柔らかな顎















 叩かれた頬は赤く、それ以上に夜の寒さで肌の表面が冷えてじんと痛んだ。
 ―――入り口に座らないで頂だい。見っとも無い。
 云われるままに移動した庭の奥は、寂しい森のようだった。明日の朝になったら「あぁ嫌だ」と云わんばかりの目でドアは開けられるのだろう。叱られて外に放り出されるのはこれで二回目だ。取り敢えず、次はどうしようと考える。
 ―――またそんな目で見て。役立たずなんだから、お館様のご恩に報いたらどうなの。
 どうしようと、考えた。
 体がすっぽりと埋まる太い木の根の下で蹲って、膝を抱える。そうしないと寒くてしょうがなかった。彼はまだ知らないことだけれど、この辺りは年中温かな気候だが時期によればやはり夜は冷える。それでも、その時節以上の寒さがあった。小さな体は小さく縮こまるしかない。
「―――」
 名前を呼ばれたと思ってぱっと顔を跳ね上げる。今度は夜でも家の中に入れてくれるんだろうか。立ち上がって一生懸命に夜に目を凝らす。
 そして右側から声を掛けられて酷く驚いた。
「居た。探したよ、…大丈夫?」
「スノウ、どうして…」
 跳ねた心臓を押さえて体ごと右側に向き直って、スノウの姿を認める。
「どうしたの?スノウもこんな所に居たら怒られるよ」
「……」
 二人ともが、困ったような顔をした。






 雨が、降っていた。
 絶え間なく暗い空が続いて、そこから静かに落ちる水滴達は飽きる様子がない。いっそばしゃばしゃと楽しげに降ればいいものを、未練のままにしとしとと海や人に吸い込まれていく。それを何を思うでもなく、片手で空を払いスヌイは歩き出した。もう船を下りないといけない。
「何だ。煩わしいのか?」
 ふ、と隣で笑まれた気配にスヌイは足を止める。被った雨避けの皮の外套がぱたぱたと雨を弾いて音を立てた。そのまま彼女の方に向き直ったので、水滴を放ったかもしれない。そして今度は掌で雨を受け止めた。
「泣いているみたいで。大丈夫だよって云ってあげないと」
「それは誰に?」
 やはり先程と同じようにふ、と笑ってキカは外套ごと腕を組む。それにはスヌイは笑って返す。
「教えない」
 秘密です、と愛らしく唇に指を当ててから、スヌイはそのまま歩き出した。その後姿は少し楽しそうで、彼も気晴らしのつもりなのかとキカはただ納得する。
 ―――ネイ島からその依頼があったのは、緊張が続いていた軍事会議の合間の休暇に寄港した時だった。
「ゆうれいせん?」
 思わず全員が顔を見合わせたのは村長の家を訪ねたメンバーが所謂首脳陣で、小柄な弓使いがどういった経緯で仲間になったのか知っているメンバーだ。ここにテッドが居れば、全員がその顔を見て彼にとびきり眉を寄せられる場面だろう。
「えぇ。そうですの。流れ着いたのはここ最近のことで、海流の関係か同じ所をぐるぐる回っておる。それが私らの漁場と重なっていまして」
 申し訳なさそうにとつとつと話す老人に笑いかけて、スヌイは続きを促す。丁度その時村長夫人が茶を持ってきた所で、ほ、と息を吐いて話は続けられた。
 その船は恐らくこの戦の関係で無人のものとなったのだろう。逃げ延びた軍事船がその先で異形の種に襲われたのかもしれない。とにかく、その船は哀れ、軋みながら海を彷徨う幽霊船と化した訳だ。
 しかしそれだけなら問題なかったのだろうが、幽霊船と呼ばれるだけのことはあり、何時しかそこにはモンスターが住み着くようになった。仲良く皆さんご近所付き合いも上手くいったようで、五種類程のモンスターが共同戦線を張って人間を襲ってもくる。君子危うきに近寄らずで、ネイでは見掛けては回避するように住民は行動しているが。
「何せこの島の人間では到底太刀打ち出来る訳がない、というのは皆さんの想像の内かと思われます。しかしあぁいった物騒なものが漁場をうろつかれては、やはり漁も満足に出来ませんで。ナ・ナルの村長に頭を下げても良かったのじゃが、それも皆さんに間に入ってもらった方が確かかと思いまして。そこで丁度寄港して戴けたのでお願いしておる次第です」
「そうですね。その方が自衛団を貸し出して貰えたでしょう…」
 頷いたスヌイに村長がほっとしたのが誰にも判った。それにスヌイは一拍置いてからにっこり笑いかける。
「けれど折角お話を聞けたのですから、差し出がましいかもしれませんが我々がお助けしてもよろしいでしょうか?」
「は。…まぁそれは勿論有り難い申し出であります。ですが、よろしいので?」
「えぇ。―――構わないね?」
 振り返ってぐるりとにこやかに自分達を見渡されて大人達は少したじろいだものの頷く。村長はそれはもう長い息を吐いて、安堵に顔を緩めた。
 そして、今に至る。エレノアに少々苦い顔をされたものの、小隊を組んで船を捜索し、利用できるものは回収。それから紋章砲で船を海に沈める算段となった。
 手を上げたのはグリシェンデの所有者のキカを始め、指名でテッド。そして、スノウ。一つのダンジョンを捜索する人数だ。
「海賊も騎士もやることは少し似てるよね。俺も訓練期間中に嵐での難破船の探索はやったことがあるけれど、キカも経験があるでしょう?」
「アレもお宝には違いないということだ。それよりいい息抜きだと思うことにする。ここの所船の中がぴりぴりして適わん」
 そうだね、と相槌を打つ軍主をじっと見てから、エレノアは手を振って二人を会議室から送り出した。
 息抜き。確かに残りの船員の連中にもいい「間」なるだろう。何より人助けになるのが気持ちいい。
 オベル船はネイに寄港したまま、グリシェンデでその海域まで向かった。雨が降っていたが視界はそれなりに良好で船を燃やすにも支障ない。生温い雨は霧さえ呼ばなかった。
 そしてグリシェンデにキカ以外の海賊達を残して小船で幽霊船へと向かった。
 ―――船の中には戦闘へ向かう意識とは別に、ある種の緊張感が流れていた。それはスヌイの指名したスノウの、これが初陣だからか。それともその二人に会話が殆どないからか。
 テッドは見据えるようにスヌイを見た。時折何を考えているのか判らない、子供のように生真面目で愛すべき思考は今は読み取れない。ただ、雨に指先が冷えて感覚がなくなりそうで、滑り気持ち悪い。
「何考えてるんだ?」
 口に出して聞いたのは、メンバーの招集がかかった後だ。呼ばれたスノウは最後までスヌイをじっと見ていて、テッドは夜の逢瀬の際にスヌイに問うた。残り物の魚のフライのサンドイッチを頬張って、充分に咀嚼して飲み込んで、それから唇に付いたソースを指で拭う程の充分な時間を取ってから、スヌイは笑う。
「秘密…かな。でも上手く成功したらご褒美が欲しいな。俺も上手くいくかどうか判らないんだ」
「…何だ、その云い方は」
 多分楽しいこと、と肩を竦めてスヌイが云うものだから、テッドは腹立ち紛れにサンドイッチを余分に一つ口に放り込んだ。甘えてくる癖に肝心なことは口にしない。
 あの時だってそうだ。アレが船に流れ着いた時だって泣きついてもこなかった。ただ、―――。
「こちらから上がっても問題ないだろう」
 女だてらにキカが先に乗船し、甲板から声を下ろすのに、皆が続いた。
 キカが魔物に応じている間、小船を幽霊船と共に走るようにスノウが縄でしっかりと結わえて、その間の残りの二人がキカが下ろすロープを手繰る。
 降り立った船は予想通り元はクールーク船だったことを既に確認している。形も何も彼の国のそれだ。胸が痛むような、痛まないような微妙な空気を噛み締めて一行は進んだ。だがやはり魔物を倒す煩わしさがすぐに勝ち、今度は唇を喰む。進めば進む程、成る程確かに幽霊船。そこかしこにある喰まれた屍がそれを物語る。
 甲板の敵を粗方片付けた所で階下に降りることになった。こうなれば洞窟やオベル遺跡のようなダンジョンと変わらない。
「予想より大変かもしれないね。さっさと見切りを付けてグリシェンデにやって貰った方がいいかな?」
 剣から雨と異形の種の体液を払ってスヌイが云うと、さすがにキカも皆も神妙に頷いた。確かにこれでは割に合わない、と彼女も思ったのだろう。
(狙いは紋章砲だけど、文書の一つでも無事なら…)
 そう、ぼんやりと考えながら階下へと下る階段に足を踏み入れた時だった。
「―――っ!」
 嫌な音がした。恐らく魔物も利用するだろう階段だ、スヌイの体重如きでどうにかなるものではない筈だが運が悪かったとしか云えない。恐らくはその人ならざるものの重みで痛んでいたのだろう。悲鳴を上げて階段はスヌイを飲み込んだ。がくん、といきなり消えうせた足場に、思考が付いていかず声もなく落ちていく彼に、咄嗟に続いたのはスノウだ。
「スヌイ!!」
 スノウの外套が翻って、スヌイの腕を掴んだだろう姿を認めたのが最後だ。スノウの後ろに居たテッドとキカは手を伸ばす暇もなかった。
「ばっ……」
 馬鹿野朗、とでも続けられる筈だったテッドの声はキカに遮られる。ぐい、とテッドの腕を引っ張って押し留めたキカは、テッドを引き戻す勢いのまま下に叫んだ。
「我々は別ルートで降りる!船長室で落ち合おう!!」
 恐らく多少浸水していたのだ、この船は。通常、浸水してもすぐに船は沈没しないように出来ている。だが、帰る場所のないこの船は腹の中に水を溜めたままだったのだろう。そう思えば覗く階下からは独特の湿った匂いがする。船自体が自身の弱さで沈没するのも時間の問題だったのかもしれない。
 そして返らない返事に、二人にはスヌイ達が何処まで落ちていったのか判らなかった。派手な音だけが、響く。
「…っ悪い、姐さん」
 キカに掴まれたままの腕を払って、テッドは雨に濡れた髪を掻き上げる。自分達も共に落ちては元も子もない。スノウが水の紋章を宿していたかどうかもテッドは覚えていなかった。自分達が我らが船長を助けなければ。
 それはキカも同じ考えだろう。いや、と返して彼女は改めて階下を見下ろす。船の中に潜る入り口は一つだけではない筈だ。それを探して早く船長室を見つけるべきだ。
「とんだ幽霊船探索になったな。お前の時の方が楽だった」
 軽く笑って踵を返した彼女に、テッドは苦笑いで口を噤むしかなかった。



 痛みの方が先に来た。
 痛い痛いと悲鳴を上げている。何処が痛いのか考えるより先に身体が動く。剣が抜けたのだから、腕をやられた訳じゃないだろう。なら、足か。―――そう考えながら、侵入者に襲い掛かってきた魔物を切り捨て、スヌイは彼にしては珍しく舌打ちをしたくなった。全く、物見遊山な気持ちを引き締めなければ。
「スノウ!大丈夫!?」
「勿論だ!君は…?」
 は、と息を吐いてスノウは顔についた汚れを拭った。日に焼けても余り黒くならない彼の肌は汚れが映えすぎる。ねちゃりと粘着質を伴った恐らくは何者かの体液に大層眉を寄せてから、スノウはスヌイに駆け寄った。
「…大丈夫じゃなさそうだね」
 膝を付いたままのスヌイに苦笑して差し出したその手に、スヌイも苦笑いで縋る。踏ん張れば何とか立てるし歩けるだろう。打ち身と捻挫ぐらいか、と判断を付けて静かになった周辺を改めて二人は見回した。
 階段の次に勢いのままに階層を一つ程ぶち抜いてしまったな、と自分達の身体に来た衝撃から二人は考える。尤も、その御蔭で多少勢いが削がれて裂傷と打ち身やらで済んでいる訳だから、今の二人にはこの幽霊船のボロさ加減が有り難い。
「スヌイ、あの人。……キカ、さんが何か云っていたけれど判ったかな?」
「何となく…かな。…でも大丈夫だと思うよ。キカとは少し打ち合わせをしてあるしね」
 取り敢えずせめて灯りがないと始まらない、と自分達が振って来た辺りに散らばった木片に手を伸ばし、その一つにスノウが紋章の力を集中して火を付ける。加減が難しいんだ、と二人して笑った。
 テッドは覚えていないと思ったが、スノウが宿していた紋章は火の紋章だ。残念ながら水でも風でもない。そしてスヌイは本人の好みもあって、普段から回復系の紋章は付けようともしていない。烈火と罰。そして一閃だ。
 だから足を引き摺る格好になってしまったスヌイが松明を持って、身体を支えてやるスノウが隙がないよう身構えた。
「あまり大きくない船だけど、どうやら最下層に落ちたかな」
「……あぁ、そうみたいだね。…向こうに階段があるよ。行けるかい?」
 落ちた場所は貯蔵庫か何かの一室だった。そこの住人はもうあの世へ出発して戴いているので、ドアの外に出てみれば他に小さな部屋が二つに階段。湿った空気に胸の悪さを覚えながら、スヌイは部屋を調べようと云う。
「階段を上がって、それが今度こそしっかりしたものなら船長室辺りに行けばきっとキカ達と会えるよ。あの人俺がじっとしているなんて絶対思わないから、下の階の探索自体任せたつもりだと思う」
「でも…」
 スノウは困ったような顔をした。顔をして、スヌイを見てから眉を寄せて眼を細める。あぁまた、懐かしい表情だと思ってから、スヌイは最早邪魔な外套を脱ぎ捨てた。
「どうしてかな。スノウとたった二人で話す時は俺は情けない格好をいつもしているね」
 にこりと笑いかけたスヌイにスノウは苦笑いで頭を振る。―――二人共が小さな頃からそうだった。
 スヌイはフィンガーフート家に引き取られてすぐに高熱を出して、右目の視力を落とした。その時点で屋敷を追い出されてもおかしくなかったが、それをなけなしの温情で家に置いたのがフィンガーフート伯だ。
 但し伯は息子から小間使いを遠ざけた。元は息子の玩具にでもなるかと拾ったものだったが、役立たずになってしまったのだから無理のない話。それでも拾ったものを有効活用しようとした辺り彼にも知恵はある。目の調子はどうであれ、スヌイは使用人らしくよく働いた。そしてスノウにとっては玩具にも傍仕えにもならなかったが一つ屋根の下の同世代には為り得た。
 それから、哀れ不自由な身の上の我が家の小間使いに、フィンガーフート伯はもう一度温情を見せた。本当は惜しがったらしいが、息子の進言もあった。
「…君は危なっかしい。だから僕はそれを見ている役目だと思ったんだよ。…昔から」
 側に、と騎士団への共の登用を望んだのはスノウだった。フィンガーフート伯は考えた。育った子供は自分の不貞を外部に漏らすこともあるだろう。だから恩を売ろう。そして息子の面倒も見てくれるだろう。優しい息子に哀れな身の上も恩を感じるだろう。―――自分はいい拾い物をしたと。
 そして目論みは半ば成功した。今此処にスノウが居ることがその最たるものではないか。スヌイはスノウに情けをかけた。父親は立派に息子が生きるのを助けたのだ。結果的にはそうなった。
 ―――その日はとてもよく晴れていた。
 突き抜けるような快晴のブルーに白い雲は殆どない。しかし遮るもののない陽の光りは白さを強調するから、スヌイは時折右目を覆う為に右手を掲げた。弱った目には眩し過ぎるのだ。
 航海は順調で、何処までも見渡せる海に今は敵船一つ見当たらない。いつもは盛んに邪魔をしてくる異形の種でさえ、今日はとんと姿を見せなかった。船はナ・ナルからミドルポートを目指している。補給に向かう所だった。
「異常はないね。これくらい気持ちのいい日なら、何か出てこられても困るけれど」
 微笑んだまま云うスヌイに隣にいたポーラが頷く。船はけして早くはないスピードだが、順調に航路を進んでいた。水平線には塵一つなく綺麗なものだ。―――航海は、順調だった。
 しかし、その浮遊物を見付けたのはモルド島近くを差し掛かった頃だろうか。叫んだのは勿論ニコだ。彼でなくては困る。そして皆が皆一斉にそれを見た。
「……人間、が?」
 スヌイはまず、立ち尽くすしかなかった。どうして、や困る、やそんなことを考えたどうかは覚えていない。ただ、何時だって運命は差し出されるものでけして選べないものだと痛感しただけだ。しかしそれを甘受するか拒絶するかが自分達の意思で、それを繋いでいくことで人は人生を紡ぐ。少なくとも、だから今こうして自分はこの船で船長と呼ばれている。受け入れて、拒絶しながらも立ち続けている。
 それでも、だから運命は差し出され続ける。当たり前に。そう、誰にも平等に。
 眼前に差し出されたのは、浮遊物として漂流していたかつての主人の息子。
「―――スノウ」
 白い光りに焼かれた喉はひりついて、スヌイの声が擦れた。右側の視界が霞んで眩暈の気配さえするようだった。やはり咄嗟に押さえた右目に、罪人のようにスヌイに差し出されたスノウが哀れむような目で彼を見上げる。
 小さい頃から、何度もこの視線を感じていた。自分達に友情などない。フィンガーフート伯が望み、仕組んだそのまま、自分達には同じ屋に住む、主人の息子と小間使いという関係性しかない。そしてそれが、捻れて互いに剣を向けている。
 スヌイはまだ時折考える。項垂れたスノウの頭を落とすことが、如何程に―――簡単なことだったか。
 それでもスヌイは一つだけスノウに聞いた。一つだけ。
 とても、大事なことを。
 そしてスヌイは彼を迎え入れた。今日がそのある意味で初陣。彼がずっと鍛錬を重ねていたのはスヌイが知っている。誰よりも。
「だから大丈夫だよって云ってあげないと」
 例えば、あの時聞いた答えを実感する為に。
 自分の為に。
 小さな声で呟いてから、剣を鞘から抜き出して少しよろけたスヌイに、再び肩を貸しながらスノウが訝しげに顔を覗き込んだ。
「俺は、大丈夫だよ。…一緒に立てる」
 真摯にそう云ってスノウを見つめてから、照れたように肩を竦め自分から離れたスヌイに、スノウも外套を脱ぎ捨てた。それでも彼はやはり目を細めたままで。
「全く、羨ましいよ。君も、あの船の人達も」
 優しい眼差しは笑みに変わり、スノウは扉を開けた。異形種の咆哮が響いたのは一寸遅れてだった。



「―――私が思うに、アレは何かを確かめているな。今の状況は喜ばしいものではないのか?」
 唐突に、キカが云った一言にテッドは緊張する視線に更に力を込めた。それも盛大に眉を寄せて。
 船長室はすぐに判った。大体、どこの船も権力の高い者の巣は庶民よりお高く出来ている。幸いなのは、そこには自刃を喉に突き刺した様子の、半ば白骨化した死体だけがあったことだろう。匂いはたまったものじゃないが。
 そしてドアは開け放したまま、テッドがその前に立ち廊下を見ていた。矢で牽制と攻撃を続けていて、立ち向かってくる小物ももういない。どうやら幽霊船の住人はそろそろあの世へ引き払い尽くしてしまったようだ。後は階下の二人を待つのみ、といった所だろう。
 自分には反応を返さないテッドに構わず、ものを奪うことに長けているキカは探索の手を緩めず言葉を続けた。
「あのラズリルの領主の息子の処遇を考えていない訳ではなかっただろう。アレの決断に意を唱えたものは随分居たからな」
「殺せば早かったんだ。…アイツが個人感情を優先するのが珍しいから皆面食らったんだろう」
「何、利用価値がない訳ではないさ」
 ふ、と口元でいつものように笑って、キカはキャビンの上から下、それこそ棚の天井まで探ってから今度は机に移った。さて、と腰に手を添える。
「あの白い隊長もそうだが、まず情報の搾取。それから作戦指揮の助言も戴いているんだが」
「はぁ!?」
 キカの言葉に思わず振り返ったテッドに、容赦なくドアの外を示すキカは、やはり手を休めない。
「人間と人間の遣り取りなら、相手と実際に会っているかどうかは大いに違いがあるものだよ。それに情報は多い方がやりやすい。あの息子はエルイール要塞まで行っているんだぞ」
 だからと云って、とテッドは思った。それにしても情報が欲しいだけなら、虜囚のようにすればいいと思う。それを望まれることだけのことをしたとテッドは聞いている。スノウは普通に船内を歩いているだけでも石を投げられることもある。勿論、スヌイもそれを知っている。
 その、重みをテッドは考える。スヌイの背に注がれる視線の分だけアレは重みを背負っている。その上デカいのをまた一つ背負った。スノウが汚名を払拭するのを手伝うつもりなのか、と唇を噛む。
「…我々にスヌイの真意を知ることは出来ない。理解も然り、だ」
 見透かしたようなキカの言葉にテッドはどきりとした。
「だが共感は出来るな。だから私はお前を引きとめた」
「二人きりにして欲しいとアレが云ったのか?」
「判るさ」
 ふ、と笑った女海賊に嫉妬の炎を燃やすのは間違っているとも、あぁとてもかなり間違っているぞ、とテッドは思った。しかも相手は判って云っているのが見え見えじゃないか。―――自分の情の在り処を彼女に見透かされている、という事実を無視してテッドはもう一度唇を噛んだ。
「だがまぁ、だからお前も迎えに行かないのだろう?判ってやっているじゃないか」
「引き止めた人間がよく云うな」
 今度は珍しくころころと、キカは声を立てて笑う。
「引止められるから云う。吼えてくれるな」
「…………姐さん容赦ないな…」
 脱力させないでくれ、と思いつつ完全に遊ばれている自覚があるからしょうがない。ましてこの女のこういう所が嫌いではないのだから、自分もつくづく女運が悪い気がするとテッドは思った。
 そんなテッドに今度は喉を鳴らして笑ったキカが、ふっと顔を上げる。テッドもびり、と頬を刺す空気に身体が強張った。紋章だ。それも―――高位。
 ドォン!と派手な音を立てて身体が揺れた。二人とも身構えることが出来たので、何とか柱や壁に掴まる。船が傾くのは遅い、だが沈没は早い。それを知っている二人は合図もなしに駆け出した。煙が噴出した、階下へ向かう階段へと。
「スヌイ!」
 床が明らかに傾くのを感じながら叫んだ名前に返答はなく、変わりに盛大に咳き込む声が二人分聞こえてほっとする。だ、だ、だ、だ、と傾斜を増していく階段を駆け上る二人を、テッドとキカは手を伸ばして助けた。
「いっ…痛……っ!」
 だん、と足を踏みしめて階段を登りきったスヌイは思わず涙目になる。痛みを忘れて駆けたはいいが、さすがに今度は膝を付いてへたり込む。「スヌイは足を痛めている。キカさん、僕達は乗ってきた小船に行こう。テッド君、スヌイを連れてきてくれ」
「あ、あぁ…」
 スヌイに手を貸していたテッドは、少々面食らいながら頷く。キカも異論はないようで、スノウが云い終わるより先に甲板へと上がっていった。その指に指輪が数個にブレスレット、それから腰に紙が数枚挟まっていたのはさすがと云うか、海賊と云うか。
「スノウ!飛び降りるから早く拾ってくれると嬉しい」
「判ってる!」
 そしてそのスノウはというと、スヌイに笑いかけさえしてその場を去った。呆然としたのはテッドだ。
「……テッド?」
 スヌイがぐい、と立ち上がる為にテッドの手を引いて漸く自分を取り戻し、慌ててスヌイを立たせてやる。
「何だ、アイツ、人が変わったみたいに」
「スノウは元からあぁだけど」
 首を傾げて答えたスヌイに、やはり悔しくなってテッドは眉を寄せた。スヌイは訳が判らないままに首を傾げたままだ。
「足、治してやるよ」
 憮然としたままそう云ったテッドに、スヌイは慌ててそれを断った。訝しんだのは今度はテッドで、溜息でそれを了承した。
「で?楽しいことは成功したのか?」
「あ。……うん」
 頷いたスヌイに何だか悲しくなったのは何故だろう。今日は厄日な気がする。特に女運がやはり、―――悪い。
 スヌイに肩を貸して、今しがた二人が駆けて行った崩れ落ちたのとは別の階段に向かう。急がなければいけないので、スヌイは自然に片足で跳ねるようにして歩いた。そして階段に辿り着いてみれば、スヌイはおずおずと手を差し出す。
 引っ張ってくれ、というのは判るがその頬が少し赤いのは何故だろう。
「何だよ」
「え、えっと。……だって成功したらご褒美が欲しいって云ったでしょう」
「……」
「手、繋いでくれたら嬉しい。ご褒美」
 畜生、可愛い、と思った男は幸せなのか何なのか。
 テッドは少し上段から、ぐいぐいと強くスヌイを引っ張る。それが何だか可笑しくてスヌイは笑った。
 あぁ、上の方は光りだ。雨があがったんだろう。晴れた空はあの日のように快晴のブルーだろうか。
 だったら嬉しい。凄く嬉しい。だって。
「ねぇ!俺とスノウ、やっと友達になれたんだよ」
 あの日のようにスヌイは嬉しそうに笑った。





 叩かれた頬は赤く、それ以上に夜の寒さで肌の表面が冷えてじんと痛んだ。
 ―――入り口に座らないで頂だい。見っとも無い。
 云われるままに移動した庭の奥は、寂しい森のようだった。明日の朝になったら「あぁ嫌だ」と云わんばかりの目でドアは開けられるのだろう。叱られて外に放り出されるのはこれで二回目だ。取り敢えず、次はどうしようと考える。
 ―――またそんな目で見て。役立たずなんだから、お館様のご恩に報いたらどうなの。
 どうしようと、考えた。
 体がすっぽりと埋まる太い木の根の下で蹲って、膝を抱える。そうしないと寒くてしょうがなかった。スヌイはまだ知らないことだけれど、この辺りは年中温かな気候だが時期によればやはり夜は冷える。それでも、その時節以上の寒さがあった。小さな体は小さく縮こまるしかない。
「スヌイ」
 そして小さな声で名前を呼ばれて、スヌイはぱっと顔を跳ね上げた。今度は夜でも家の中に入れてくれるんだろうか。立ち上がって一生懸命に夜に目を凝らす。
 そして右側から声を掛けられて酷く驚いた。
「居た。探したよ、…大丈夫?」
「スノウ、どうして…」
 スヌイは跳ねた心臓を押さえて体ごと右側に向き直って、スノウの姿を認める。
「どうしたの?スノウもこんな所に居たら怒られるよ」
「……」
 二人ともが、困ったような顔をして顔を見合わせた。早くこの場を去らなければいけないのはスノウにも判る。もし、二人で居るのが見咎められたりすれば、怒られるのはスヌイの方なのだ。早く、早く、この場を去らないと。
「これ、あげるよ。僕もうこれいらないんだ」
 スノウはくまのアップリケのついた、子供用のブランケットを抱えていた。それを、ん、とスヌイに差し出して寄越す。
「え。でも…」
「いいんだ。朝になったらそこらへんに埋めて隠してもいい。君が持っていたら怒られるだろう」
 中々受け取らないスヌイに業を煮やしたのか、スノウは彼の肩に乱暴にブランケットを巻いてやる。スノウがどうして自分にこんなものをくれるのか検討も付かないスヌイは、慌ててそれを両手で支えた。
「あ、ありがとう…」
「風邪をひいて僕達に移っても困る」
 ふい、と視線を反らしてスノウはその場を後にする。でも、スヌイには見えていた。夜でも白い子供の頬は、ほんのりと赤くなっていたことを。少し触れたスノウの指がとても冷たくなっていたことを。
「―――そういうの、知ってるから。殺すと後味悪いでしょう?」
 事も無げにスヌイが云い放つのに、からん、とテッドは手にしたグラスを鳴らすのに留めた。目の前の少年の、割り切り過ぎている性格をしらない訳ではないからだ。だから自分はよくやっている方なのだろう。こうして、夜を共にしていることは間違いなく彼の情が見えている。
 昼間に流れ着いたスノウ・フィンガーフートのことでスヌイの心は珍しくざわついているんじゃないかと思っていた。だからいつもより早く部屋を訪ねた。夜の灯りの中、エレノアから譲ってもらった酒を抱えて。
「スノウがしたことは忘れない。彼も、俺のことを忘れない」
 とつとつと語らせている言葉は、とても正直な言葉だ。テッドは、スヌイがアレを殺せたのを知っている。―――死んでも生きていてもどうでもいいものだというのを知っている。
 それでも、スヌイはスノウに一つだけ聞いた。衆人環視の中、あの晴れ渡った空の下。重要なのは一つだけ。
 自分達は友人になれるか、とスヌイはスノウに問うたのだ。
 スノウが彼に何と答えたのかテッドも、その場に居た誰も聞こえなかった。それでも彼が今同じ船に乗っていることがその答えだ。
 それにテッドはあの時のスヌイの嬉しそうな顔が忘れられない。
「でもずっと、友達になりたかったんだ」
 だからあの、スノウを迎え入れた笑顔を真実と思うしかなかった。
 キスを、してやるぐらいしか出来ないのが切ないけれど。
 抱き締めるぐらいは、許してほしくて、祈るでもなくその日も一緒に眠った。
 小さな子供にするように。















和栄さんに素敵な小説をプレゼントして頂きましたーー!!
テドヨンとスノウをいっぺんに頂けるなんて、私は三国一の幸せ者ですっっvvv
スノウのしたことを忘れないと言い切りながらも「ずっと友達になりたかった」と笑うスヌイ君が、
本当に嬉しそうな表情を浮かべているのが読んでいる此方にも伝わってきて、ほんわり温かい気持ちになりました。
何より、ご褒美に手を繋いで欲しいと強請るスヌイ君が可愛くて可愛くて…!!
テッドと一緒になって「畜生、可愛い!!」を連呼しました(笑)
素敵なお話を本当にありがとうございました和栄さん!!大好きですv(ぎゅう)






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