彼方よりの伝言













1.


 ―――温かい。
 止めようもなく流れて消えてゆく命の温もりを、自らの命で補おうとするかのように抱き締めてくる腕の力に、どうしようもなく口許が緩む。
 薄れゆく意識を堪え、懸命に瞳を凝らす。
 焦点の合わない視界の中、それでも今にも泣き出しそうな大きな瞳だけは、はっきり映るのが不思議だった。
 思うように動かない身体を叱咤し、最後の力を振り絞って微笑みかける。
 ―――最期に目にするのが、おまえの顔で良かった。
 出来ることなら、微笑んでいて欲しかったのだけれど。
 せめて、おまえが目にする最後の俺が、笑顔であるように。
 おまえの記憶の中の俺が、いつも笑顔であるように。
 凍りついた心に、再び笑うことを思い出させてくれた、懐かしい碧が、俺を支え続けてくれたように。
 ……ごめんな。一緒に見に行こうって言ったのに。
 思い出すのは、果たせなかった約束。
 真実を話すことは出来なかったが、それでも俺の標となったあの美しい海を、おまえにも見せてやりたかった。
 ゆっくりと瞼を閉じれば、浮かぶのは海の瞳持つ少年の面影。
 どうか、どうか。俺の声が届いているなら。
 急速に閉じられてゆく世界の中で、テッドは懸命に祈った。
 海からの風よ――どうか俺の最後の願いを。
 俺の最も愛する命を、どうか守ってやって欲しい。
 俺があのとき手にした光を、幸せだったと胸を張って言える感謝と共に還すから―――。
 おまえが俺にくれた希望を、どうか、どうか。




「探し人―――か」
 ……正直、そんなにはっきりと覚えてるわけじゃないんだけど、とテッドは言った。
「でも、何故だろうな――いつかは会えるという気がしてならないんだ。名前も知らない。どこに住んでたかもわからない。150年前に一度会ったきり…噂すら聞かない。真の紋章を持つ身でもない限り、越えることの叶わない時間が過ぎてしまったというのに……それでも何故か、いつかは会えるんじゃないかと、そんな気がしてならないんだ。未練がましい俺の気持ちが招いた錯覚かもしれないってことは、充分にわかってる。けど…俺が生きてて、会いたいと思っているうちは探そうって。どうせ時間は腐るほどある。俺にもひとつくらい、人生における張り合いってものがあっても、可笑しくはないだろう?」
 薄く微笑んだテッドの顔は、これまで見たこともないほどに穏やかで優しげだった。いつも頑なで、他人との関わりを拒み続けるテッドに、こんな顔をさせることの出来る人がいるなんて―――と、僕は素直に驚いた。
 このとき、僕はまだ知らなかった。真の紋章の齎す、もうひとつの呪い。限りあるものと思えばこそ尊いのに。止められたままのそれは、死とどれほどの違いがあるのだろうか。
 目の前の彼は、外見だけなら僕とそれほど年の差があるとも思えない、少年の姿をしている。終わりの見えない時間を、変わることのない姿で、彷徨い続けねばならないことの苦痛を、僕はこのとき、全く理解していなかった。
 悠久の時を生き続けて、それでも尚、こんな風に笑えることが――彼をこんな風に微笑ませることの出来る存在が――人はひとりではないのだと知ることが――どれほどの意味を持つものであるのか、全く考えもしなかった。
 だから。
「大丈夫。いつか―――きっと会える。僕もそんな気がする」
 嘘や冗談で言ったのではなかった。けれど、このときはまだ、僕はこの言葉が僕が意識していた以上に、彼にとっては大きな意味を持つものなのだとわかっていなかった。
 だから。
「……ありがとう」
 滅多に見せない微笑で、滅多に口にしない謝辞を向けられたことを、単純に嬉しいとしか思っていなかった。




 ―――風鳴りが、耳に痛い。
 高く低く。人の声のようにも聞こえるそれは、故郷の海鳴りの響きを思い出させる。カルマは思わず足を止めた。海から遠く隔たったこの地に、思いがけず懐かしさを感じて、カルマの口許は薄く綻ぶ。けれど郷愁は同時に苦い感傷を起こさせるものでもあったから、その微笑が寂しげなものになる自身を、カルマはよく知っていた。
 振り返れば、黒曜石の瞳と目が合った。この世のあらゆる感情を、その内に深く沈めたようなえも言われぬ輝き。無言のまま、先を促してくるそれに小さな微笑で応え、カルマはばさりと音を立ててマントを翻した。
「……待たせてすまない。行こうか…ゼファ」




 それはトランと都市同盟の国境付近、名もなき小さな宿場町でのことだった。
 初めて訪れるこの地に知り合いなどいないはずだが、誰かに呼ばれたような気がしてカルマは振り返った。いや、呼ばれたというのとは違うかもしれない。何かに引き寄せられるような、導かれるような―――言葉では言い表すことの出来ないその感覚は、全く身に覚えのないものであったにも関わらず、その正体が何であるかを知っている自分に、カルマは少しばかり驚いた。
 雑踏の中、焦点の合った相手は、同じような年頃であることを除けば(尤も彼の実際の年齢は外見よりも遥かに上であったのだが)、記憶の中の少年と共通するものは何もなかった。深緑のバンダナで纏められた髪は艶やかな黒。よく研磨された黒曜石の如き瞳の輝きは、静寂に包まれた夜空の色。手にしているのは弓矢ではなく、先端に金属の装飾を施された黒色の棍だった。出で立ちも佇まいも、何もかもが彼とは違うというのに、何故か、気配に懐かしさを感じた。何より左手がそうだと告げていた。あの頃の自分にはわからなかった感覚。同族の呼び合う声―――とでもいうのだろうか、彼もこれを感じていたのだと、何の疑いもなく得心する。
 怪訝そうな瞳を向けてくる少年に、全く臆することなく近づいて、カルマはその懐かしい名を口にした。
「―――テッド?」




「―――まさか、こんなところでテッドの名を聞くことになるとは思いませんでした」
「僕もだよ。ここに立ち寄ったのは本当に偶然―――通る予定だった街道が崖崩れの為に封鎖されてて、迂回した結果だったんだ。もしかしたら、彼が僕たちを引き合わせてくれたのかもしれない……何だか、そんな気さえするよ」
 古びた酒場のカウンターは、行き摺りの旅人たちが肩を並べるには、この上なく相応しい場所のような気がする。半端な刻限の為か、店内に客の姿はまばらだった。
 少年は、ゼファ、と名乗った。先のトラン解放戦争を終結に導いた英雄が、ゼファ・マクドールという名であることは勿論カルマも知っていたが、敢えて尋ねはしなかった。砂粒の確率にも等しい巡り会いの前には、そのような肩書きなど瑣末にすぎない。
「テッドは自分の生い立ちを一切語りませんでした。そんなものなど知らずとも彼とは親友でいられると思ったから、俺も何も訊かなかった。だけど―――いつだったか、彼が俺に、海の話をしてくれたことがありました」
「海の?」
 酒のグラスに視線を落とし、ゼファは微かに瞳を眇めた。透ける琥珀に親友の面影を重ねているのかもしれない。
「俺は内陸の生まれだから、海というものを書物の中でしか知りませんでした。様々な地方を旅してきたテッドなら、海のことも知っているかと思って、話を強請ってみたんです。彼はいつも…どんな話をするときも大抵はにこやかに笑っていたけれど、あのときほど真摯な表情で旅を語った彼を見たのは、後にも先にも一度きりだった」
 グラスの中の氷が、からんと軽い音を立てた。
「テッドがそこで出会ったもの、共に過ごした人々。彼のこれまでの人生において、それが『特別』と呼べるものであったことは、容易に想像がつきました。俺は、テッドにとっての特別は俺ひとりだと信じていたから、彼がそのような過去を持っていることに酷く嫉妬した。機嫌を悪くした俺にテッドは慌てて、おまえも海に行けばわかるだなどと言うものだから、じゃあ本当かどうか確かめてやるから連れて行けと、無理矢理彼に約束を取り付けたりもしました―――それはもう、果たされることのないものになってしまったけれど」
 長い、長い旅路の果てに、彼が辿り着いたところ。
 彼がその想いの全てを託した少年から、語られる彼の姿にカルマは安堵を覚えた。笑えるようになったのだ、テッドは。それがどれほど大きなことか、今のカルマにはよくわかっていた。
 ゼファが、ふっと溜息を吐く。
「今にして思えば―――多分…彼が海で手に入れたものこそが、彼の救いになっていたんでしょう」
「救い…?」
「全てに絶望していたテッドが、もう一度未来を目指そうと立ち上がってくれた―――彼にそれを決意させてくれたのは、あなたではなかったかと、俺は思っています」
 確信めいた言葉に、カルマは少し戸惑った。確かにあの霧の船からテッドを連れ出したのは事実だが、自分がテッドの救いになっていたなどと、カルマには到底思えない。寧ろ、彼の存在に救われていたのは自分のほうではなかったか。ともすればひとりで死地に駆けて行きそうになる自分の手を、果たして何度掴んで引き戻して貰ったことか。
「僕は…彼の力になれるようなことは、何もしていないよ。彼を支えたものがあるとしたら、それはきっと、君だったのではないかと思う。人との関わりを拒んでいた彼が、あんなに穏やかに誰かを語ったことは、他になかったから。彼に笑顔を思い出させたのは君だと、僕は思うよ」
「そんな相手に、俺の分も生きろよだなんて、無責任に言えるでしょうか」
「……ゼファ…?」
 まるで、親友のことを憎んでいたとでも言いたげな台詞に、カルマは眉を顰めた。
 先程から、心のどこかに引っ掛かっていた違和感の正体に、カルマは漸く気付く。この少年が見せる表情。大人びてはいたが、どこか曖昧で掴みどころがない。感情と一致していないかのような不安定な印象で―――まるで壊れやすい人形とでも話をしているかのような錯覚に陥りそうになる。本人は全く気付いていない様子だったが。
 瞳の凍りついたような昏さに、彼が負った心の傷の深さが垣間見える。英雄が先の戦において、その身内の殆どを失ったことは、ここへ来るまでにカルマも噂で耳にしていた。テッドの存在はおそらく、彼にとって最後の砦も同然だったのだろう。
 ―――だから、それすらも理不尽に失って彼は。
「……テッドに、会わせてくれないかな?」気が付けば、カルマはそう口にしていた。「せめてお墓参りくらいはしておきたいんだ」
「墓……ですか?」ゼファは僅かに口籠った。「墓は…ありません。魂を失った彼の身体は、まるで風に攫われるようにして消えてしまいましたから、埋葬することなど出来なかったんです。強いて言うなら…彼が命を落とした場所…。そここそが、彼の墓と呼べるのかもしれませんが」
「そこへ…連れて行って貰えないかな?」明らかに躊躇いを含んだ相手の態度に気付きながらも、カルマは穏やかに、しかし有無を言わせぬ強い声で言った。「会いたいんだ…彼に。だから…君に頼みたい」
 



 季節は折悪しく冬。
 無数の水晶に彩られた道は、降り積もった雪と氷とに閉ざされて、谷全体を堅固な要塞へと変化させていた。
 飛竜の背より降り立てば(麓までは竜騎士に送って貰ったのだ)、後は自分の足で歩いていくしかない。ちらちらと舞い続ける粉雪は、時折気紛れに吹雪と化して、旅人たちの行く手を阻んだ。足場の悪さ故に、常よりも遥か下方にしか竜を乗り付けて貰えなかったのは痛手というほかないが、幸いにしてごつごつとした岩場には小規模ではあるが天然の洞窟も数多く存在し、身を隠す場所には困らなかった。
 然程大きくはない、それでも腰を落ち着けるには充分な広さのある洞窟で、休憩を兼ねて火を熾した。香草茶を啜って冷えた身体を温め、携帯食の干し杏を齧りながら、二人は吹雪が静まるのを待った。
「置いていくものにはわかりませんよ。置いていかれるものの苦痛なんて」
 湯気の立つカップを両手で抱え、ゼファはそう切り出した。
 口調は静かだったが、声のトーンは酒場で聞いたときのものとは微妙に違う。明らかに苛立ちを含んだそれに、カルマは彼が胸のうちに秘めた思いに、少しだけ触れたような気がしていた。
「俺はテッドに生きていて欲しかった。命を捨ててまで守って欲しいだなんて、これっぽっちも願っちゃいなかった。大切なものを守る為に死ぬ。確かにこれ以上ないほどに、それは理想的な死かもしれません。けれど、それで遺されたものはどうすれば良いんです?彼が死んだのは俺を庇ったからだ、ならば俺がいなければ彼は死なずにすんだのか。そんな罪悪感を生きている限り、俺は抱え続けなきゃならない。本当に俺を想うなら、生きることこそを選んで欲しかった。一番大切なものを失う悪夢を味わわせておいて、それでどうして、相手のことを想っているだなんて言えるんでしょうか…」
 最後の言葉は、殆ど独白めいていた。人形のような強張った表情は、未だ変わってはいない。だが、彼が抱え込んでいるものの正体を予想することはカルマには難くなかった。何故なら、それは自分にも覚えのある感情だったから。
 彼はまだ、気が付いていないだけだ。否、気付いていて、敢えて見ない振りをしているのかもしれない―――自分自身を守る為に。
 けれど、それはけして、救いにはならない。
「僕にもね…親友がいたよ」過ぎ去った日々に思いを馳せる瞳をして、カルマは言った。
「……いた?…」過去形の語尾を耳聡く聞きつけ、ゼファは俯いていた顔を上げた。
「うん……いたんだ。僕が裏切って…捨ててきた」
 カルマの言葉に、ゼファの瞳が大きく見開かれる「…何故!?」
「僕はね…置いていくのは自分のほうだと思っていたんだよ」自嘲的な笑みと共に、カルマは静かに語りだした。「けれど気が付けばいつの間にか、僕の手には、人の身には余る時間が委ねられていた」
 罰の紋章は宿主の命を糧とし、その力を発揮する。死を望んでいたわけではなかったが、大切な人々を自分ひとりの犠牲で守れるのなら、カルマには迷う理由は何もなかった。遺していくものたちの幸せを願いながら、果てていけるのであればそれで構わなかった。
 だが、紋章は身喰いの呪いより解放された。閉ざされたはずの未来は、再びカルマの手中に戻ってきた。奇跡という名の光に包まれたそれが、しかし新たな悪夢の始まりであったとは誰が予想出来ただろう。真の紋章の齎す尤も忌まわしい呪いを、カルマは身をもって体験することになる。
 時を刻まない身体。変わらない姿の自分を嘲うかのように、変わっていく周囲。立場は完全に逆転した。誰もいなくなった世界に、たったひとりで取り残される恐怖。終焉のない未来を思えば、その恐ろしさに全身が震えた。されど死を選べば、自分の手を離れた罰は、次なる宿主を探して再び移ろうこととなる。他に選択肢のあるはずもなかった。置いていかれるのは嫌だと、子供のように泣きじゃくる以外、カルマに何が出来ただろう。
『どれだけ一緒にいたいと願ったって、結局君は、僕を置いていってしまうじゃないか……!!』
 背を撫でる温かい手には、既に深い皺が幾つも刻まれ、生気の衰えた身体は以前よりずっと小さくなったように感じられた。傍目にはきっと、年老いた祖父が駄々を捏ねている孫を宥めているようにしか映っていないのだろう。
 テッドが、あの小さな身体にどれほどの哀しみを秘めて生きてきたのか。あの頃には悟り切れなかったそれを思うと、今更ながらに彼の強さを、そして自分の弱さを思い知らされる。
「それでもね……スノウは嬉しいって言ってくれたんだ」ここにはいないその人の面影を辿るように、カルマは薄く微笑んだ。「初めて君が、君自身の為に泣いてくれた…って」
 辛いときに辛いと言えなかった自分を、ずっと案じていてくれていたスノウ。その原因の一端は自分にあるのだと、彼もまた自分自身を責め続けていたのだということを、カルマはこのとき初めて知った。
 ―――自由になっても、いいんだよ、と、スノウは言った。
『ここに留まる必要はないんだよ。僕を覚えているのが辛いなら、忘れてくれて構わない。好きなところに飛んでお行き。僕が君にしてあげられることは、それくらいしかないのだから―――』
「………その日のうちに群島を出た。そして、それきり、あの場所には戻っていない。あのまま群島に留まって、彼の最期を見届けてしまったら…僕はきっと二度と立ち上がれなくなる。けれど…その瞬間を知らずにすんだのなら、彼はまだ、この世界のどこかで生きているかもしれないという希望に縋ることが出来る…実際にはそんなことがあるはずもないのだと、理解出来るだけの時間はもう流れているというのに」
 逃げだということは、自分でもわかっていた。
 置いていかなければならないものの苦しみ、それもまた、その立場に立たされたものにしかわからない。だから、カルマにはわかっていたはずなのだ。スノウがどれだけ辛かったかを。身を切る思いに苛まれながら、自分の幸せを願ってくれていたのかを。彼を想うなら、自分は最後まで共にいるべきだった。スノウに許されたこととはいえ、後悔は今もカルマの胸中にしこりのように重く蟠っている。
「けどね……逆の立場だったら…きっと僕も、彼と同じことを言っただろうと思うんだ。だって、置いていかなくてはならないものに出来ることは、遺されたものの幸せを祈ることだけだもの」
 カルマはそこで言葉を切り、静かに瞳を伏せた。手の中のカップは、とっくに冷たくなっている。
 ゼファもまた、何も応えなかった。凍りついた表情のままで、じっと考え込むように押し黙っている。昏い夜色の瞳は、ここではない景色を映しているようにも見えた。
 吹雪はいつの間にか治まり、切れた雲の隙間から微かに光が差していた。




 厳しい季節故に、今は魔物たちも活動を控えているのだろうか、道中その姿を見掛けることは稀だった。だが、それでも時折、飢えに絶えかねたと思われるものが、久方ぶりの獲物に目を血走らせて襲い掛かってくることもある。
 数々の死線を潜り抜けてきた二人にとっては、この谷に生息する魔物も、最早梃子摺るほどの相手ではない。しかし、それでも一度だけ、ひやりとさせられる場面があった。
 敵はクィーンアントだった。鋭い牙を剥き出しにして襲い掛かってくる蟻の化け物に、カルマは躊躇なく剣を向けた。背中の羽を斬り裂かれ、節くれ立った足を幾本も斬り飛ばされて、巨大蟻はもがいた。あと一撃で決まる。棍を構えて走るゼファの身体が、そのとき凍った岩場に足を取られて大きく傾いだ。好機とばかりに、巨大蟻の牙がゼファに迫る。体勢を崩したとはいえ、避けられない距離でもタイミングでもなかった。だが、しかし。
「ゼファ!?」
 牙が掠めた箇所から、鮮血が流れ落ちる。短く洩らした呻きは、次の瞬間には断末魔の咆哮に掻き消された。カルマの剣に後ろから貫かれ、巨大蟻の身体はゆっくりと崩れ落ちる。雪煙が舞い上がり、そして唐突に静寂を取り戻した空間に、パタパタという足音が響いた。
「大丈夫、ゼファ!?」
 駆け寄ってきたカルマは、ゼファが顔を顰めるのにも構わず、肩をぐいと掴んで傷の具合を確かめた。
「それほど深くはないけど…すぐに手当てしよう」
「……いいです。大したことありませんから」
「駄目だよ。傷口から細菌が入ったら大変なことになる―――何で避けなかったの?」
 その声に非難の色はなかったが、ゼファは軽く唇を噛んで俯いた。
「嫌なことを…思い出しただけです」
 それ以上、ゼファは何も語らなかったが、思いつめたような眼差しが、カルマの胸に痛々しく灼きついた。
 カルマは知らなかった。テッドがゼファの前で、初めてソウルイーターを使ったときのことを。その相手が他ならぬクィーンアントであったことを。この凶暴な巨大蟻は、あのときのゼファの手に負える代物ではなかった。自分の弱さ故に彼に紋章を使わせてしまったこと、そしてそれこそが、彼を失う切っ掛けとなってしまったこと。それは今でもゼファの中に、消えない傷として残っている。
 結局、彼を殺したのは、自分なのだ。自分の無力さこそが、彼を死に追いやったのだ。
 ―――本当はわかっている。あのときはあれしか方法がなかった。仕官し始めたばかりで、あのような魔物に遭ってしまったことは、ただの不運でしかない。本当は誰も悪くなど…間違ってなどいなかったのかもしれない。だが、それでも紋章を使った彼を恨まずにはいられなかった。彼にそのような選択を強いてしまった、自分を憎まずにはいられなかった。
 ここへ来ると、きっと思い出すと知っていた。だから躊躇った。今は亡き親友に、自分の弱さを糾弾されているような気がして。
 ―――せめて。
 笑顔の彼に、もう一度会うことが出来たなら。
 そうすれば、何かが変われる気がするのに。
 それはなんてささやかな、しかし虚しい望みだろう。
 ―――頂上まであと少しというところで、日が落ちた。
 二人は、かつて物好きな鍛冶屋が住んでいたという、今は無人となった小屋で夜を明かし、明日の朝、頂上へと向かうことにした。
 吹雪の音も今はもう聞こえず、降り積もった雪と砕けた水晶の欠片が、頼りなげな星明りを映して輝いていた。それぞれの思いをその闇のかいなに閉じ込めて、夜は静かに更けてゆく。
 

 
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