2.




「始まったね」
 剣に着いた血糊を振り払い、鞘に収めながら、カリョウはテッドを振り返った。
 海戦は砦の正面の洋上で行われている為、島の裏側に当たるこの位置からでは見ることが出来ない。それでも、風に乗って遠く響いてくる砲撃音に戦場の気配を感じ取って、テッドは微かに身震いした。
「さあて。こっちも行動開始といきますか」
 気負った様子もなく、砦を見据えて立つカリョウの足元には既に、動かなくなった敵兵の骸が転がっている。背後からの侵入者に気付いて駆け寄ってきた敵兵を、カリョウは一瞬の躊躇もなく殺した。瞬く間に。三人。
 ―――仕方がないのはわかっている。殺らなければ殺られるのはこちらなのだ。だが…わかっていても、余りに簡単に下された裁きに、嫌悪とも憤怒ともつかぬ苦い感触が、胸に込み上げてくるのを抑えることは出来なかった。
 ……そうやって、誰の思いも、温もりも気に掛けることなく。
 おまえにとって、人とは、命とは――一体何なんだ?
「行くよ。ぐずぐずしている暇はない。ぼけっとしてたら置いてくよ」
 僅かにこちらを振り向いた瞳は、戦いの予感を映じて、ぞっとするほどに冷たく燃え上がっていた。感傷をひとまず脇に押しやり、テッドは短く、わかっている、とだけ返す。
 砦の外には守備兵士はそれほど配置されてはいないのだろう。大した妨害もなく、二人は難なく砦への侵入を果たした。
「どっちだ!?」
 慣れぬ場所に戸惑いたたらを踏むテッドに対して、カリョウは冷静に奥に向かう通路を指し示してみせる。
「島に近付いたときに、砦の紋章砲は屋上に備え付けられているのが見えたよ。方向からして、多分こっちで合ってると思う。そんなに広くない砦だから、多分すぐに辿り着けるよ」
 意地を張って着いてきた割には全く役に立っていない自分を意識して、憮然とした表情になるテッドに、カリョウはくすりと笑みを向けた。
「僕だって、何の考えもなしにひとりで来ることを主張したわけじゃないよ。艦隊で敵の主戦力を引きつければ、当然ながら砦の中は手薄になるし、そこへ攻め入るのではなく潜入するだけなら、人数は最少でいい。大人数で陣形を組んで突入したほうが良い戦なら最初からそうしてるし、ただ危険なだけで勝算がないなら、エレノアがOKを出すはずもないからね」
「けど…だったら何もおまえが来ることはなかったんじゃ…」
「ま、これも軍主のお仕事だから」
 カリョウはひょいと肩を竦めて微笑う。敵地の真っ只中にいるとも思えない、呑気な、自信に満ちた笑みだった。
 けれど、それだけですんなり納得出来るほど、テッドも素直な性格はしていない。カリョウは、全てが計算の内、というような言い方をするが、彼も人間である以上、どこかで間違えることもあれば見落としをすることもあるだろう。例えば、砦に残っている兵士が予想以上に多かったとしたら?オベルのクールーク軍が、こちらの想像以上に早く、この海域に到達出来たとしたら?何もかもが予定どおり、旨くいくとは限らないではないか。もし、少しでも計算が狂えば、敗北するのはこちらの側なのだ。喩え艦隊が無事にこの海域を脱出出来たとしても、取り残された上陸部隊が全滅するのは必至―――そこまで考えて、テッドはカリョウが以前言っていた言葉を思い出した。「ただ勝てばいい戦でもないんだ。犠牲は最少に抑え、尚且つ可能な限り迅速に―――」
「だから、ひとりで来るって言ったのかよ……」
 絞り出すような声で落とされた呟きに、カリョウは踏み出しかけていた足を止めた。
「さっきから言ってるじゃない。大勢で動く必要がないなら、僕が単独で潜入したほうが効率がいいからだって……」
「ひとりで行けば、万が一危機に陥ったときも、おまえは周囲を気にすることなくソイツを使える。もし、どこかで計算が狂い、作戦そのものが失敗に終わったとしても、罰の紋章さえあれば、紋章砲もろとも砦を破壊することは可能だ…そこまで考えてのことだったんだろう?」
「………」
「犠牲は最少に。前におまえ、そう言ってたよな?」
「僕は別に、犠牲になる為に此処に来たわけじゃないんだけど」
「罰の紋章を計算に入れてりゃ同じことだ!」
「言ったでしょ?これが僕の仕事なんだって」
 悲嘆も諦念も見せず、カリョウは淡々と言う。
「寄せ集めの集団が強国と喧嘩しようってんだからね。それも、一矢報いるとかのレベルじゃなくて、本気で勝つつもりでいるんだから、形振り構ってなんかいられないのさ。エレノアは最初から、罰の紋章を戦力のひとつとして数えてるし、僕もそのつもりでいる。そして、エレノアはこの軍の軍師で僕は軍主だ。僕自身は別に群島の未来なんかに興味はないし、ラズリルやオベルがどうなろうと知ったこっちゃないけど、それでも雇われてる間は、任された仕事は完璧にこなす。リノ王と、そう契約したしね」
 灰色の雲のように蟠った感情が、胸の中でどろどろと重く渦を巻く。指が白くなるほどに固く拳を握り締めて、テッドはカリョウを睨み付けた。
「仕事だの契約だのと、そんな簡単な言葉で片付けるな!おまえは…俺たちは、オベル王の駒じゃないっ…!」
「駒だよ。少なくとも、この戦においてはね。僕や君だけじゃない。リノ王自身だってそうだよ。それぞれに与えられた役割、課せられた任務を忠実に遂行してこそ、現在のバランスが保てているんだ。ポーンはけしてクイーンにはなれないけれど、ポーンにしか果たせない役目がある―――それを積み重ねてこそ、ただの寄せ集めでしかない軍がひとつに纏まっていられる。強大な力を持つクールークと互角に渡り合えているんだ」
「それは……違うだろう…!?」
「何が?どう違うっていうのさ?」
 きょとんと小首を傾げ、怪訝そうに見詰めてくるカリョウに、何と返したら良いかわからず、テッドは唇を噛んで俯いた。
 確かに――カリョウの言っていることはわかる。頭で理解することは出来る。
 だが……本当にそれだけなのだろうか?型に嵌められ、整然と組み上げられた盤上の布陣。本当にそれだけが、この軍を支えていられるものだろうか。寄せ集めでしかない人々が、僅かな希望を見失わずに走り続けていられるのは、何かもっと別の―――それこそ理屈では説明出来ないような力に突き動かされているからではないのか。
 割り切って、計算して、組み立てて動かして。けれど、それだけでは片付けられないものが……あの船には、きっとある。
 そうでなければ――これほどまでに心がざわめいたりするものか。
 もやもやとした思いを、だが巧く言葉にすることが出来ず、テッドは溜息と共にかぶりを振った。
「おまえのように考えることは、俺には出来ない…」
「僕に言わせれば、感情論だけでこんなところにまで来れる君のほうが、余程理解し難いんだけどね」
 けどまあ、それこそが、君が君たる所以なんだろうけどさ、と独り言のように呟いてから、カリョウは再び奥の通路に向けて視線を投げた。
 衛兵らしき足音が、ばたばたとこちらへ向かって駆けてくるのが聞こえる。直きに此処は戦場となるだろう。
「お喋りはここまでだ。行くよ。当てにはしていないけれど、着いてきた以上はしっかり働いて貰うからね」




 激しい爆風と波が、船体を木の葉のように揺らす。被弾はしていない。敵艦は必要以上に間合いを詰めては来ず、砲撃も威嚇程度にしかしてこない。威勢よく出撃してきたはいいものの、開戦早々に戦艦三隻のうち一隻が挟撃され、あっさり沈められたことにより、敵は作戦を変えたようだ。深追いしてこず、船体は常に砦の紋章砲の射程距離ギリギリのラインを保ち、こちらを誘うような動きを繰り返している。
 キカは秀麗な眉を顰めた。
「迂闊に近付けば砦の紋章砲の餌食、かといってこのまま睨みあいを続けていては、オベルに駐留しているクールークの艦隊が援軍に来るだろう。敵の狙いは時間稼ぎだ」
「厄介なことになりましたね」
 シグルドが敵艦を見詰めたまま、苦笑混じりに呟いた。
 敵には此方を殲滅する意志はないらしい。退却したとしても恐らく追ってはこないだろう。だが退くに退けない理由は此方にはある。軍主が―――あの勝気ながらもどこか寂しそうな目をした少年が、砦の紋章砲を押さえる前に。その前に何としても、敵艦を沈めねばならないのだ。
 キカは素早く考えを巡らせた。
「面舵15、全速で右側の艦の船尾に回りこめ。限界まで敵艦に接近し、至近距離から砲撃しろ」
 敵艦に近付けば、砦の紋章砲は発砲出来ない(味方を巻き込むことになる)。勿論敵艦からの砲撃は浴びることになるが、グリシェンデのスピードならかわすことは可能なはずだ。何もせずに手を拱いているくらいなら打って出る。潮風に髪を翻らせ、静かな威厳を湛えて敵艦を見据えるキカの姿は、さながら戦場に立つ女神のようだった―――と、後にダリオが証言している。
 共闘するガイエン船も此方の意図に気付いたらしい。もう一隻の敵艦へと向けて、同じように動き始めている。あの若者、多少柔軟性に欠けるところはあるが勘はいい…ヘルムートの生真面目な顔を思い出しながらキカは微笑んだ。これから様々な経験を重ねていけば、彼はきっと良き艦長となるだろう。
「敵艦、紋章砲、きます!!」
「構うな。そのまま前進!!」
 敵艦の砲筒が火を噴いた。砲撃はマストを掠め、右舷の海へと着弾する。煽りを喰って船体はまたも大きく揺れたが、キカの顔に焦りの色は微塵もなかった。
 必ず勝つ。きっと成し遂げてみせる。だから――おまえも応えてみせろ。カリョウ―――。




「埒があかないね……」
 幾度目の戦闘であったか、自暴自棄気味に襲い掛かってきた兵士の最後のひとりを一刀の元に斬り伏せてから、カリョウは吐き捨てるように呟いた。
 侵入者はたったの二人と見て、初めのうちは油断してくれていた守備兵たちも、幾人もの仲間が瞬く間に倒されていく光景に目の色を変えた。攻防を繰り返しているうちに、どうやら向こうも乗り込んできたのが解放軍の軍主だと気付いたらしい。何としてでも食い止めろ、生かして帰すなと、守備兵全てが躍起となった。
「おまえ、本当にこんな中をひとりで行くつもりだったのか?」
「ひとりだったら、もうちょっと目立たずに行動出来る自信があったよ」
「………言ってろ」
 歯噛みするテッドに向かって、にこりと微笑みながらカリョウは、こぶし大ほどの大きさの包みを差し出した。
「………なんだこれは?」
「砲弾。紋章砲のね」
「こんな小さいのがか?」
「勿論、威力はないに等しいよ。ついでに言うなら、これは五行の力に干渉されることのない特殊な砲弾。ある紋章の力が込められた、ウォーロックの特別製だよ。砦の紋章砲を押さえてこれを撃つこと、それが旗艦突撃の合図になる」
 そう言って、尚も包みを押し付けるように差し出してくる所作に、カリョウの意図を読み取って、テッドは厳しい声を出した。
「断る」
「志願してついて来たんだから、それなりの働きをみせるのは当然の義務でしょ?」
「おまえも一緒に来るならな」
 一瞬口籠ったカリョウに、テッドは自分の考えの正しさを知った。
「やっぱり、俺だけを行かせる気だったんだな。自分が囮になって」
「どっちかひとりだけになっても、辿り着きさえすればいいんだよ。そうすればこの作戦は成功するんだから」
「だったらおまえが行け。俺があいつらの注意を引きつけておく」
「乱戦になったら、弓で大勢を相手するのは無理だよ」
「時間を稼ぐだけなら問題ないだろう。おまえが紋章砲に辿り着くまで保たせるさ。だから、さっさと行け」
 一歩も退く気配を見せず、ひたと見据えてくる琥珀に、カリョウは呆れたような溜息を吐いた。
「強情で往生際が悪い辺り、まるで鏡を見てるようで嫌になるなぁ」
「行くのか?行かないのか?」
「………行くよ。ただし、君も一緒にね」
 包みを再び懐に収め、蒼の炎は小さく笑った。
 荒れ狂う稲妻には似つかわしくない、それは覇気のない弱々しい笑みで。
「こんなところで君に死なれたりしたら、後味が悪いからね」
「その言葉、そっくりそのままおまえにもくれてやる」
「………わかってるよ」
 逸らすように伏せられた眼差しに、違和と遣る瀬無さを感じて、テッドは口許を微かに震わせた。
 らしくない、と。もう言葉にはしないけれど。




 バン!!
 階段を駆け上がり、扉を勢いよく蹴り開けると、潮の香りのする風が頬を撫でた。ようやく狭く薄暗い通路から解放された安堵感に、自然に笑みが零れる。追撃の兵士を膝蹴りで階下に突き落とし、叩きつけるように扉を閉めて鍵を掛けると、二人は確信と共に走り出した。屋上。やっと辿り着いた。目的のものは、もう目の前にある。
「侵入者だ!」
「貴様ら、生きては帰さんぞ!」
 砲の周囲にいた兵士たちが、お決まりの台詞と共に駆け寄ってくる。芸のない連中だね、と笑うと、カリョウは軽やかに床を蹴って敵中へと身を躍らせた。血に濡れた刀身が閃き、断末魔の叫びが響き渡る。
 狭い屋上は、たちまち阿鼻叫喚の騒ぎとなった。悪意を持った無数の白刃が、一斉に少年に襲い掛かる。
「カリョウ!」
 テッドの声に応えるように、栗色の髪が翻る。たった今まで彼の頭のあった場所を、大振りの刃が虚しく通過していく。攻撃の後の一瞬の隙をつき、カリョウの双剣が閃いた。敵兵のがら開きになった延髄を一太刀で切り裂き、振り向きざまにもう一方の刃で別の兵士の心臓を刺し貫く。身体を捻って返り血を避け、カリョウは体勢を立て直そうと後方に大きく飛び退った。追い縋ろうとした兵士が数人、立て続けにテッドの放った矢に喉元を射抜かれ、苦悶の呻きと共に倒れる。
「気ィ抜いてんじゃねえぞ」
 軽口を叩きながらも、矢を射る手は休めない。
「言われなくても」
 不敵な笑みを名残に、しなやかな稲妻は再び空を翔けた。煌く刃の走る先で、鮮やかな紅が次々と大輪の軌跡を描く。舞うような優雅さで、恐ろしいほどの的確さで、非情な剣は兵士たちの上に等しく振り下ろされた。
 耳を劈く悲鳴。途切れる息吹。周囲に色濃く立ち込める死の芳香。
 やがて、唐突に静かになった。
 倒れ伏す兵士たちの屍には見向きもせず、カリョウは紋章砲の傍へと駆け寄った。あれだけ激しい剣戟を繰り広げておきながら、疲労の色はおろか、呼吸ひとつ乱していない。
 潮風が、死臭を孕んだ熱気を攫っては過ぎていく。
 右手が熱い。頭痛が……する。
 いまだ醒めやらぬ戦の高揚と罪悪感に、疼くこめかみを軽く押さえて、テッドは大きく肩で息を吐いた。凄惨たる戦場の光景、獲物に有り付いた歓喜に打ち震える右手の気配。どちらも既に嫌というほど知っていたが、やはり慣れることは出来ない。今更、懺悔しようなどとは思わないけれど。
 感傷を瞬きひとつで追い払い、テッドは大股にカリョウの後を追った。
「タイミングも申し分なし。流石はキカさんだね。見てよ」
 カリョウの声に、テッドは眼下に広がる海へと視線を向けた。向かって右前方、まず目に飛び込んできたのは、真白の帆を凛と掲げた、グリシェンデの美しい流線型の船体。そしてその傍らでは、マストの折れたクールーク艦が今にも沈みそうな無残な姿を晒している。視線を左に移せば、ガイエン艦と被弾した敵艦とが見えた。砦とオベル艦とを繋ぐ海の道を境に、二対の艦は奇妙なシンメトリーの光景を作り出していた。
「さ〜て、それじゃあ本日のメインイベント――一発ドカンと派手にいきますか♪」
 緊張感の欠片もない口調でそう言うと、カリョウは先程の砲弾を取り出すと、素早く包みを解き、砲に装填した。
 発砲の準備を見守りながら、しかしテッドはふいに先程のカリョウの言葉を思い出した。ある紋章の力の込められた、特別な砲弾―――。
 ………まさか、『罰』じゃないだろうな。
 砲手の属性ではなく、紋章の力そのものを宿した砲弾など、テッドは未だかつて聞いたこともなかった。だが、あの弾の作り手は、紋章砲をこの世界に生み出した魔法使いその人だという。それほどの人物ならば、紋章そのものの力を兵器に応用することも可能かもしれない。そして、真の紋章という格好の逸材が傍にあれば、それを試してみたいと思うのは、才ある研究者ならば当然の願望だろう。
 あんな小さな弾だ。殺傷力も殆どないと聞いた。――だが、どれほど小さくても紋章は紋章…カリョウが命を削られなかったという保証は何処にもない―――。
 疑惑は次第に不安へとその形を変えてゆき、焦燥が胸を激しく掻き乱す。もういい、やめろ―――喉元まで出掛かった制止の声を、テッドは唇を噛み締めて堪えた。
「行くよ!」
 永遠にも思える一瞬を鋭い声が切り裂いた刹那。
 砲筒が高らかに火を吹いた。




 一心に島の方向を見詰めていたニコは、轟音と共に砦の屋上に鮮やかに咲いた華を認めて声を張り上げた。
「見えました、リノ様!合図です!」
「やったか!」
 応えるリノの声にも喜色が滲んでいる。胸に蟠っていた暗雲が、見る間に晴れていくのを彼は感じた。これまでは、ただ黙って戦況を見守っていることしか出来なかった。だが、待つだけの時は終わったのだ。リノは力の限り叫んだ。
「行くぞ、あの要塞のどてっ腹に風穴を開けてやる!全速前進!ハルト!!」
 合点!と応える声と共に、艦にはこれまでと質の違う緊張が走る。ブリッジは俄かに慌しくなった。
 艦は動き始めた。戦いに終止符を打つ為に。
 ぐんぐん近付いてくる島に向けて、リノは瞳を凝らした。見えるはずもないだろうと思いながら、ごつごつした花崗岩の砦の屋上に、風に靡いて翻る緋色を探した。闇を貫いて輝く蒼の幻を探した。
 我侭で傲慢で。そのくせ人一倍寂しがりやで意地っ張りで。
 ―――違うもん!姉上は関係ない。全部僕がひとりでやったんだ―――
 ……他愛ない悪戯をする度に、フレアを庇って、ひとりで叱られてたっけな。
 蒼の中に、遙か昔に失くした面影が見える。
 強がりも、そろそろ終わりにして良い頃だろう。
 迎えに行ってやらなくては。
 帰って来い、と。祈りにも似た思いを込めて、リノは呟いた。




「な………。」
 蒼穹を背景に、鮮やかに舞い散った赤い花弁を目にして、テッドの口から呆然とした呟きが洩れた。立ち上った芳香が風に乗り、血臭を包んでは押し流していく。血塗られた床にも、兵士たちの屍の上にも、花弁は降った。それはまるで葬送の儀のように、されど、戦場には全くそぐわない華やかさと艶やかさで。
「―――カリョウ。おまえ、一体何の紋章を使って、今の砲弾を作らせた?」
「『赤いバラの紋章』。派手で目立ちやすくて、合図にはぴったりでしょ?」
「〜〜〜〜〜!!んな緊張感のない紋章で砲弾作るな!!心配して損したじゃねぇか!」
「………??心配?何を心配してたのさ?」
「っ……!あーもー、どーだっていいだろそんなこと…!」
 張り詰めていた空気が一気に緩む。最後のオチはともかく、修羅場を越えた安堵と達成感に、漸く肩の荷が下りた心地がした。普段の遣り取りのように、軽口を叩き合えるのが何とはなしに嬉しい。
 ―――その僅かな隙を衝かれたのは、正しく不覚というほかないだろう。まだ終わった訳ではないと、誰もが知っていたはずなのに。
 辛うじて息の残っていた兵士が、最後の力を振り絞って、短剣を構えて突っ込んでくるのをテッドは見た。刃の閃く先は真っ直ぐに軍主の心臓。兵士の自棄っぱちな鬨の声も、自分が軍主を呼んだ悲鳴混じりの声も、音として耳に届かなかった。咄嗟に刃の前に躍り出たその行為すらも、奇妙に現実味がなく他人事のように感じられた。
「………っっ!!?」
 深々と突き刺さった刃の感触は、痛みよりも熱となって全身に圧し掛かった。衝撃に続いて、胃の腑に不快な感覚が競り上がってくる。眼前に迫った兵士の目は、狂気を宿してギラギラと笑っているかのように見えた。それはまるで――冥府の淵へと自分を差し招く死神の嘲笑のように。
 カッと、冷たい怒りが胸を満たした。裂帛の気合と共に振りかぶった左手から放たれた業火が、兵士の身体を吹き飛ばした。肉の焦げるきな臭いにおいが、薔薇の残り香を覆い隠すように周囲に立ち込めた。
 唐突に力の抜けたテッドの身体は、冷たい石畳の上に仰向けに崩れ落ちた。弾みで短剣の抜け落ちた傷口から、生命が流れ出していくのがわかった。無造作にだらりと投げ出された四肢を自覚する。息苦しい。痛いのか苦しいのかもわからない。全身の感覚が可笑しくなってしまったような中で、胸の刺し傷だけがじんじんと熱をもって疼いているのが感じられた。
 目の前にはぽっかりと開いた空。蒼くて広いなぁ…なんて場違いなことを考えた自分に笑いたくなったが、人間死ぬときはそんなものなのかもしれない。死は自分にとって何より身近で、同時に何よりも遠いものだった。目の前で幾度となく繰り返されてきたそれが、こうもあっさり自分に訪れるとは思ってもみなかったが、恐怖は感じなかった。感慨もなかった。こんなものか、という空っぽの諦念が浮かぶだけである。それでもまあ、悪くはない。奪ってばかりの生だった自分が、最後の最後に誰かを守って死ねるのだから。
 視線を僅かに横に流すと、微動だにせず、こちらを見下ろしているカリョウが見えた。返り血と汗に濡れた栗色の髪が白い輪郭を彩り、精巧なつくりものの如き整った造形を、よりいっそうに強調している。淡い色彩の瞳に、冷たい美貌に、表情はなかった。怒りも悲しみも、憂いすらも、何も。
「……ほれ見ろ。ちゃんと…役に立ったろうが…俺…」
 辛うじて絞り出した憎まれ口に、淡々と表情のない声が返る。
「馬鹿だね。他人を庇ってこんなところで死んで、君に何の得があるってのさ」
「……損得の…問題かよ……ばーか…」
「馬鹿に馬鹿って言われたくないね。弱いヤツは、ついて来るなって、最初に言ったけど?僕は」
「無駄死にじゃ…ないなら…それでいいさ……」
 その時、ドンドンドンと大きな音を立てて、屋上と階下を繋ぐ鉄製の扉が叩かれた。二人の進軍ルートから外れた箇所にいた兵士達が、追いついてきたのだろう。先程通った際に扉に鍵は掛けておいたが、追撃兵たちは諦めるつもりはないらしい。重いものをぶつけて、扉を壊そうとする気配が伝わってくる。
 嫌な音を立て続ける扉を一瞬見遣ってから、カリョウはすぐさま海のほうへと視線を走らせた。最後の仕上げ、待ち望んだ風はすぐ傍まで来ていた。砦を射程距離内に捉えるまで、あと少し。
「……早く…行けよ」
「置いてけって言うの?潔いね」
「どの道……先は見えてる…からな…」
 すりぬけの札で行う空間転移は、身体に大きな負担を掛ける。この傷では耐えられまい。瞬きの手鏡ほどの高位魔法具ならば幾らかはマシであろうが、敵軍の只中で捕虜となる可能性を考慮し、今回は所持していなかった。
 出血多量でくたばる前に、扉を破った兵士に殺されるか、それとも艦の砲撃に巻き込まれるか。どの道自分の命運は尽きている。嘆く気もなかった。
 至近距離に迫った艦が回頭を始める。明確な殺意を持って此方に向けられる砲筒は、普段見るそれよりも大きく、威圧感を持ってこの瞳に映った。
「全く……短い付き合いではあったけど、僕には君の考えてることが全然わからなかったよ。人に触れるのを避けてあんな船の中に閉じ篭ってたクセに、何だってそこまでお節介なのさ?自分の命を投げ打ってまで。つくづく馬鹿らしいね」
 呆れた口調で言って、すりぬけの札を掲げたカリョウに向かって、テッドは笑ってみせた。そうさ、まんじゅう馬鹿のおまえなんぞにゃ一生わからないだろうよ。さあ行け。とっとと行っちまえ。
 霞み始めた視界の中で、だが、これまで揺らぎを見せなかった稲妻色の瞳が、不意にふっと微笑んだのがわかった。
「……言ったろ?君みたいな純情一直線馬鹿に、こんな所で死なれたら、後味悪いってさ」
 言うなりカリョウは、札を足元に投げ捨て、左の手袋を外しながら、燐光を帯び始めた砲筒へと向き直った。赤い光を放ち始めた左手に、テッドの喉から悲鳴にも似た呼吸が漏れる。
 まさか『罰』で――?馬鹿野郎!第一、距離が近すぎる、無茶だ――!!
「相殺は無理だろうけど、砲撃から君ひとりを守るくらいなら何とかなる。そして―――」
 何処か疲れたような笑顔で、カリョウはテッドを振り返った。
「こいつ(と、紋章を指差し)に呑まれる前に、僕の魂を喰らって。そうすれば、君の身体は回復する。君は助かる」
「―――――!?」
「………もう……たくさんなんだ……」
 自分が傷つくのも、誰かを傷つけるのも。
 だから、ずっとひとりでいようと思った。もう、あんな思いはしたくなかったから。




 ―――僕は君の、そのいい奴ぶったところが――!!




 そうさ。僕は君のその、優越感の裏返しな優しさが大嫌いで―――でも、それでも嬉しかった。
 打算や偽善が含まれていても、僕の存在を認め、受け入れ、僕の居場所を作ってくれた君が好きだった。
 どうして捨てたの?
 僕が君を……傷つけたから?
 もしそうなら、僕がいなければ、君は傷つかずに済んだ。
 誰も………傷つかずに済んだ―――。
「僕は…………ひとりで行くよ…」




 馬鹿………野郎っっっ!!!
 そんな…そんな寂しそうな瞳をしたヤツを…放っておけるか!!
 右手にかっと、熱い炎が灯った。怒りが、悲しみが、もどかしさが、叫びたい衝動が、心臓を突き動かし、血潮となって全身を駆け巡った。
 ソウルイーターよ。
 俺は今、初めて俺自身の意志で、おまえを解き放つ。
 あいつを…守る為に。守れるだけの力を、どうか…俺に…!
 解放の歓喜に猛る死神は、無言の嵐となって、扉の向こうの兵士達へと襲い掛かった。
 狩り取られた魂が身体に満ちる。嫌悪でも罪悪感でもなく、もっと単純で原始的な感情に突き動かされ、テッドは立ち上がり、地を蹴った。
「カリョウ!!」
 眩しいほどの光を放つ砲筒の前で、今まさに左手を振り下ろさんとしていた少年を、身体ごとぶつかるようにして抱き締める。
「テッド!!」
 驚愕と抗議が綯い交ぜになった声に構わず、足元に転がっていた札を拾い上げる。
 二人の姿が屋上から消えるのと、圧倒的な質量を持った閃光が、砦を引き裂くのはほぼ同時だった。




 身体が地に着く感覚と同時に、熱気と爆風が襲い掛かってきた。最初に上陸した、砦の裏側の岩場に降り立ったのだと理解するより早く、腕に抱き締めたままの身体を庇い、地に蹲るようにして衝撃波をやり過ごす。閉じられた瞼の裏の闇の中に、腕の中の鼓動と、そして崩れていく砦の断末魔の叫びが響く。
 終わった。
 ―――やがて周囲が静かになっても、暫くの間、どちらも動かなかった。互いの呼吸と温もりとを確かめるように、ぴたりと寄り添ったまま。
 やがて、小さな小さな声が、静寂の狭間に落ちた。
「何で………助けたのさ」
「あんなこと言われて…はいそうですかと頷けるかよ」
「僕の所為で、傷ついたのに…?」
 呟きは今は抗議よりも、困惑の響きが濃くなっていた。
「誰かを傷つけることしか出来ない僕は…要らないのに……?」
「馬鹿野郎……!!」カリョウの肩口に額を押し付け、固く瞳を閉じたまま、テッドは言った。「そんな風に、自分を否定するんじゃねぇ…!誰がおまえに、死ねなんて言ったよ…!?」
「僕は君を…守れなかったのに…?」
「守ってやるって言ったのは、俺のほうだろが」
「君があんなに嫌がっていた、ソウルイーターを使わせてしまったのに…?」
「俺が使いたくて使ったんだ。文句あるか」
「本当に…本当に僕には、君という人がわからないよ…!」
「ああ、わからねえだろうさ。俺にだってわからねえよ、おまえが何考えてるかなんてさ。俺は俺だ。おまえじゃねえ」
 俺自身でさえ理解しきれていない俺を、そんなに簡単に理解されて堪るか。
「おまえは我侭で生意気で気紛れでへそ曲がりで、ひねくれてるし素直じゃないし全っ然可愛げがないガキだけど…」
「…………ちょっとテッド。怒るよ?」
「でも、おまえはそれでいい」
「……え?」
 テッドは顔を起こし、唖然とした表情のカリョウに笑いかけた。琥珀と蒼の二対の眼差しが、至近距離でぶつかる。
「おまえ、前に俺に言っただろ。俺はそのままでいいって。だから、おまえもこのままでいい。おまえのままで、おまえの思うとおりに生きてみせろ。それが……おまえらしいってことだから」
 もう一度、ぎゅっと温もりをその腕に閉じ込めて、テッドは低く囁いた。
「おまえは生きろ。俺が許す」
「…………ありがとう」
 潮騒に紛れてしまいそうなほどに小さな謝辞は、それでも違うことなくテッドの耳に響いた。






 眠れぬ夜に、薄闇にたてた誓いは……今日限りで終わりだ。






 ボ――――――――………
 祝砲代わりの汽笛が、蒼穹に高らかに木霊する。
 もうじき此処にも、仲間達の勝利の歓声が届くだろう。
 でも、それまで。あと少しだけ。このまま寄り添っていよう。
 互いの心の空白を、互いの温もりで埋めるように。























約半年間の戦いに、漸く終止符が打てました(苦笑)
遅くとも前編掲載後1ヶ月以内にはアップ……という当初の目論見を大幅に外れてしまいましたが、
何とか任務完了です!!いやー長かった…。大苦戦だった…。
いい加減忘れられてるんじゃないかと思うほどの亀更新でしたので、果たして待っていてくれた方がいるのかもわかりませんが、
やっとの完結編、少しでも楽しんで頂けますと幸いです。

………えーと、ちなみにひとつ、うっかりの大ポカをやらかしてしまったんですが(汗)
修正するとなると、前編含めて物語の筋そのものを変更しなくてはいけなくなるので、
ああーもういいやっ!!…とばかりにそのままアップです。
もしお気付きになられた方がいらっしゃいましても、生暖かく笑って見逃して頂けますと幸いです…。





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