2.




 瞬間、カルマがぴくっと身体を震わせたのを見て、テッドは自分の失言に気が付いた。
「…やっぱり怪我してるんだね。どこ?」
 有無を言わせぬ強い口調で詰め寄られて、とうとうテッドも観念する。「…アバラ。多分、二、三本はイカれてる」
 わかった、と頷いて、カルマは素早くテッドの外套の釦を外し、薄い上着一枚隔てた胸の上に、風の紋章を宿した右手を当てた。魔力を集中させた指先からふわりと柔らかい風が溢れ、痛みが嘘のように引いていく。
「これで、取り敢えずは大丈夫だと思う。けど、僕の魔力じゃ炎症を鎮めることは出来ても完治はさせられないから…船に戻ったらちゃんとユウ先生に診て貰わないと」
「…すまない…」
 真摯な眼差しに、えも言われぬ罪悪感を覚えてテッドは力なく呟いた。カルマは首を横に振り、僕のほうこそ、と声を落とす。
「雨で地面が脆くなってるのはわかってるんだから、こうなる可能性も考慮すべきだった。もっと海から離れた場所で作業していれば防げた事故だったのに…ごめん」
 まだ幾分痺れの残る身体を叱咤して、テッドはゆっくりと半身を起こす。途端、ふらりと眩暈に傾きかけた身体を、カルマの慌てて伸ばした腕が支えた。
「やっぱりバカだ、おまえ…」一人では満足に座ることも出来ない今の状態では全く格好もつかないが、それでもテッドは言わずにはいられなかった。「そうやって…軍主だからって…何でもかんでも自分に責任があると思ったら…一人で抱え込めば良いと思ったら、大間違いだぞ」
「変なの」カルマは呆れたように瞬いた。「さっきは軍主なんだから危ないことするなって言ったくせに、今度は軍主だからって責任感じる必要はないって言うんだね」
 矛盾してるよ、と微笑うカルマの頭に、テッドは軽く拳骨を降らせた。
「……おまえが無茶やらかす度にはらはらする俺の身にもなれってことだ。バカ」
 普段のテッドの口からは絶対に聞かれることはないだろう台詞を耳にして、カルマの瞳が大きく見開かれる。真っ直ぐにこちらを見詰めてくる眼差しから逃れるように、テッドはカルマの肩先に顔を伏せた。
「そうやって何でも一人で背負い込もうとするくせに、自分の命だけ、躊躇いもしねぇであっさり放り出すような真似するんじゃねぇよ…!」
 声が震えているのが自分でもわかる。何故、今日に限ってこれほどまでに自分の感情を制御出来ないのか。うまく働かない頭で考えて、ようやくテッドはあることに思い至った……以前、カルマはオベルを守る為に、自らの命を顧みることもなく身喰いの紋章を発動させた。だが、あのときカルマの周囲にいたのは自分だけではなかった。オベル王をはじめ、この軍にとって欠けてはならぬ人物があの場には大勢いた………今は違う。この場には自分しかおらず、そして自分は軍の中にあって特に重要な役職を任されているわけでもない。いようがいまいがこの戦いの行方には何ら関係のない存在である自分の為に…いや、それどころか、あの船に災厄を齎す可能性すら持つ死神である自分の為に…この心優しい少年が、いつ尽きるとも知れぬ命を惜しげもなく曝け出そうとしたことが堪らないのだ。
 おまえは俺とは違うだろう!!
 そう叫びたい思いを必死に抑え、テッドはカルマの肩に強く額を押し付ける。
「…テッド、そうじゃない。そうじゃないよ」
 労わるような声と共に、優しい掌がそっと背中を撫でた。
「放り出したわけじゃない……ただ、放っておけなかっただけだ。君が危ない目に遭っているのに、何もしないでいることなんて出来なかっただけだよ」
「……」
「君が僕の弱さを認めてくれたように。ここにいる、と言ってくれたように。だから僕も君にここにいて貰いたいと思った…それだけだよ」
 生きろ、と言われたような気がした。
 軍主だとか、紋章だとか、呪いだとか。誰が誰にとって必要だとかそうでないとか。
 そんなことは一切関係なく…ただ命だから…その命のままで生きていいのだと。そう、言われた気がした。
「…やっぱり、おまえはバカやろうだ……」
「バカバカってそればっかり。傷つくなぁ」
 傷ついた風でもなくそう言って、カルマはテッドの背に廻した手に、優しく力を籠めた。
 包み込んでくれるその手を取りたい衝動を堪え、肩に額を預けた姿勢のまま、テッドは固く瞳を閉じる。
 この腕は、縋る為のものではなく、守る為のものだ。
 俺は、おまえの重荷にはならない。
 俺の決意も生き様も、おまえには背負わせない。
 おまえは、ただ前だけを向いていればいい。
 おまえが信じた光を、それだけを見据えて走ればいい。
 そのときまで、俺は俺の全てを以って、おまえに報いよう。
 ―――約束する。



 落ち着いて周囲を見廻してみれば、そこは海面近くに張り出した岩棚だった。先に落ちて降り積もっていた土砂が、落下の衝撃をかなり和らげてくれたようだ。もし剥き出しの岩肌に直に叩きつけられていたら、肋骨を折るくらいでは済まなかったかもしれない。不幸中の幸いとはまさにこのことだろう。
 頂上まではかなりの高さがある。晴れていればともかく、雨で崩れやすくなったこの崖を綱も何もない状態で登るのは不可能だろう。まして、癒しの呪文の恩恵に与ったとはいえ、テッドの身体はまだ完全に回復したとは言えない。動けないわけではなかったが、本調子にはほど遠かった。
「助けがくるのをのんびり待つ…といきたいところなんだけど、そう悠長なことも言ってられないんだよね」
「どういうことだ?」
「海面。水位が上がってる。今水中で揺れてるそこの岩。さっきまでは海の外に出てたよ」
 カルマの指が濁った海面の一点を指し示す。目を凝らすと、そこに確かに尖った岩らしきものが突き出ているのが見えた。だが、いくらも経たないうちに荒れる波は僅かに残った先端をも飲み込んで、暗い海中に閉じ込めてしまう。
「な…どうなってるんだ?」
「潮が満ちてきてるんだよ」
 カルマはそう言って首を巡らし、今度は岩棚よりも更に上方の、崖の中途に突き出た岩を示した。潮風に晒され、白っぽく風化したそれに、千切れた海草が何枚も引っ掛かっているのが見える。
「…前の朔から今日で二週間か…タイミングが悪かったな…ちょうど大潮に当たってる。あとどれくらい時間が掛かるかはわからないけど、満潮になれば間違いなく、水面はあの位置まで上がるよ」
「……!?」
「崖を這い上がるのは無理。泳ぐには潮の流れが速すぎる。船を停めた場所からはちょうど死角。他の船が通り掛る偶然はまず望めない…絶体絶命ってヤツだね」
 その表情に翳りの色はないが、声は硬い。何処かに逃げ場はないかとテッドは周囲に視線を走らせたが、狭い岩棚は完全に孤立しており、空を飛ぶ術でもなければ全く行き場のない状況だった。打開策も浮かばないままに、刻々と時間だけが流れていく。海は見る見るその領域を広げ、二人は徐々に崖の際まで追い詰められていく。
「どうする?」
 厳しい声を隣に向ければ、カルマは背後の崖を振り仰いだ。そのいやに落ち着いた表情に、テッドは不審を覚える。
「テッド、僕に考えがあるんだけど」
「却下だ」
「…まだ何も言ってないんだけど」
「言わなくてもいい。どうせろくでもないことだろ」
「酷いなぁ…ただ、ちょっと…罰の紋章の力で、この崖を少しだけ削れないかと思っただけだよ。もう少しだけこの斜面が緩やかになれば、多分歩いてでも上まで登って…」
「だから却下だ!そんな危険な真似させられるか!」
「うん、危険なのはわかってるよ。一歩間違えれば崩れた土砂の下敷きになりかねないし……けど他に方法は…」
「そんなことを言ってるんじゃねぇ!!」
 叩きつけるような剣幕に、カルマは言葉を途切れさせた。
「この期に及んでおまえだけ犠牲に出来るか!」
「けど、このままじゃ二人とも助からない」
「ふざけんな!おまえは…おまえは信じてねぇのかよ!」祈るような気持ちで、テッドは船の停まっていると思われる方角を睨み付けた。「きっと…来てくれる…絶対に間に合う…おまえの仲間だろ!おまえが信じてやらなくてどうするんだよ!」
 痛みを堪えるような表情で俯いてしまったテッドの横顔を、子供のように無防備な表情で、カルマは呆然と見詰めた。沈黙の落ちた空間に、雨と波の音がいやに大きく響く。手を伸ばせば届きそうな距離にまで迫った波の、顔に掛かる飛沫を手で払って、カルマは小さく呟いた。
「…ごめん…」
「もう、紋章のことは言うな…」
 声もなく、こくりと頷く。灰色の奈落はもう足元まで来ていた。
 負けるまい、とは思っても忍び寄る脅威にやはり身体は竦む。僅かでも水際より遠ざかろうと横へ踏み出した刹那、ぬるついた地面にテッドは足を滑らせた。
「―――!!」
 声を立てる間すらなく、海面へ投げ出される。途端、強い流れに横様に攫われ、そのまま引き擦り込まれそうになった身体を、別の力が掴んで引き止めた。濁流に揉まれながらも懸命に顔を上げると、限界まで海面に身を乗り出しながらも、捕らえた手首を離すまいとするカルマの姿があった。空いたほうの手で、残り少ない足場にしがみつくその身体にも、非情な波は容赦なく襲い掛かる。
「カルマ!!」声の限りに呼ぶと、カルマは気丈にも笑って見せた。
「バカやろう、離せ!おまえまで流される!」
「嫌だ!」悲鳴混じりの叫びは、間髪入れない怒号に打ち消される。「絶対に離さない…僕は…絶対に諦めない!!」
「何で…」呻くように呟いたテッドの脳裏に、過ぎし日の記憶が鮮やかな映像を結ぶ―――消えた舷梯、落下の浮遊感、そして一瞬の躊躇いもなく伸ばされた力強い手。助けられた礼すら言わず仏頂面でそっぽを向く自分に、はにかんだ笑みと共に掛けられた言葉――「…友達に、ならないか――?」
 ―――多分きっと、あのときから俺の負けは決まっていた。
 どんなに拒絶しても、変わることなく向け続けられる優しい言葉と眼差しが嬉しくて。その反面、誰にでも手を差し伸べるくせに誰の手をも取ろうとしないその頑なさが許せなくて。軍主の仮面の下に隠された、子供のような無防備な素顔を垣間見る度に、放っておけなくなって。
 …ここでゲームオーバーには出来ない。
 死ぬときは二人一緒だなんて陳腐なシナリオ、俺は絶対に認めない。
「俺は大丈夫だから…死なないから…だから…!」
 手を離せ、と叫んだつもりだった。そのとき。
 潮の苦さと共に吸い込んだ息が声帯を震わせるよりも早く、繋がれた二つの手に寄り添うように新たな力が加わって。一瞬の後、テッドの身体は水の外へと引き上げられていた。
「スノウ…!」
「良かった…間に合って…」
 間一髪で危機を救った青年は、肩で大きく息を吐きながらも柔らかな笑顔を見せる。やはり崖を滑り降りてきたらしい、その泥だらけになった全身を見遣って、テッドはもはや言葉もなく、諦めたように首を振った。
 ―――やっぱり、どいつもこいつもバカやろうだ―――
「皆さん、大丈夫ですか!」
 心配そうな声と共に、崖の上に黒髪の青年が姿を覗かせる。カルマが手を振って合図を送ると、アルドは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「お待たせしてすみません!今ロープを下ろしますから、もう少しだけ待ってて下さい……ああ、テッド君は怪我をしてるんでしたよね?僕が降りてって背負いましょうか?」
「要らねぇよ、余計なお世話だ」
 にべもなく返される憎まれ口に、どっと笑いが起こる。他にも何人もの人間が来ているのだろう。心から安堵の笑みを浮かべ、カルマはスノウと顔を見合わせた。
 水位は更に上がり続け、足元は既に水浸しとなっていたが、もう恐怖は感じなかった。






「何であんな危ない真似をしたの、スノウ!?一歩間違えれば海に落ちるところだったんだよ!!」
「そんなこと言ったって、ロープを下ろすのを悠長に待ってたら間に合わないだろ!僕がああしてなきゃ、今頃二人とも海の藻屑だよ!それに、危ない危ないって言うけど、君だって同じようにあの崖を滑り降りてるじゃないか!?」
「僕が降りたときには足場はあんなに狭くはなかった!!」
「………おまえら、痴話喧嘩もいい加減にしとけよ…」
 濡れた髪をタオルで拭きながらテッドがぼそっと零した声に、息荒く言い争いを繰り広げていたカルマとスノウは赤面し、周囲から明るい笑い声が上がる。第二甲板の鏡の前は、帰還した軍主たちと、その無事を喜び合う人々とが賑やかに屯して、ちょっとしたお祭り騒ぎだ。
「まあまあ。確かにスノウ君の行動は無茶でしたけど、あの状況では一刻の猶予もありませんでしたし。結果的にみんな無事だったんだからいいじゃないですか。ね、カルマさん?」
 甲斐甲斐しく世話を焼きながら、アルドが宥めるように言う。カルマは溜息を吐き、拗ねたような困ったような瞳でスノウを見上げ…そしてようやく小さく微笑み、ありがとうと呟いた。スノウも小さく笑い返して、仕方がないといった風に肩を竦める。
「でも、本当によく間に合ったね。あそこ、船の停まってる場所からはかなり距離があったのに。大潮の時は半刻かそこらでも結構海面の高さって変わるものだから。あと少しでも遅れていたらと思うとぞっとするよ」
「いや、これに関しての殊勲者は、実は彼女なんだ」スノウがそう言って振り返ったのは、傍で汚れたタオルを片付けていた窓職人の少女だった。皆の視線が一斉に自分に集中したのを感じ、ナタリーは気恥ずかしそうに頬を赤らめて下を向いてしまう。スノウは笑って言葉を紡いだ。
「手鏡で救援を呼びに来たのはいいものの、実は僕とビッキーだけで皆をカルマたちの落ちた場所へちゃんと誘導出来るかどうかは、かなり怪しかったんだよ。僕はイルヤに来たのは今日が初めてで、一度しか通ってない道を間違いなく覚えている自信はなかったし。ビッキーは…まあ…ああいう子だしね。どうしたものかと途方にくれていたら、そこへちょうどナタリーが通り掛ってね。彼女はイルヤの出身だから、僕の不充分な説明からでも何とか場所の見当をつけて、最短の道を教えてくれたんだ」
「…いえ、私も自信があったわけではないんです…ただ、ビッキーさんが泣きじゃくりながら、しきりにタンポポ、タンポポって繰り返してたから…もしかしたらあそこじゃないかなって、そう思っただけなんです」
 少女のおずおずとした声に、テッドは灰色の中に落ちていた色彩を思い出した。降り続く雨に打たれながらも、毅然と顔を上げて立っていた真昼の太陽を。
「あの原っぱは、イルヤがあんなことになる前は、タンポポの花の咲き乱れる、それはそれは美しい場所だったんです」
 失われた風景を懐かしむように瞳を細め、夢見る声でナタリーは言った。
 闇の中で、花は咲いた。怨嗟と絶望の渦巻くこの島で、それでも喪われた命を繋ぐように。誰にも守られることなく、それでも誰かを守るように、誇らしげに背筋を伸ばして。
 その魂の輝きは、どことなくあの海色の瞳に似ている。
 それはきっと、命の意志とでも呼ぶべきもの。
 ……この世界にはまだ、優しい光が満ちている。
 テッド君テッド君、と後ろからしきりに突く長い指に振り返れば、熱いスープのカップを差し出したアルドが、にこにこと笑みを浮かべながら言った。
「タンポポの花言葉、テッド君は知ってる?」
 カップを受け取って、いや、と首を横に振ると、アルドは黄昏色の瞳を微かに細め、とっておきの秘め事を打ち明けるかのような悪戯っぽい表情になった。
「真心の愛、っていうんだよ」
 臆面もなく告げる無邪気な瞳に、訳もなく恥ずかしさが込み上げてきて。無言のまま、テッドは彼の頬を景気よく張り飛ばした。






 形のない希望でも、信じていいと今は思える。
 この命は、たくさんの星たちに支えられて生きている。
 ―――だから俺も、俺の全てを以って報いよう。
 俺にもう一度未来をくれた、愛すべきバカやろうどもの為に。

 















書き始めた時から無駄に長くなりそうな予感はありましたが…やっぱり長くなった(苦笑)
実はプロットの段階ではスノウも崖下転落組に入っていたのですが
そうすると更に展開がややこしいことになりそうで、収集がつかなくなるので救出班に入って貰うことに。
(お陰で出番がかなり少なく…。今回一番割を食った人です。ごめんねスノウ/汗)
ちなみにタイトルはタンポポの別名です。





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