牧童の時計













1.


 降りしきる雨に視界は暗く遮られ、途切れることのない雨音は、この地に染み付いた無念の嘆きを思わせる。
 だが、それでも。目を背けたいとは思わないのは。
 前を歩く背中の、優しさを知っているからかもしれない。





 泥濘に足を取られそうになる度、彼は声もなく振り向いた。汗と雨粒に濡れる額を手の甲で無雑作に拭い、大丈夫だと頷き返すと、彼もまた薄く微笑って、再び前に向き直る。その足取りには些かの迷いもなかった。
 僅かに上がった息を、それでも彼には悟られるまいと喉の奥に押し込めて、テッドも再び歩き出した。煙る視界の中、それでもその背中だけは見失うまいと、懸命に瞳を凝らして。
 瓦礫と化した街、無残にも薙ぎ倒され、焼け焦げた森林―――圧倒的な力に無慈悲に引き裂かれたこの場所も、かつては花と緑に溢れた美しい島だったのだという。穏やかな日々が一瞬にして惨状に変わる様は、死神を右手に宿して久しい自分にはもはや身近になりつつある光景だが、前を行く彼はそうではない。この光景を初めて目にしたとき、果たして彼は何を思い、何を誓ったのか。問いかけたい思いを、しかしテッドは頭を振って胸の内に閉じ込めた。
 沈黙の街を抜け、閑散とした林道を歩く。
 破壊の爪痕はここにも容赦なく伸びていた。木という木は朽ち果て、剥き出しの地表は降り注ぐ雨をその身に留めることすら出来ずに、ただ流れるに任せている。
 ―――この先に、確かめたいものがある。
 イルヤ行きの目的を彼から告げられたときは、正直、何をくだらないことを、と思いもしたのだ。
「植樹」
「―――は?」
「この前ネイに行ったときにね、苗木を何本か仕入れてきたんだ。前に行ったときにも植えたのがあるから、今どうなってるのかも見ておきたいし」
 紋章砲の砲撃によって廃墟と化した島の話はテッドも聞いていた。以来、局地的に降り続く雨に閉じ込められたその場所は、訪れるものもないままに時の流れの中に埋もれつつある。戦乱の中ならば珍しくもない話だ。いちいち感傷に浸っていたのでは勝利など望めない。このまま朽ちる定めにない場所ならば、放っておいても蕾は自然に花開くだろう。何もわざわざ死人を起こすような真似を――とテッドは嘆息せずにはいられなかった。
「何でおまえがそんなことをする必要がある?」
「何でって…折角綺麗な島だったんだし、少しでも早く復興してほしいと思って」
「そんなことは他の連中が考えればいい。おまえはその島に住んでたわけでもないし、大体そこが攻撃されたときは、おまえまだ軍主になってなかったんだろ?責任を感じてるってんならお門違いだ」
「そんなんじゃないよ。これは軍主としてではなく、僕個人の望みだ。この船にだってイルヤで傷ついた人も乗ってる。その人たちの前で、関係ないって顔はしたくないし、早く元の穏やかな生活に戻してあげたい。その為に僕が出来ることがあるなら、どんなにちっぽけであってもやっておきたいだけなんだよ」
「雨のやまない地なんだろ。下草もない、ろくに地均しも出来ないような場所に幾ら苗木を植えたところで、土ごと流されるだけだぞ。仮に根付いたとしても、満足に陽の当たらないような環境で、抵抗力の弱い若木が保つとも思えない。殆ど成長出来ないまま枯れるのがオチだ。やるだけ無駄なんだよ」
「そうかもしれないね」
 悲観的な肯定を、悲観とはほど遠い口調でさらりと告げ、カルマはでも、と続ける。
「無駄かもしれないからって、何もしないで目を背けていることのほうが、余程無駄だと思わない?」
 ―――優しい声音でにこりと微笑まれれば、テッドもそれ以上は何も言えなかった。
 …バカなヤツだ。
 雨音に紛れるように独りごちるも、結局はこうして着いてきている自分も、実は結構なバカなのかもしれない。雨よけのフードの陰に苦笑を隠して、テッドは軍主の隣を歩く青年の、背に負われた麻袋に目を留める。
 ―――あの中の命の、果たしてどれだけが生き残れるのか。
 徒労だ無駄足だと思う気持ちは未だ萎えてはいない。幼馴染みだからって、こんな酔狂に付き合わされるなんておまえも災難だな、と言うと、しかしスノウは穏やかに笑って、僕もカルマと同じ考えだよ、と躊躇いのない言葉を返してきたのだ。
 全く…どいつもこいつも。みんな揃ってバカばっかりだ。
 ふと、視界の端を蝶のように、ひらひらと白いものが横切っていく。連れの最後の一人である瞬きの少女は、その白いローブが泥で汚れるのも構わず、はしゃいだ足取りで雨の中を渡っていく。
「もうすぐですよ」
 少女の無邪気な声が、澱んだ大気を震わせる。
「あと少しで着きますから」
 ひらりひらりと歌うように。弾む声が雨音に融けたそのとき、目の前が開けた。
 ―――元は、海を臨む美しい草原だったのだろうと思れるその場所は、今は立ち枯れた老木が数本、魔女の指のような痩せさらばえた姿を晒すだけの荒野と化していた。遮るものもなく、海から直接吹き付ける風に耳が痛い。周囲に視線を走らせれば、地面の一部が不自然な形に変形しているのがわかった。何か大きな力で抉り取られたような歪み――紋章砲の弾道が掠めた痕だと気付き、その威力の凄まじさにテッドは息を呑んだ。これは戦場とは言わない。一方的な虐殺だ。本来人が持つべきものではないその力を、何の躊躇いもなく罪なき命の上に振り下ろせる人間もいるのだという事実に、胸を掻き毟りたいほどの遣る瀬無さが込み上げてきて、テッドは拳を固く握り締めた。
 その時。
「……あった!!」
 場にそぐわぬ明るい声が傍らから上がる。泥濘るんだ地面をものともせず、雨の中を駆け出した少女は、程なく立ち止まり地面に蹲った。後を追った三人は、愛おしげに瞳を細めた彼女の、その視線の先にあるものに目を奪われる。
 この世に生れ落ちてから、まだ然程時を経ていないと思われる小さな若木。カルマたちが以前来たときに植えたというものだろう。吹き付ける風雨に晒されたまま、ひっそりと佇むその細い枝の先には―――しかし芽吹いたばかりの萌黄が確かに息づいていた。
「生きてる」
 ふわり、カルマが微笑う。けして大きくはない呟きは、それでも雨音に紛れることなく、ストンと心に落ちる。たったそれだけの言葉なのに、どうしてそれは泣きたくなるほどに温かいのだろう。
 目元をぐい、と乱暴に拭う。
「…テッド…泣いてる?」
「……五月蝿い」
 雨が目に入っただけだ、とぶっきらぼうな声を返し、テッドはスノウの背から、苗木の入った麻袋を取り上げた。
「さあ、やるならとっとと始めようぜ。その為にここに来たんだからな」
 照れ隠しを自覚しながら、殊更つっけんどんに言い放つ。
 全てを見透かしたように穏やかに微笑って、海色の瞳は静かに頷いた。






 蹲って黙々と土を均していたテッドは、ふと作業の手を止め、顔を上げた。雨を含み、吹き付けてくる風は相変わらず強いが、それでもただもう冷たいだけのものだとは思わなかったのは、きっと先程目にした奇跡の所為だろう。
 運命の奔流に虐げられても、命は朽ちることなく、また新たな花を咲かせる。誰にも守られずに、それでも毅然と顔を上げて。
 この世界にはまだ、優しい光が満ちている。
 知っていた筈なのに、いつの間にか身に付いていた諦めに流されて、心のどこか片隅に押しやっていた。
「今回は完全に負けたな…」
 自嘲気味に、しかしどこか晴れやかな声で呟いて、作業に戻ろうと落としかけた視線に、少し離れた場所で蹲る少女の姿が映った。小さなスコップを片手に熱心に土を掘り返しているが、植えているのはどうやら苗木とは違うもののようで。何となく興味を覚えてテッドは彼女の傍に歩み寄った。
 子供のように無邪気な表情で土いじりを楽しんでいたビッキーは、ふいに近づいてきた気配に顔を上げた。
「あ、テッド君」
「………花の種か」
「はい、ここに来る前にイザクさんに貰ったんです」
 雨の雫から庇うように抱え込まれた彼女の膝の上には、油紙で作られた小さな袋があった。過酷な道程にも関わらずカルマが彼女をここへ連れてきた理由がわかって、テッドは小さく微笑んだ。―――どうしても行くって言って聞かないんだよ―――そう言って微笑った軍主は、おそらく彼女が託されたものの存在を知っていたのだろう。
「花は…咲くかな?」
 半ば独り言のように呟いた言葉に、少女は真昼の太陽のような鮮やかな笑顔を返した。
「咲きますよ。私は今まで色んな所を見てきましたけど、どんなにメチャクチャになった場所でも、花は必ず咲いてました」
「…そうか」
 そう言って、ふとその笑顔を通り越した先に視線を向けたテッドは、灰色の風景の中にポツリと一箇所、陽だまりのように明るい色彩が落ちているのに気が付いた。訝しげに細められた琥珀に少女も不思議そうに首を傾げ、その視線の先を目で辿り、パッと顔を輝かせた。
「あっ!タンポポ!」
 ―――海へと緩く突き出した岬の先端、潮風をまともに受けるその場所に、花はひっそりと、だが誇らしげに咲いていた。灰色の中にたった一人、それでも毅然と顔を上げて。逆境にあって尚挫けない小さな命を愛おしむように、少女は立ち上がると花へと向かって駆け出した。子供のように無邪気な背中、はしゃいだ足取りが、だがふいに大きく傾ぐ。
 踏みしめた彼女の足元が崩れたのだと理解するより早く、テッドは地面を蹴っていた。バランスを崩したその先は真っ逆さまに海。宙に投げ出されかけた細い身体を捕らえようと腕を伸ばしたとき、視界が大きくぶれる――ここもか!!地面の感触が足元から消えるのを感じて、テッドは咄嗟にビッキーを脇に突き飛ばした。
 風を孕んだ白い裳裾の軌跡が尾を引くようにして視界から消えた刹那、大地の支えを失った身体は崖を転がるように落下する。次の瞬間勢いよく叩きつけられて、声にならない悲鳴が漏れた。激痛に視界が一瞬白く霞む。衝撃に全身の感覚が麻痺して、呼吸するのもままならない。暫くは自分がどっちを向いているのかすらわからない状態だったが、顔にばらばらと当たる雨の気配に気付いて、ようやく自分が仰向けのまま無防備に地面に転がっていることを知った。てっきり海へと転がり落ちたかと思っていたのに、背中に触れる感触は確かに水を含んだ土のそれで。テッドは薄く目を開けて、まだ微かにぼんやりとする瞳を空へと向けた。
 低く垂れ込めた天に向かって黒々と聳え立つ崖の上から、白いローブを纏った少女が今にも泣き出しそうな顔でこちらを見下ろしているのが見えた。遠目からではよくわからないが、大した怪我もなさそうなその様子に安堵する。良かった、と唇の内で呟き、起き上がろうと身体に力を籠めた途端に激痛が走り、テッドは低く呻いた。
 肋骨のニ、三本はイったかな…と妙に冷めた頭で考える。深い虚脱感に大きく息を吐こうにも、その度に訪れる痛みに空気が喉をうまく通過してくれない。言うことを聞かない全身を持て余し、ふいに何もかもがどうでもよくなって、雨に打たれるのもそのままに再び瞳を閉じる。自分の名を呼ぶビッキーの声が聞こえたような気もしたが、それすらも意識の端に追いやって、テッドは唇の端を僅かに吊り上げた。ここで果てるのならば、それも悪くない―――。
「テッド!大丈夫!?」
 ……唐突にどさっという音と共に、何かが土砂を撒き散らしながら自分の傍らに落ちてきたのがわかった。掛けられた声の思いも寄らぬ近さに驚いて目を開けると、全身泥だらけになった軍主が険しい顔つきでこちらを覗き込んでいた。至近距離に迫った碧い瞳に、テッドの意識は一瞬で覚醒する。そんなまさか。この崖を滑り降りてきたとでも!?ありえない!!
「おま…っ…!何やって……!!」
 呼吸すら満足に出来ない喉で思わず絞り出した声に、再び肺が引き攣れてテッドは苦痛に顔を歪めた。
「動かないで!どこか怪我したの!?」
 厳しい声が耳を打つ。心配そうなその表情が、怪我の痛みよりも更に強くテッドの胸を抉った。コイツにこんな顔、させるつもりはなかったのに。
「スノウ!」身じろぎもせず、横たわったままのテッドに、カルマは上空へと向かって声を張り上げた。応えるように淡い髪色の青年が、崖の上に姿を現す。
「僕の荷物の中に瞬きの手鏡が入ってる。それでビッキーと一緒に直ぐに船に飛んで!テッドが怪我してる!」
「わ、わかった!」言うなりスノウはビッキーの手を引いて身を翻す。さして間を於かずに鏡の発動した気配を肌に感じて、テッドは掠れた声で呟いた。
「大袈裟だな…大したことない」
「でも動けないんだろ?」
「目が回っただけだ。少ししたら治る…それよりおまえ、何でこんな所まで降りてきた?」
「そんなの決まってるよ。テッドが落ちたからだ」
「だからっておまえ…!」思わず上げかけた声にまたしても激痛が走るが、今度は気力で捻じ伏せて、テッドはカルマの泥で汚れた顔を睨み付けた。「おまえは軍主だろ!俺なんかの為に危ない真似をするな…一歩間違えば、海に落ちるところだったんだぞ!こんなことして、おまえまで怪我したらどうするつもりだったんだ…!」
 

 
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