに存在する。
 アバラが浮き出るほどに痩せ衰えた犬が、街角に捨てられたゴミを漁っていた。食い散らかされた残骸から漂ってくる腐敗臭に、スノウは形の良い眉を顰めた。
「ここにもいる」
 スノウが石を投げつけると、哀れな獣は情けない声を上げて逃げ去って行った。その後ろ姿を睨み付け、スノウは憎々しげに吐き捨てた。
「あいつらが捨てていったんだ。捨てるくらいなら最初から飼わなければいいのに」
 ラズリルには、その美しさと豊かさの代償とでもいうかのように、捨てられた犬や猫たちが数多く住み着いていた。その大半は、夏の間をこの港街の別荘で過ごした貴族たちが、本国へ帰るときに置き去りにしていったものである。気紛れな人間の戯れに付き合わされ、飽きれば壊れた玩具のように捨てられた哀れな彼らの姿は、この街の至る所で目にすることが出来た。
「こっちだって迷惑だ。捨てられた犬なんて、何の役にも立たないのに。こいつらの糞や鳴き声を何とかしてくれって苦情に、父様がどれほど頭を痛めてることか」
 そこまで一息に言ってから、スノウは慌てて取り繕うような笑顔で、カリョウの顔を覗き込んだ。
「あ、別に君のことを言ったんじゃないよ。君が親に捨てられた子だからって、僕は君のこと、役立たずだなんて思ってなんかいないから」
 その物言いは、悪意がないだけに、却って自尊心の芽生え始めた心を傷つけるに充分なものだったが、それを言葉や態度に出さずにいられるほどには、カリョウは己の立場というものを弁えていたし、この無邪気で傲慢な少年を慕ってもいた。
 返された薄い微笑みが安心感からのものと見たのか、スノウは益々饒舌になる。
「それに、君には僕がいるもの。だから、君は捨て犬と同じなんかじゃないよ。僕が守ってあげるから。君は僕と、これからもずっと一緒にいるんだから―――」
 そうして、笑顔で差し伸べられた手を、笑顔で取る。
 それが、自分の務めであると知っていたから。求められているのは従順なる小間使い。拾われた犬と同じように、尻尾を振ってみせることくらい、カリョウにとっては何でもなかった。
 だが、いつものように伸ばされた手を取ろうとした瞬間。
 彼の瞳の中で、炎が踊った。




 ―――恩を売ったと思うな。
 僕は君の、そのいい奴ぶったところが、大嫌いだよ。




 黙れ!
 いい奴ぶっていたのは、君のほうだろう!
 勝手に拾って、そして勝手に捨てたくせに!!




 ―――自分の叫び声で目が覚めた。
 薄闇に陰る視界の中にはまだ、憎しみの炎を湛えた青灰色の面影がちらついていた。背筋を冷たい汗が伝う。動悸を鎮めようと肩で息を繰り返せば、遅れて感覚を取り戻してきた耳に、遠く細波の音が届いた。
「……なんて夢だよ……」
 遠い昔。優しくも愚かしい記憶。差し伸べられた温かな手が、偽りだったとは今も思っていない。ただ、裏切られた。壊れた玩具を捨てるように。要らなくなったのだと、いとも簡単に。
「嘘吐き……」
 ずっと一緒にいるって、言ったくせに。
 要らなくなるくらいなら、最初から拾わなければ良かったのに。
「折角…忘れてたのにな…」
 もう二度と、会いたくはないと思っていたのに。正しく悪夢としか言いようのない形で、彼はカリョウの前に再びその姿を現した。志を変え立場を変え、それでも瞳に宿した憎しみの炎はそのままに。ようやく塞がりかけた過日の傷を抉った彼の言葉を、荒んだ眼差しを思い出す度、胸に鋭い痛みが走った。
 掛け布を無意識のうちに固く握り締め、カリョウは抱えた膝の中に顔を埋めた。
 …僕はもう、誰の手も取らない。誰のものにもならない。
 誓いにも似た呟きが、夜に淡く融けて消えた。






 ラズリルの解放に成功した今、戦局はいよいよ終盤に差し掛かりつつあった。次なるオベル奪回に向けて、艦はこれまでにない緊張と高揚感に包まれていた。この海域の命運を決めると言っても、過言ではない一戦である。その準備の為に、乗り合わせた人々は皆慌しく駆け回り、作戦室では軍の重鎮による会議が、連日のように行われていた。
「ミドルポートを除いた、群島のほぼ全ての島が解放軍への協力体制を示した今、オベルのクールーク軍は事実上、この海域で孤立したことになる。現在の我が軍の戦力をもってすれば、クールークが援軍を出す前に、これを落とすことは難しくはないだろう―――だが、それでも懸念事項はある」
 女海賊の優雅な指先が、卓上に広げられた海図の一点を指し示した。
「ここだ。オベルより4時の方角、約2000海里離れた小島に、クールーク軍が駐留している。小規模ではあるが、紋章砲を備えた砦らしきものの存在も確認されている。迂闊には近づけぬから詳細は不明だが」
「おいおいマジかよ。なんだってまたそんな辺鄙な場所に」
「第一にオベルに駐留している第二艦隊の支援、そしてゆくゆくは南進政策が成功した後、更に南方のファレナに向けて勢力を伸ばす為の足がかりとするつもりだったのだろうな。それが叶わずとも、群島解放軍の影響の及びにくい地域に足場を作っておけば、戦局が膠着し、本国からの支援が望めない状態になったとしても、南方から物資を調達することが出来る」
 渋面を作ったリノに、キカは苦笑じみた顔で頷きを返す。
「文字どおり小さな島だ。大した戦力を配置しているわけでもない。だが、オベル攻略中の我が軍の背後を、いやらしく突いてくるだけなら充分な数だ。よしんばオベルを解放出来たとしても、こちらの被害も甚大なものになるだろうことは疑う余地もない。来るべき最終決戦に向けた布石として、ここで完璧な勝利を手にする為には、まずは邪魔者を排除することから始めねばなるまい」
「オベルへの道は一日にしてならず…か。ったく、面倒くせぇな」
 口調とは裏腹に、リノの瞳は笑んでいる。焦る必要はない。喩え遠くとも確実に近づいている希望の灯が、彼の心に余裕を齎していた。
「じゃ、オベルを奪い返す前に、まずは番犬の掃討ということで異議はないね。で、アンタはこれをどう攻める?」
 エレノアが面白がるような表情でリノを見る。その視線を受けてリノは考え込み、ややして口を開いた。
「まずはお約束どおりの艦隊戦だな。で、敵船を沈めた後に島に上がって砦と紋章砲を制圧する。勿体ぶった小細工を必要とする相手でもないだろう。何か問題があるか?」
「甘いねぇ」
 リノの提案を、エレノアは鼻で笑って一蹴した。
「考えてもみな。この島がオベルを攻めるこちらの背後を衝ける位置にあるってことは、オベルのクールーク軍も同様にこの一戦に対して援軍を出せるって訳だよ。艦隊戦と上陸作戦の二段構えの方法を取ってたんじゃ時間が掛かりすぎて、結局背後を衝かれる破目になる。オベルが援軍を出す隙を与えず、叩きのめさないと意味がないのさ」
「じゃ、陽動部隊で敵艦隊を島から離れた場所に誘き出し、その隙に上陸して、砦を占拠するってのはどうだ?」
「そうすれば、帰る場所を失った敵艦隊は、必然的にオベル駐留艦隊に合流することになるだろ。これ以上オベルのクールーク軍の数を増やしてやるのは得策とは言えないねぇ」
「じゃ、一体どうしたら良いってんだ?軍師様」
 リノがお手上げと言った様子で肩を竦めた。手にした杯を一息に呷り、軍師はにっと笑った。
「要は、同時に進行しなくちゃならないという訳さ。艦隊戦と上陸作戦とをね」
「……っておい、無茶を言うなよ。幾ら駐留してる艦隊が小規模とはいえ、紋章砲を装備した艦艇は少なく見積もっても三隻はいるだろう。そいつらを相手にしなきゃならんのに、同時に砦を占拠出来るほどの戦力を上陸部隊に割くのは無理だぞ」
「占拠だなんてまどろっこしいことしなくってもさ、つまりは全部吹っ飛ばしてやりゃ良いわけでしょ?砦も、兵士も、紋章砲も、全部さ」
 からりとした声が作戦室に響き渡った。これまで沈黙を守ってきた軍主は、皆の視線が一斉に自分に集中したのを気に留めた様子もなく、しなやかな肉食獣を思わせる蒼い瞳に不敵な笑みを浮かべる。
「詳細不明って言ったって、島の大きさと地形、これまでに被害を受けた漁船や商船の被害状況と目撃情報から、駐留軍の規模、所有艦艇数、そして砦の大きさはある程度見当がつく。エルイールみたいなバカでかい要塞ならともかく、こんな小さな島に建設された砦くらい、この艦の紋章砲をぶっ放してやれば一撃で墜ちるでしょ。何も無傷なままで残してやる必要はないよ。寧ろ根こそぎ破壊してやったほうが、敵さんも今後、この島に近付こうだなんて愚かな考えを起こさなくなるだろうしね」
 語られる内容にはあまりに不釣合いな、それは他愛ない悪戯の提案でもするかのような、明るくのんびりした口調だった。だが、その声音の底に滲む、圧倒的なまでの自信と威圧感は、まるで研ぎ澄まされた刃の閃きにも似て、その場に居合わせた者たちの背筋を凍りつかせた。
「し、しかしな」額に薄っすらと汗を浮かべながら、リノが口を挟む。「この艦の紋章砲で砦を破壊するったって、どうやって射程距離まで艦を近付けるんだ?敵の艦艇を無視して砦だけ落とすのは不可能だし、第一、砦にも紋章砲が備えられていることは、今し方キカが説明したばっかりじゃねぇか。近付くより前に、こっちが相手の砲の餌食になって沈められるぞ」
「その為の同時作戦なんじゃないか。まあ聞いてよ」
 余裕に満ちた笑みのままに、カリョウは作戦室に集った一同を見回した。
「艦を砦の紋章砲の射程範囲外に展開し、敵艦隊を誘い出して交戦、その隙に上陸部隊が島の裏側から潜入する。ここまではセオリーどおりだ。限られた時間で効率よく勝利をもぎ取る為には、これに更に一工夫加えてやるのさ。上陸部隊に割く人員は最少でいい。主戦力はあくまで艦隊に置く。ただし、交戦するのはグリシェンデとガイエン船のみ。本艦は後方待機だ―――時が満ちるまではね」
「時が満ちるまで?」
「そう、ここで上陸部隊との連携が生きてくる。さっきも言ったけど、何も上陸部隊で砦を占拠する必要はないんだ。砦の紋章砲を、ほんの少しの間、使用不能にしてやるだけでいい。その僅かな隙に、本艦は一気に砦に接近。至近距離から紋章砲の一撃を浴びせてやるって寸法さ。勿論、少しでも砦に接近するタイミングが遅れれば、本艦のほうが砦の紋章砲の格好の的になる。だから、船体を可能な限り軽くして船足を少しでも速めるために、本艦に積み込む砲弾は一発のみ。戦闘員も攻撃よりは防御に長けたものを配置する。そして、グリシェンデとガイエン船には、本艦を護衛しつつ、敵船を全て沈めて貰う。上陸部隊が砦の紋章砲に辿り着くまでに、ね」
 息を呑むような沈黙が落ちた。痛いほどの緊張を孕んだ気配に、周囲の空気が重苦しく引き攣れていく。
「………無謀、じゃねぇか?」リノが掠れた声で問うた。「確かに、手っ取り早く決着を着けるにゃそれが一番良い方法かもしれねぇ。だがその編成でいくなら、艦はともかく、上陸班に当たった連中があまりに危険すぎやしねぇか?死地とわかってて乗り込むようなもんだ。喩え作戦自体が旨くいったにしても、本艦の砲撃に巻き込まれる危険もある。誰も志願しやしねぇだろ」
「勿論、そんなことは百も承知だよ。だから、ここは僕が行く―――ひとりでね」
 蒼の眼差しが、稲妻の鋭さをもって居並ぶ面々を射抜く。気圧されたかのように怯んだリノは、だが次の瞬間声を張り上げた。
「バカやろう!軍主のおまえが、自分から危険に飛び込んでどうする!」
「逆だよ。こんな時こそ軍主が矢面に立つべきでしょ?それに、安全なところでじっと待ってるなんて性に合わない」
 怒号などどこ吹く風、カリョウはけろりと涼しい笑みを返す。
「だが…だからって何もひとりで行くなどと…」
「じゃあ訊くけど。紋章砲の扱いを心得てて、且つ僕と並べるだけの戦闘力を持ったものが、この艦にいる?」
 ―――切り込むような鋭い声に、答えられるものはなかった。
「決まりだね。じゃ、本艦の艦長はリノ王、あなたにお願いする。砲撃手はウォーロック。守備隊の人員は追って通達します。グリシェンデはいつもどおりキカさん、ガイエン船の艦長はヘルムートに任せる」
 淡々と指示を出し続ける軍主の声に、最早感情らしき色は伺えなかった。
 期待とも不安ともつかぬ奇妙な高揚に押し潰されそうになるのを感じて、リノは額を伝った汗を無意識に拭った。






「だからおまえはバカだっていうんだ!自分が何をしようとしているのか、本当にわかってるのか!?」
「失礼だなぁ。わかってるからこそ、ひとりで行くんだよ」
 勢いに任せて怒鳴り込んだ先で、部屋の主は面倒くさそうな表情を隠しもせずに肩を竦めた。追い返されこそしなかったが、歓迎されている雰囲気は微塵もない。だが、テッドは構うことなく、怒りに猛った瞳で軍主を睨み付けた。
「わかってないから言ってるんだろう!」
「だって他に方法がないじゃん」
 頬を紅潮させて怒鳴るテッドを尻目に、カリョウは着々と潜入の為の準備を進めていく。目的となる島の地図に再度目を通し、装備を確認し、道具袋の中を入念にチェックする。
「ええと、特効薬とミントと毒消しと…それからすりぬけの札と…」
「聞いてるのか!?」
「五月蝿いなぁ、聞いてるよ」
 支度の手は止めず、視線も合わせないままに、それでもカリョウは返事だけは律儀に返す。煩わしそうな声音ではあったけれど。
 テッドが此度の作戦の話を聞いたのはつい先刻、伝令として部屋を訪れたアルドの口からだった。作戦の遂行に伴い、現在艦は第二戦闘配備発令中である。全軍の行動の統一化を図るため、軍議に参加していないものにも作戦の詳細は必ず知らされる。我侭な軍主に気に入られたため、日頃から前線に引っ張り出されることの多いテッドは、アルドの来訪をいつもどおりの出動要請だと考えていた。全くもって面倒な話だが、それでも借りを返すと宣言した以上、拒むつもりは毛頭ない。そこへ聞かされた、軍主の単独潜入の決定。理由を問うより先に頭にカッと血が昇り、気付いたときにはアルドを押し退けるようにして駆け出していた。
「テッドは喜んでくれると思ったんだけどな。いつもいつも、働かせすぎだってボヤいてるから。今回は楽出来るって」
「冗談抜かせ。戦闘訓練や交易に行くのとは訳が違うだろうが、今度のは!それに……っ…」
「それに?」
 初めて此方に向けられた蒼い眼差しが、興味深げにその先を促してくるのに気恥ずかしさを覚えて、テッドは逃げるように視線を逸らした。
「何でもねぇよ………」
 ―――守ってやるって、言っただろうが。
 続く言葉は、胸の内だけで呟く。
 波立ち、不安定にざわめく感情に、一番戸惑っているのはテッド自身だった。
 一体いつからこうなってしまったのだろう。ずっと人との関わりを避けて生きてきたというのに。陽の光から遠く離れたはずの無彩色の心に、この我侭で気紛れな少年は躊躇することなく押し入り、気付いたときにはテッドの世界の中心に陣取っていた。勝気な表情の下から時折覗く子供っぽい素顔。彼が誰にでもそのような顔を見せるわけではないと気付いたときには、何故か誇らしいような気にさえなった。彼が自分の『特別』になりつつあることを自覚するのは癪だったが、彼にとっても自分は『特別』な存在なのだと、そんな風に意識させられるのは、悔しいが悪い心地ではなかった。
 それが、自分の思い込みでしかなかったのだと、思い知らされた。
 結局彼は、自身以外の誰も本当には信じておらず、大切な場面では誰にもその背中を預けようとはしないのだ。
 裏切られたような気にさえなって、テッドは指が白くなるほどに拳を握り締めた。
 カリョウの呑気な声が響く。
「帰ってきたら、すぐにモルドに交易に行くよ。そっちには連れてってあげるから、あんまり拗ねないでよ♪」
 お道化たような口調は、既にいつもの彼のものだった。明るいトーンの中に、綺麗に包み隠された感情の揺らめき。どこまでが冗談で、どこからが本気なのかわからない曖昧さ。普段と変わらない彼のそれに、しかし明らかな拒絶の意思を感じて、テッドはキッと眦を吊り上げた。
「はぐらかすな。今は交易だのなんだの言ってる場合じゃないだろう!生きて帰らなきゃ、『その後』のことなんか幾ら計画したって無意味なんだぞ!!」
「誰が死ぬつもりだなんて言ったのさ。勝手に殺さないでよ、酷いなぁ」
「そう思うなら、なんで一人で行こうとする!?幾らなんでも無謀すぎるだろう。そりゃ俺たちは、おまえに比べれば戦力としては劣るかもしれない。だが、砦の兵士を全く相手に出来ないほど弱くはないぞ。おまえだってそれくらいのことは知ってるはずだ。それなのに…どうして今更、一人で行くなんて言いだすんだ。いつも散々人のことを振り回してきた、おまえらしくもない」
 ―――瞬間、殺気にも似た気配と共に、蒼の稲妻が閃いた。何が起きたのかを理解するより早く、叩きつけるような勢いで壁に押しつけられ、襟首を掴まれ締め上げられる。衝撃と息苦しさを堪えて顔を上げれば、昏い光を湛えて燃え上がる蒼い炎が見えた。
「―――僕らしくないなんて、どうして君に言えるのさ?」低く地を這うような声が、凍りついた空気を震撼させた。「じゃあ訊くけど、君に僕の何がわかる?所詮他人でしかない君が、一体僕の何を知っていると言える?」
 自惚れるな、と突き放す声に戦慄が走った。
 そうだ。自分は彼のことを知らない。何も、知らない。
 軍主であること。艦長であること。自分と同じ呪われた紋章を持っていること(そして、極度のまんじゅう好きであること)。テッドがカリョウのことで、はっきりと知っていると言えるのはこれだけだ。勿論彼の経歴に関して、一般の乗組員が知識として持っている程度のことは知っている。元はラズリルの海上騎士団員だったこと。冤罪により故郷を追われたこと。かつて主人であった人間と敵対関係にあること――だが、これらは全て、カリョウ自身の口から語られたものではなく、船内にごく当たり前のように存在する風聞である。
 考えてみればカリョウはこれまで、自分自身のことを驚くほどに何も語っていないのだった。共にいれば、その我侭で強引な性格に振り回されてばかりで、そんなことを尋ねる暇も気を向ける余裕もなかった。喧しいくらいに明るくて気紛れで、飄々としていて掴みどころがなくて、どんな時でも毅然と顔を上げて、自分だけの道を歩いていく―――テッドにとって、カリョウはそういう存在だった。痛みも弱さも、彼には全く無縁のもので、何が起ころうとも、喩えこの世界が消えてなくなろうとも揺るぎはしない……それが当然なのだと…それこそがカリョウという人間の本質なのだろうと思い込んでいた。
 上辺だけの表情を見て、わかったような気になっていた。それで『特別』だなんて想いを抱くなど、なんと傲慢なことだろう。
 だが、それでも諦め切れなくて、必死に言葉を紡いだ。
「おまえだって、俺のこと何も知らないし、訊かなかったじゃないか…お互い様だ…」
「当然だよ。僕は君の過去になんか興味はないし、君のことを理解しようとも思わない」
「……友達になろうって、おまえ言ったじゃないか…」
「でも、君は拒んだよね」
 ―――心臓を、冷たい手で鷲掴みにされたような心地がした。背筋を、嫌な感触のする汗が伝い落ちた。だが、胸中を吹き荒れる嵐は、後悔からくるものではなかった。
 友達になろうと、今この場で再び告げられたとしても、テッドの答えはやはり「ノー」でしかないのである。ソウルイーターのことも勿論あるが――それ以上にテッドは、カリョウと自分との関係は、仲間だとか友人だとか……名前の付けられる類のものには、けしてなり得ないだろうという確信めいた思いを抱いていた。
「―――だったら」切り込むような稲妻色の眼差しを、テッドは必死の思いで睨み返した。「友達でなくてもいい。ひとりの人間として、おまえがどんなヤツなのか見届けてやる。だから―――俺も行く」
 張り詰めたような沈黙が落ちる。炎を映した蒼い刃と、穢れなき琥珀の矢は、暫し互いを牽制するかのように切っ先を触れ合わせ、目に見えぬ火花を散らした。
 ―――永遠に続くかと思われた一瞬を、低い呟きが現実に引き戻した。
「そこまで言うのなら、来ればいいよ」
 獰猛な肉食獣のように瞳を眇め、カリョウはテッドの襟首を掴んでいた手を、勢いよく突っ放した。再度背中に走った衝撃と、解放された気管に雪崩れ込んできた空気とに噎せ返るテッドを見向きもせず、カリョウは部屋の出口へと歩を進める。
「言っとくけど、足手纏いにしかならないと思ったら、容赦なく置いていくから。覚えといてよね」
 一方的に言い放つと、カリョウの姿は扉の向こうに消える。説得に成功したのか、それとも彼お得意の気紛れなのかは掴めなかったが、何にせよ、カリョウの気が変わらないうちに着いて行くほかはない。頭の芯が痺れるような酩酊を振り切って、テッドは彼の後を追った。






「よし、ここだ」
 リノの声に応え、巨大船はゆっくりとその動きを止める。後方に着いていたグリシェンデとガイエン船は、速度を緩めることなく左右から本艦を追い抜いていく。戦場へと突き進んでいく彼らの後姿を、リノは小さく敬礼して見送った。
「いよいよだな」
 戦の始まる前のえもいわれぬ緊張感は、何度経験しても慣れるということがない。胸のうちに溜まったものを吐き出すかのようにひとつ息を吐いてから、リノは前方の小島を見据えた。
 こちらの動きには、とうに気付いていたのだろう。クールークの軍旗を掲げた艦が三隻、速度を上げて向かってくるのが見える。どれもこの巨大船とは比べるべくもないが、海賊船よりは遙かに大きい戦艦である。
 こちらが全力で当たれば、到底負ける相手ではない。だが今回は、旗艦は来るべき時が訪れるまでは前線に出るわけにはいかないのだ。艦に積んである砲弾はたった一発。それを撃ってしまえば、この作戦そのものが失敗に終わる。
 ―――厳しい戦になるのは、何も上陸部隊だけではない。
 それでも分はこちらにある。数で劣ろうとも、グリシェンデの機動力をもってすれば、敵艦隊を撹乱し戦力の分断を図ることは充分可能である。キカなら、何なくそれを実行してみせるだろう。ガイエン船との連携が巧くとれるかどうかが鍵だが、ヘルムートに任せておけば問題はないだろう。負けるはずがないのはわかっている。――ただ。
「…待っているだけってのは、やっぱり辛いもんだな」
 数刻前に小舟で、もうひとつの戦場へと向かった少年を思い、リノは僅かに口許を歪めた。軍議であれだけ頑なに、ひとりで行くことを主張した彼が、同行者の存在を許したと聞いて、昏く沈んでいたリノの胸中にも微かに安堵の光が差していた。
 今ここで、倒れるわけにはいかない。彼も、そしてこの軍も。
 ―――刹那。祈りにも似た感慨を引き裂くように響き始めた砲撃音に、リノはぎりっと唇を噛み締めた。
「―――始まったか」

 

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