2.










 エドァルド・フォンヴォック。
 その名を知らぬものは王宮には―――いや、王都カサブランカにはいないと言っていい。
 有力貴族にして王宮議会議長を務めるフォンヴォック公の一人息子で、優れた魔力の資質を有し、宮廷魔術師への道を一直線に歩いてきたエリート中のエリートだ。癒しの魔術についての造詣を深める為、医学を学ぶうちにこちらの分野に本格的にのめり込み、医師としての資格をも取ってしまったという変り種でもあった。
 彼とトーリスの出会いは今から四年前、王立アカデミーの在学中にまで遡る。二人は同期(但し、年齢はエドァルドのほうが二つほど下である)だが、平民の出身で一般クラスのトーリスと、魔術師候補生のみで構成された特別クラスに在籍するエドァルドでは、本来ならば何年同じ敷地内にいようと顔を合わせる機会などなかったはずだった。
 それは、ある晴れた日のこと。
 午後の講義を終えたエドァルドは、息抜きに校舎の裏手にある林の中を歩いていた。潅木が多い為それほど薄暗くもならず、手入れの行き届いた林道もあるこの林は、エドァルドの気に入りの散策場所だった。
 のんびりと歩を進めていたエドァルドは、ふと、林道から少し外れた繁みの前に、こちらに背を向けて座り込んでいる人影がいるのに気付いて足を止めた。
 人影は、栗色の柔らかそうな髪を持った、細身の少年だった。座るというより、殆ど這い蹲るような体勢で、繁みの中を覗き込んでいる。
 エドァルドが近付くと、足音に気付いたのか少年が振り返った。特別クラスの生徒の証である黒いローブを纏ったエドァルドの姿を見ても、少年は全く動じる様子もなく(一般クラスの生徒の中には、このローブを見るだけで怯えて逃げ出すものもいる)、人差し指を唇に当てて、しいっ、と囁いた。
「この中に、何かいるんですか?」
 声を潜めて訊ねたエドァルドに、少年は頷く。
「子鹿がいる……怪我をしているみたいなんだ」
 エドァルドは少年の隣に腰を落とし、繁みの中を窺った。息を詰めるようにして見詰めると、茶色の毛皮に白い斑点を散らした、幼い生き物の姿を見て取ることが出来た。
「おいで……」
 少年は優しい声で言い、子鹿に向かってそっと手を差し出した。
「怖がらなくて大丈夫。だから……おいで」
 辛抱強く呼び続けていると、蹲っていた子鹿はやがて恐る恐る立ち上がり、よろけながら繁みの外へと這い出して来た。後ろ足の付け根から血が流れている。近付いてきた子鹿を怯えさせないように優しく身体を撫でてやってから、少年は小さな身体を腕の中に抱き留めた。
「良かった……ありがとう、出て来てくれて。すぐに手当てしなくちゃね」
 草の上に腰を降ろし、少年は懐からハンカチを取り出すと、その端を糸切り歯で噛む。引き裂いて包帯を作ろうとしているのだと気付いて、エドァルドは彼を止めた。
「僕に任せて下さい。これくらいなら治せます」
 驚く少年に構わず、エドァルドは子鹿の傷の上に手を翳す。青い光が子鹿の身体をふわりと包み―――そして、傷は痕を残しながらも完全に塞がった。
 少年の深緑の瞳が真ん丸に見開かれる。
「今のって……魔術?凄いな、初めて見たよ、俺」
 感嘆の声を上げる彼の表情に、畏怖の色はなかった。そのことにエドァルドは密かに驚く。魔術の力は、普通の人間にない異質なものだ。それを間近で目にしたものは、自らの理解を超えた存在への恐れからか、その態度をがらりと変化させてくることが殆どだった。浅ましいほどに媚び諂うか、触らぬ神に崇りなしと遠ざけるか――――だが、この少年はそのどちらでもなかった。
「ありがとう。君がいてくれて、助かったよ」
 屈託なく、少年はそう言って笑い―――そして、あとはエドァルドの存在を必要以上に気にした様子もなく、腕の中の子鹿をあやしている。
「何故―――あそこに子鹿が隠れているとわかったんですか?」
 エドァルドが疑問を口にすると、少年は先程子鹿が隠れていた繁みを振り返った。
「林道を歩いていたら、突然あの中から雌鹿が飛び出して来てね。向こうへ駆けて行ったんだ。鹿は臆病な生き物だから、余程のことがない限り、自分から人の前に姿を現すことはない。それなのに、まるで見付けて下さいと言わんばかりに出てきたってことは―――多分、子供が近くにいるんじゃないかと思ったんだよ。子供の存在を俺に気付かれたくないから、自分が囮になったんだ…ってね」
「怪我をしていると思ったのは?」
「子鹿が元気だったら、多分、親鹿は傍を離れなかったんじゃないかな。万一俺に見付かったとしても、連れて逃げられるだろうし。けど、囮になってまで俺の目を子供から逸らそうとしたってことは、もしかしたら子供は今、動けない状態なのかもしれないって……そう思ったんだ」
 少年の説明に、エドァルドは素直に感心した。もし自分なら、同じ光景に立ち会ったとしても、逃げてゆく親鹿をちらりと目で追うくらいで、近くに子鹿がいる可能性など考えなかったに違いない。
「……凄いですね、君は」
 思わず呟くと、少年はきょとんとした。
「え?何で?俺、全然凄くないよ。君のほうがずっと凄いじゃないか。人を救うことの出来る力を持ってるって、素晴らしいことだと思うよ」
 笑顔で言われた言葉に、エドァルドははっとした。
 これまで、エドァルドの周囲にいた魔術師以外の人間は、この力を畏怖の対象としてしか扱ってこなかった。それに加えて王宮には、出世の為に魔術師に取り入ろうと考えるものが多い。エドァルドの場合は父親が権力者ということもあり、幼い頃から近付いて来る人間が途切れたことはなかった。聡いエドァルドは、彼らが見ているのはエドァルド自身ではなく、未来の宮廷魔術師の威光だということに、ちゃんと気付いていた。
 腫れ物に触るような周囲の対応は、いつしかエドァルドに、自分の力に対する疎ましさを抱かせた。この力がある限り、誰も本当の僕を見てはくれない。そして、誰も本当の姿を僕に見せてもくれない。これは、僕と外界とを永遠に遮断する鎧のようなものだ―――。
 だが、この少年は恐れることも、自分を飾ることもせず、ただ笑って言ったのだ。人を救うことの出来る力だ…と。
 これまで長い間胸に支えていたものが、すっと音を立てて消えてゆくような気がした。
「―――ありがとう」
 礼を言う声が、思いのほか重々しい響きになった。少年は、訳がわからないといったように目をパチパチと瞬かせる。
「え?そんな、改まってお礼を言われるようなことは何も…」
「――――!?」
 何気なく視線を上げて、エドァルドは凍りついた。少年の背後から、大きな雌の鹿がこちらをじっと伺っている。頭を低く下げ、前足で地面を蹴るような仕草は、明らかに威嚇のポーズだ。僕たちに子供を取られたと思って怒っている……ヤバい、これはヤバい。
「う、後ろ!!」
 引き攣った叫び声を上げると同時に、鹿が突進してきた。何が起こったかを理解するより早く、少年は反射的に脇へと飛び退る。驚いた子鹿は藻掻いて少年の腕から逃げ出した。
 親鹿は少年の身体を軽々と飛び越えて反対側に着地すると、再びこちらに向き直り、尚も攻撃の姿勢を見せる。二人は慌てて立ち上がった。
「逃げるよ!!……えっと」
 名を呼ぼうとして口籠った少年に、エドァルドは笑顔で叫ぶ。
「エドァルドです!」
「俺はトーリス!!」
 エドァルドの手を掴んで走り出しながら、少年も笑って叫び返した。






 それから、二人は互いに良き友人となった。
 エドァルドの家名を知った後も、トーリスはやはり態度を変えることはなかった。どんな時も、自分と同じ高さの目線で話をしてくれるトーリスの存在は、エドァルドにとっては救いだった。
 トーリスもまた、エドァルドの勤勉で責任感の強い性格を好ましく思い、次第に深い信頼を寄せるようになった。クラスの壁を越えて友情は続き、授業の合間の廊下や校庭では、談笑している二人の姿がよく見られていた。
 そんな楽しい生活も、二年前に終わりを告げる。アカデミー卒業と同時にトーリスが、王都カサブランカを離れることになったのだ。
 トーリスの父親は、アカデミーの研究室に籍を置く歴史学者だった。トーリスの在学中はずっと王都に腰を落ち着けていたのだが、今後は更なる研究の為に、各地の遺跡や文献を調べる旅に出るのだという。父親の護衛として共に行くことを、トーリスは随分前から決めていたらしい。人里より離れた遺跡の調査は、魔物に襲撃される危険と常に隣り合わせとなる。一人で行かせる訳にはいかないからね―――そう言って笑ったトーリスが、その穏やかで人の良さそうな外見に似合わず、剣術では常に主席の座にいたことを、エドァルドは卒業間近になって初めて知った。
 別れの日。見送りに行ったエドァルドは、トーリスに小さな水晶球を手渡した。これは、対となるエドァルドの水晶球との間に回線を開くことの出来る、通信装置のようなものだ。トーリスが王都を離れてからも、二人は時折この水晶球を通じて、互いに連絡を取り合っていた。
 トーリスからの連絡がパッタリ途絶えたのは―――半年前。
 最初は、ただ忙しいのだろうと思っていたエドァルドも、音信不通の期間が三週間、一ヶ月と重なるのに連れ、流石に心配になってきた。向こうから連絡が来ないだけでなく、こちらからの呼び掛けにも応答がないのである。
 募る不安を、しかしどうすることも出来ずに、月日だけが虚しく流れて行った。トーリスの安否もわからぬまま、三ヶ月が経とうとしていたある日。
 煌々と紅い月の浮かぶ夜に、フォンヴォック邸の扉を叩くものがあった。
 ―――ごめん…ごめんエドァルド…!迷惑掛けてごめん…!でも……死なせたくないんだ…。お願い……彼を……彼を助けて!!
 血相を変えた家人に呼び出され、ロビーへ駆けつけたエドァルドが見たものは、酷く憔悴した様子のトーリスと、そして彼の腕の中で息も絶え絶えになっている、傷だらけの少年の姿だった。






「トー、ただいまだしー、って……あ、連絡来とったん!?」
 ひょこり、とドアから顔を覗かせたフェリクスが、水晶球に浮かび上がるエドァルドの姿を認めて、明るい声を上げる。
「こんばんはフェリクス。連絡が遅くなってすみません」
「ええんよ。ここでゆっくり出来たお陰で、美味い料理いっぱい食べられたしー。ローデリヒのケーキ、マジ美味かったし!!……でも、ケーキ作るとき、何か変な爆発音がしとったのって何でなん?トー知っとる?」
「…さ、さあ…?何だろうね…?」
「ま、いっか。美味ければ何でも♪それよりトー、ローデリヒに頼んでケーキの作り方教えて貰うといいし!そーすれば、旅の間中、ずっと美味いケーキ食べれるし!我ながら名案、やっぱ俺って天才じゃね?」
「ちょっ…!!何その理屈。結局、教わるのも作るのも俺にやらせるつもり?」
「当然だしー!!」
 二人の賑やかな遣り取りを目にして、エドァルドの怜悧な瞳がふっと柔らかく微笑んだ。
 ―――初めてフェリクスに会った時、彼の目は酷く荒んでいた。怯えた小動物のように警戒心と敵愾心とを剥き出しにし、傷の治療に当たったエドァルドもかなり手を焼かされた。そんなフェリクスの傍に辛抱強く寄り添い、心を開かせ、周囲との橋渡しをしたのはトーリスだった。
 トーリスが以前助けた、傷を負った子鹿のことを、そして、彼が自分の心を救ってくれたことを、エドァルドは思い出した。だが同時に、今回は何かが違う―――と感じてもいた。トーリスの表情を見ていてもわかる、彼は時折、陰のある笑い方をするようになった。アカデミーにいた頃には、けして見せることのなかった表情だ。―――傍らにいるはずの父親の姿が見えないことも、何か関係しているのだろうか。
 フェリクスの傷は、事故などではない。恐らくは魔術によってつけられたものだ。彼が魔術師、それもかなりの使い手だということを、エドァルドは彼から感じる魔力の高さで見抜いていた。そんな彼に、これほどの傷を負わせることの出来る術者が、そうそう存在するとも思えない。
 運命という言葉は嫌いだったが、この時感じたものをこれ以外の言葉で表現することは、エドァルドには出来なかった。トーリスはフェリクスと共に、また何処か遠くへ発つのだろう。それは、突然現れた少年に友人を取られた悔しさ以上に、エドァルドの胸にすとんと落ちた確信だった。
 二人は何か、とてつもなく大きなことに挑もうとしている。
 ならば―――僕は僕に出来ることを。それがエドァルドの出した答えだった。






 朝まだき。傷の癒えたフェリクスを連れ、人知れず王都を抜け出そうとしていたトーリスの足を止めたのは、街門の前に佇んでいた青年だった。
「エドァルド………」
「何処へ行くんですか?トーリス、フェリクス」
 詰問めいた口調に、トーリスは曖昧な笑みでしか応えられなかった。
「ごめん、エドァルド。このまま……見逃してくれないかな…?」
「……………」
「散々お世話になっておいて、黙って出て行こうとしたことは謝るよ。でも……これ以上、君に迷惑を掛ける訳にはいかないんだ。だから」
「……嫌だと言ったら?」
 トーリスは瞳を伏せ、震える声で言った。
「ごめん……エドァルド。何も訊かずにここを通して欲しい。俺たちがこれからやろうとしていることに、君を巻き込みたくないんだ」
「僕のほうは、巻き込まれる気満々なんですけどね」
 澄ました口調で言い放ち、エドァルドはゆっくりとトーリスたちのほうへ近付いてきた。
「君たちが探しているものが何であれ、闇雲に動いて見付かるようなものではないはずです。―――残念ながら、宮廷魔術師の僕は、陛下と議会の許可なしに長期間王都を離れることは許されません。ですが、王都にいても、君たちの役に立つことは出来ます。こちらの力は、僕自身、長い間忌み嫌っていたものではありますが……君たちの助けとなるのでしたら喜んで使います。僕の名と立場を利用すれば、集められる情報は多いはずです―――幾らでも提供しますよ。それに……もしまた君たちが無茶をして傷を負ったら、それを癒す為の場所が必要となるでしょうからね」
「エドァルド……でも」
「トーリス、以前君が僕に言った言葉を覚えていますか?僕の力は、人を救うことの出来る力だと―――僕にそう教えてくれたのは、他でもない君なんですよ。だから僕は、僕の力を、誰よりもまず君を助ける為に使おうと決めたんです」
 トーリスははっと息を呑み、困惑と嬉しさの入り混じった瞳でエドァルドを見詰め―――それからその視線を、フェリクスへと移動させた。
「―――俺が決めることじゃないし」
 短くそれだけを答え、フェリクスはふいと横を向いてしまう。だが、その声に不快そうな響きはなかった。
 長い逡巡の末―――トーリスはきっぱりと顔を上げ、エドァルドの瞳を正面から見据えた。
「お願いするよ、エドァルド。―――俺たちに、君の力を貸して欲しい」
「―――喜んで」
 トーリスが差し出した手を、エドァルドはしっかりと握り返した。
 あの時、胸に湧き上がった思いを、僕は今もはっきりと覚えている―――。
 「―――エドァルド、色々ありがとう。忙しいのにごめん。君がいてくれて助かったよ」
 穏やかな声が、回想に泥んでいた意識を現実に引き戻した。
 「いえ……これぐらい、大したことじゃありませんから」
 「人手不足だって言ってたよね、さっき。―――あまり眠ってないんでしょ?」
 図星を指摘されて、エドァルドは少し驚いた。顔に出したつもりはなかったのに。
「エドァルドは、眠い時や疲れている時は、瞬きの回数が極端に少なくなるからね」
「………成る程。では、次に君に会う時には、意識して瞬きすることを心掛けます」
「そっか。じゃ、他に見付けてある癖を教えるのはやめておくよ」
「――――降参です」
 クスクスと笑うトーリスに苦笑を漏らしながら、エドァルドは胸がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。
 地位も立場も、どうだっていい。君と共に歩めること、ただそれだけを僕は誇ろう。
 そう、これは運命なんかじゃなく、僕が僕の意志で選んだ道なのだから。


















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私のエド贔屓っぷりが非常によく出た話になりました(笑)






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