オトタチバナ















 歩いて歩いて歩いている感覚すら失われた頃、ふと我に返った。
歩いているのはいつものことで、寧ろ走っている感覚は普段から強くて、そうして振り返ることも横を見ることすらも忘れていて。
 そうして、確かにあった筈のものがなくなっているのを思い出すようにして気づいた。
 時間は質量をもっていると思い知る。
 それは触れることも見ることさえもできなくても、確かにそこにあって自分の一部で、そして既に取り返しのつかない確かさで欠落していた。







「───うあ、眩しー」
大きく伸びをしたその手は、そのまま瞼に。珍しく昼を過ぎてから甲板に姿を見せたリーダーに、幾つかの笑顔が手を振った。
それにだるそうに片手を挙げて応えながら階段を下り、ティエンは独りで風に吹かれている、緋色の髪の麗人、キカの隣に陣取った。自分と同じ双剣の使い手ということが気安いのもあるが、殆ど言葉を交わしもしない彼女が纏う、突き放さない切り離さない距離感と空気がティエンは気に入っている。まだうら若いと言ってもいいその人は、勢力といい人望といい戦闘力といい、リーダーになってもおかしくない存在だったが、それぞれの島の威儀や誇りやらの看板でごちゃごちゃしている艦内の人間模様から常に一歩退き、冷静な目を大局に向けていた。
海原に向けられていた眸が、ややあってゆったりと自分に巡らされたのに、にこやかに笑い返す。迎合しない目線に問うともなく問いかけられ、ティエンは軽く肩をすくめて笑った。
「10勝1敗1分け、何とか及第点貰ったよ」
「……エレノアも言っていたが、この艦で他の船を庇うのは感心しない。旗艦が沈めば戦は負けだ」
「そりゃそうなんだけど、この艦無駄に頑丈で鈍いから的向きなんだよねぇ。でかいのを餌におびき寄せて、行き足の速い船が仕留めるって基本だと思うけど」
「お前は根本を間違っている」
やや掠れていても澄んだ落ち着いた声は、軍師の重々しくもどこか捨て鉢なキンキン声の後に聞くと優しい雨のようだ。どこか赦されているようで、悪びれずティエンは笑う。
ため息混じりに見つめてくる眸は、凛としていつも迷いがない。
「この艦は船であって船ではない。今、この艦は群島の国々そのものなのだ。それを矢面に晒しては、本末転倒だろう」
「らしくないね、貴女が象徴だの国だのって」
クスクスと笑って、ティエンは舷側に頬杖をついた。
「ナイトやポーンを捨石にして王を護る。それって如何にも大陸式の考え方で好きじゃないな」
「考え方の問題ではない、それが事実だ。この艦は群島諸国、お前は───王だ」
「サイアク。王冠ってこの世に存在するものの中で、一番馬鹿げたものだと思うけど」
冗談めいた口調を不意に収め、ティエンは唇の端を吊り上げた。
「あれを頭に乗せた人間は、無惨だ。その瞬間に、そいつがどんなことを考え、どんな物が好きでどんな物が嫌いかなんて誰も気にしなくなる。そして誰もが金の塊に向かって礼拝を始める。あれはれっきとした人間を、自分の意思で考えて選んで生きてきた人間の何十年かを、ただの帽子の台にしてしまう傲慢な無機物だよ」
「……お前が権力者……否、権力そのものを嫌っていることは知っている」
静かに呟いたキカは、風に煽られる長い髪を手で抑えて沖合いを眺めた。
「だが、それでは子供の駄々だぞティエン」
「不愉快な言われようだなぁ」
茫洋とした声だが、少し面白そうな響きがあった。
「帽子の台。だが、群島に今何よりも必要なものだ。お前は戦いが終わり、それを誰かの頭に押し付けられるようになるまで被っている義務がある。───お前に押し付けるまで、リノがそうしていたように」
聞いていた口が、への字に曲がった。
「……全部終わったら、押し付けた当人に返してやるさ」
「結構、そうするといい」
私なら、何を言われてもどういう状況になっても受け取っていない、とさらりと緋色の髪を靡かせた女性は笑った。それを横目に、ティエンは頬杖をしていた手を無造作に換えてぼやいた。
「───煩わしいな、早く終わればいいのに」
「そうだな、早く終わればいい」
「終わったら、貴女はどうする?」
「何も。これまでと変わらない。海のどこかで空を見上げている」
「……カッコいいね」
ふ、と笑ったティエンはあーあ、と空を見上げた。
「終わったら、何しようかなぁ」
「好きなことをすればいい。誰もお前を止めないだろう」
「好きなこと、ねぇ」
曖昧に笑う顔が、一瞬返す言葉を奪った。切なさにも似たそれは、どこか自分の奥深い部分を真っ直ぐに貫いていった。
この子供は知っている。自分が生き残れる可能性など、万にひとつもないことを。
「……お前のような可愛げのない子供に帰って来られたら、母も迷惑だ」
きょとんとした顔で自分を見る眸がどうにもいたたまれなくて言葉を重ねる。
「だから図太くしぶとく、どこまでも生き抜いてみせろ。我等は行きつ戻りつするが、海は変わらず、いつまでもどこまでもお前の背中を後押しして、共に在り続けてくれる」
「なに、慰めてくれてるの?」
くすり、と笑って見上げてきた悪戯っぽい顔に、キカは薄く笑い返した。
「泣く子には飴玉をやるものだ」
「もっと甘いものの方が希望だけど」
何を、と思う暇もなく、暖かいものが一瞬唇を掠めて離れていった。
「───飴玉の礼だ。この戦の間。一時、貴女の揺らぎを護ろう」
と、と後ろに跳んだ少年は、返す刀で繰り出された肘を避けて笑った。
「先々代の願いでもある。───貴女の笑顔が好きだったと。護りたいものはただそれだけだったと。切ないほどに焦がれる眼差しが俺の中で燻っている。悪漢共を軽く退け、髪を掻きあげながら笑う貴女に、海に生きる男なら誰だって恋をした」
風に融ける声で残して、ティエンはキカに背を向けた。



 何なんだ、全く。



その背中が遠ざかっていくのを見送って、キカは唇をへの字に引き結んだ。
ふ、と後姿から引き離して流した視線の先にはやはり海原があり、眩しいほどの碧に輝いている。
……この艦に乗ってからというもの、先に亡くしたばかりの彼をよく思い出すようになった。亡くして久しい彼も、二人して眩しい光の中で笑っている。
 今が不満な訳ではない。よい仲間に恵まれているし、立ち位置が気に入らない訳でもない。ただ───懐かしいのだ。振り返った先には、いつもあの風景がある。
よい時ばかりではなかった。日に1個のパンすら口にできず、漁師の真似事をして永らえた日々もあった。仲間が死んだ夜も、いよいよ老いさらばえた船を炎で送った朝も。
でも笑って泣いて怒って、そこにはいつも本当しかなかった。
 名前を呼びたい感傷を、気恥ずかしさと気だるさが諌めた。
どうにも自分が老いた気がした。
時間に押しやられている気がする。
そう考えてから、ふと、あの少年は時間の埒外に弾き出されてしまった人間なのだと思い出した。
さりとて罪悪感が湧くでもない。確かに彼は老いを忘れた身体になったが、いつ死ぬか判らないのはお互い様だ。真なる紋章の継承者とあっても、首と胴が離れれば死ぬし、また、紋章が宿主の命を喰らい尽くしても死ぬものらしい。
ジガバチの幼虫に寄生されているようなものだろうか。おぞましいはおぞましいだろうが、さりとてそれがどうというほどのことにも思えない。だから共に在ることに抵抗はない。自分が宿主になると考えても、恐怖はなかった。
「死にたい訳じゃない。ただ、この耳がどこまでも海の響きを懐かしむように、この心がお前達を懐かしがっているんだ」
それくらいは大目にみろ、とキカは少しばかり潤んだ視界を天に投げた。







「……駄目、だなどうも」
ぼそりと呟いたティエンは、辿り着いた船尾に座り込んで溜息をついた。差し出される釣竿を、いいよ、と顔を振って断って、後方に白く泡立って続いている軌跡を見やる。
また軽い溜息が洩れた。
彼女の背中の向こうに、否、常に眸の奥に消しようのない過去が揺れている。
それがよいと思うのだから性質が悪い。
絶対に叶わないと知って、それでも胸に奥深く秘めた願いを追い続ける眸は強くて真っ直ぐで、どこか悲しげでいつだって綺麗だ。
自分が好ましいと思う相手は大抵そうなのだから、まあこれは仕方がないとしたものなのかもしれないが。
「お前のせいにできればよかったのに」
苦笑して左手の紋章を見やる。
薄く目を閉じると、漣のように感情が寄せてくる。
それが生前の彼らしくもなく遠慮がちで、押し付けがましくもないのは、彼自身も自分だけで秘めておきたい感情だからだろう。
それでも朴訥なそれは、暖かくて快い。
彼もまた、決して叶わないと知って願いを追い続けた人間だった。
「……仲立ちはしないし認めてもやらないぞ、ムカつくから」
ぴん、と右手の指で紋章を弾いて、ごろりと大の字に寝転がる。
今ここにいる自分は、時間に切り取られた異邦人のようなもので。そのせいだろうか、以前より少しだけ人の感情が見えるようになった気がする。
身の内に寄せてくる漣、そしてこの世界に満ちている人の感情の漣。
ゆらり、ゆらりと揺られて右へ左へ。
自分も船のようなものかもしれない。
人の感情の狭間、人々の感情の狭間、国、世界、そんなものの狭間を揺られ揺られて進んでいく。
身の内に燻っていた炎が消えた訳ではないけれど、今はどこか遠くに感じられた。
「綺麗だと……思ったんだけどな」
炎にも似た緋色の髪、その魂。
我が身の炎が遠くなったから、手を延ばしたいと思ったのだろうか。
何よりも確かに王である貴女に、助けてみる素振りで縋ってみたくなったのかもしれない。
いずれにしても───
「いい日和にいい潮っスよ大将、大物がきそうですがねぇ」
ふと物思いを破って響いてきた、さも惜しそうな声に、苦笑して起き上がる。
「さて、今日はもう逃した後だが。じゃあ、ひとつ試してみるかな」
そうこなくっちゃ!と意気揚々と仕掛けを手繰り始めた釣り師を見やってティエンは笑う。
 いずれにしてもキカ、貴女はただひとつだけ読み間違えている。
 俺は自分が死ぬとは思っていない。こんなものに殺されてやる気はない。




 まあ、先だけは長い。太公望を気取って気長に───行こうか。








2007.9.30『オトタチバナ』
SING BY YUDU AKISHIMA















「ティエン君とキカ姐さんの物語が読みたい!!」……との私の我侭に、ありがたくもお応えして頂きましたv
秋嶋さんちのキカ姐さん、やっぱり格好良いです…!!男じゃなくても惚れますぜ!!寧ろ私が嫁ぎたい(こらこら)
そしてティエン君。けして割り切れも理解も出来ない感情の狭間で揺れながらも、
人のそれを少しずつ、優しく受け止めることが出来るようになった彼の姿にほっとしました。
少し切なくて、でも温かなお話を、本当にありがとうございました!!大感謝です!!





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