レキノクス















「───私、行きます」
決然とした声というには、その声は悲しみに満ちていた。
騎士団の館の屋上を囲む、僅か30cm程度の幅しかない切り石に佇み、恐れ気もなく風に身を任せている少女。蜂蜜色の金の髪が黄昏の光に染まるのを、数メートル後ろに佇んだ青年はじっと見ていた。
「……多分……生きては帰れないぞ」
「承知の上です。ティエンをたった一人で……石つぶてだけを送り手に……母の腕(うみ)に還すというんですか?」
低い呟きを正確に聞き分け、ポーラは静かな声を返した。
「誰も送らないなら、私が送ります。私が抱いて───還る」
「……じゃあ、俺も行く」
初めて振り返った彼女に、ケネスはにこりと笑んだ。
「勘違いするな、心中の為じゃない。俺はお前達を生かす為に行くんだ。お前、身一つで船に潜り込むつもりだったろ?それじゃ駄目だ。俺達があがっても騎士団に情報がいかない島まで行くなら、最低でも樽3つ分の水、食糧に魚を釣るにして道具、大袋一杯の干した林檎と葡萄、ビスケット、大きな布に航海用具一式くらいの準備は要る」
指を折って数える姿に、呆気にとられていたポーラはやっと我に返った。
「無理……です、そんな沢山の荷、布をかけても絶対にそれと判ってしまう。喫水でも判ってしまうでしょう」
「船には乗せない。本当なら、沖にブイを立てて沈めておければいいんだが、一晩経てばかなり流されて見つけ辛くなる。だから、沈めて曳いていくんだ」
理知的な漆黒の眸は、水平線を見つめたままで歩を運び、少女の隣に並んで立った。
「昼は布の下で陽を遮って寝み、交代で夜に漕ぐ。北東に進めば、必ずどこか別の島に辿り着ける。殺させるものか───あいつも、お前も」
「……ケネス」
「陽が落ちてからが勝負だ。小船の舳先からロープを這わせて、結わえた荷を沈める。誰かに見られたら……気づかれたら最後だ。念のため言うが、タルにもジュエルにも話すな。別れを匂わせてもいけない」
差し出された手をとり、少女はとん、と青年と同じ高さに降りた。
途端に視線を上げなければ目を合わせられなくなった相手に無言で頷き、少女は握る手に力を込めた。




 いつからこんなに大切になったのかと訊かれても、答えられない。
日が落ちた薄闇の中、港の生温く凝った水の中に身を沈めながら、ポーラはぼんやりと考えていた。
 ただの痩せっぽちの仲間の一人にすぎなかった少年は、気がつけば私達の世界の中心に立っていた。少しずつ少しずつ、嬉しいこと、好ましいことが降り積り、いつしか何にも代えがたく大切な存在になっていた。
ちゃぷり、と水音をたてないように潜り、沈めた樽から引いた綱を、舳先に結わえ付けていく。舳先は港からは逆を向いているから、ロープは見えない。相当な荷を曳くのだから、この小船の動きは相当鈍重になる筈だが、流刑に興奮している人間達は、見世物がゆっくりゆっくり視界から消えていくのを喜びこそすれ、不審には思わないだろう。
涙が滲みそうになったのを堪え、ポーラは最後の一本を結び終えた。
「終わったか?」
不意に隣に浮かび上がった青年に、しっかりと頷いて返す。
「ええ、後は───……!ケネス、誰かいます」
「誰だ?」
押し殺した声に緊張が奔る。
「そこの角に……この足音は……スノウ?」
「見られたか?」
「判りません……でも、遠くなっていきます。緊張も乱れもありません」
「なら……大丈夫か」
「ええ、恐らく」
頷きながらも、ポーラの胸には、どこか暗澹とした感情が引っかかっていた。
 足音が重い。何かを押し殺した慟哭、理解するには遠い煩雑な迷い。
 ───スノウ、貴方は知っていますね。
 ティエンの無実を判っていて、それでも死神の手に引き渡すのですね。
 何故……!
目立たない物陰を選んで港に上がった二人は、毅然とした目で、繋がれて波間に揺れている棺桶を見やった。
「───行くぞ、ポーラ」
「はい、ケネス」
ずぶ濡れの手を、しっかりと握り合う。
 ……海よ。母なる海よ。
 まだ、貴女にティエンは還さない。
 私達から、奪えるものなら奪ってみせるがいい。


          *     *     *     *     *     *


「どうしていいか……正直判らないんだよねぇ」
他人事のようにぼやきながら、ティエンは真昼の太陽を見上げる眸に手を翳した。戦闘時や気を張っている時でなければ、彼の物言いは、内容も本人の感情すらも問わず大抵茫洋としている。それに独特の調子でつけられる緩急は、その言葉が本気なのか冗談なのか、強がっているのか悲しいのか上機嫌なのかを覆い隠してしまう。彼の真意を読み取れるのは、彼自身が余程心を許した者だけだった。隣に立って物憂げな横顔を見上げながら、テッドは手にした林檎の芯を海に放った。
「怒っていいのか笑っていいのか。目の前にしたら自然に何か湧いてくる感情があるだろうと思ったのに、何にもない。顔が凍りついているのが自分でも判る」
「……ケネスとポーラもそうみたいだな」
「あ、それは俺のせい。二人はスノウに、漠然とした仲間意識くらいしか持ってなかったと思うから、憂鬱そうにしてる俺を心配してるんだよ」
「過保護なことだ」
「愛されてるからね、俺は」
その声がどことなく誇らしげで、テッドは少し眉を上げた。
次第は何度となく聞いている。ケネスとポーラが如何に献身的で、実の親すら及ぶべくもない愛情をティエンに向けたか。そしてティエンは、二人への愛情を周囲に隠しもしない。寧ろ喧伝していると言ってもいい。
「あいつらは……お前の友達のままでいたかったと言っていた」
「……そうだろうね。でも、俺は二人の名についた分の傷を、名誉で補いたい。何より、自分に誇りたいんだ。何を捨てても、どんな状況に陥っても、俺を信じて護ろうとしてくれる人間がいることを。はは、有体に言えば自慢したいんだよ」
くすぐったそうに笑って、ティエンは肩を竦めた。
「そうでもしないと───苦いものが喉に込み上げてくる。ラズリルにいた頃……俺が俺のままで、何者にもなろうとしていなかった頃、あるがままの俺を一人は憎悪し、二人は全てを投げうって護ろうとしてくれた。その違いは何だったのか……時々考えてみる。俺は三人が好きだった。とてもとても大切で、好きだという感情を隠さなかったし、陰口を言う者でもいれば、流さずとことんやり合った。同じものを返してもらえてると思ってた。ところが蓋を開けてみれば、一人は俺が向けたものを捻じ曲げて受け取り、二人は向けたものなんか問題にならない、比較すらできないほどのものを返してくれていた。何が違っていたのか、何がいけなかったのか、どうすれば俺は間違えずにすんだのか……考えて済むことなら一生でも考えるさ、でも、これはきっと違う。この戦いの内に答えが出せなかったら、きっと永遠に抱えていても答えに辿り着かない、そんな気がする」
それきり、声は失われた。
 スノウ。ティエンの心臓に刺さった棘。
 海原の只中で漂っている人影を見つけた時のティエンの顔を、今もよく覚えている。
 散々悩んで出した問題の答えを否定され、一から考え直さないといけなくなった、途方に暮れた子供のそれ。
今も彼は、空を見上げたまま動かなくなっていた。
ぼんやりしているのではなく、何事かを考えているような迷っているような、そんな顔で。
「ティエン」
一度呼んでも駄目なのだ。
「ティエン」
二度呼んで、そしてひょうひょうと舞う風に案じるように頬を撫でられて、それで漸く彼はいつもの彼に戻る。
「なに?」
にこりと笑う彼の顔は、どこか安堵している風でもあった。
それが少し淋しくて、テッドはふいと顔を逸らした。
「───ごめん」
謝ってくる声の響きも意味も嫌いだった。
「どうしてだろうね、俺が暖かくなれば暖かくなるほど、彼は凍えていくような気がするんだ。繋がっていると考えるのも業腹だが……でも、そうだな……月の表と裏みたいなものなのかもしれない。陽を受けられるのはどちらかだけで、選ばれなかった方は闇に沈む」
「……まだ諦めないのか」
「さあ、判らない」
「自分を裏切って死に追いやった人間の、何をそんなに悼んでる?お前は悪くない、気にする必要はない!」
「───お前がいるから、考えられるんだよ」
微笑みと共に差し出された手に歩み寄ると、暖かい風に包まれたのを感じた。それを、仲間達は風の姫と呼んでいる。ティエンの感情を映す鏡のようなもので、時に柔らかに包み、時に激しく荒れ狂う。帆船で航海する時、一番恐ろしいのは嵐ではなく凪だ。船乗りなら誰でも、曖昧な沈黙と波音の最果てで、死の覚悟を迫られた経験を持っているという。だが、この艦は違っていた。これだけ長い航海を続けていながら、ただの一度も嵐にも凪にも遭ったことがない。それは、ティエンが風の精霊に愛されているからだそうだ。ことの真偽はともかく、余り魔力に恵まれていない筈の彼の身体から、テッドはいつもはっきりと大きな力の気配を感じていた。
今は、感情が読めない。風はただ穏やかで優しくて、少し躊躇っているようだった。
「俺の前で、スノウの話を切り出せる人間は多くない。スノウのことを知らない仲間が多いせいもあるけど、大半は俺の不興を買うのを怖がっているせいだ。ポーラ、ケネス……二人にも心配かけてることは判ってる……いい加減答えを出さなきゃいけないことも判ってはいるんだけどね」
ふう、と洩らしたため息が風に消える前に。
「───それを迷惑だと、一度でも私達が貴方に言いましたか?」
柔らかに耳を打った声に、テッドだけが振り返った。ティエンは既に足音で気づいていたのだろう、前方を見たまま、僅かに口許を吊り上げただけで動かない。
「……言わない。でも、これ以上心配かけたくないと思ってる」
「心配するのが、私達の仕事ですよ」
答える声は春の陽のようで、ふわりと暖かい。ここは母の出番とばかりに横に控えているケネスも、優しい笑顔で静かに見守っていた。
「ティエン、私達、ずっと一緒にいましたね。貴方のことをずっと見てきました。貴方の忍耐も努力も悲嘆も知っています。貴方が決して他人の好意を歪んだ意図で受け取ったりしない、とても真っ直ぐな人だということも。まだ、スノウを切り捨てられずにいることも。……貴方が初めて私達に笑いかけてくれた時のこと、覚えていますか?」
ふ、とティエンの表情が和らいだ。
「───ふさふさ退治に付き合わされて、夕飯を食いはぐれた晩だった。すきっ腹を抱えて部屋に戻ると、机の上にナプキンに包まれたアップルパイが置いてあった。週に一度、一人に一個しかもらえない林檎二個分で作ったくらいの大きさの。まだ温かかった。……あんなに美味いものを食べたのは初めてだったよ」
「私達のしたことだと、貴方は確信してくれた。しかもそれを好ましいものと思ったから、翌朝を待たずに会いに来てくれた。貴方がありがとう、と笑ってくれて、私達は本当に嬉しかった。……ティエン、つまりそういうことなのです」
思慮深い眸は、やはり穏やかに微笑んでいる。
「行為を受け取り、行為を返す。そこに人が何を思うか。そこに正しいも間違いもありません。ただ、どう受け取るかなのですよ」
ティエンは、暫し立ち尽くしていた。言葉を捜しているような顔で一瞬地に目を落とし、それからポーラを振り返った。
「───俺がまだ彼を切り捨ててないと言ったね?俺は、一度ラズリルを捨てている。スノウもカタリナさんも、タルもジュエルも……君達すら、皆焼き払うつもりだった。……あの時それぞれの顔を思い出したりはしなかったけど、迷いはなかった。それを止めたのは、君とケネスだ。俺のために全部捨ててくれた君達の存在だった。行為を受け取り、行為を返す。そこに人が何を思うか……なら、決まってる。君達だけは護る。何を失っても、誰を犠牲にしても必ず。俺を助けたことが、君達の生涯の誇りになるように俺は」
「ティエン、俺達は『英雄の恩人』なんて肩書きは求めてない」
それまで黙っていたケネスが、ゆっくりと口を切った。
「こうあろう、自分はこうでなきゃいけないって枠に無理矢理押し込んで、結局身動きがとれなくなってる人間は大嫌いなんだろう?」
「身動きは……とれなくなってないよ」
口ごもるティエンに、包み込むような笑顔が向けられた。
「ねえティエン、忘れないで。私達は貴方の味方です。この先貴方が何をしても、どうなっても、私達は貴方を信じて、貴方を護るために全力を尽くしましょう。でも、それは貴方に何かしてほしいからではなく、ただ貴方を好きだからです。貴方が苦しい時は、私達も苦しい。貴方が幸せなら、私達も幸せだということを、どうか覚えていてください」
そこで言葉を切り、ポーラはテッドの方を向き、小さく会釈して微笑んだ。踵を返した少女の肩を、ケネスは護るように抱いて歩き出す。
涼しい風が通り過ぎていったような気がした。
「───全く、敵わない」
やれやれ、といった顔でティエンは笑った。
「俺は、世界の全てなんかいらなかった。群島に育ち、見渡す限りの地面なんか見たことがなかったから、もっと土地がほしいとかいった感覚が理解できなかったのかもしれない。見渡す限りの海は毎日のように見ていたけど、それでもそれが欲しいと思ったことは一度もなかった。それを越えて最果てを望むことは、数え切れないほどあったけどね。最初はただ、スノウを護りたかった。スノウがいずれ統べる街を護り、彼を補佐して生きることが俺の夢だった。でも、俺は所詮……徹底的に異邦人だった。騎士団で戦い方を習い、航海や地理を学んでいくにつれ、世界や国、街の定義が曖昧になっていった。結局持たざる者だった俺には、護るための戦いも、勝ち取るための戦いも、どちらも理解できなかった。皇国が土地を奪いに来るという。何故くれてやってはいけないのか。それではラズリルではなくなるからだという。手に沢山のものを持っていようが持っていまいが、どんなに姿かたちが変わろうと名が変わろうと、俺にとってスノウはスノウで、ラズリルはラズリルだった。土地は在り、人は在り、統べる者が変わるだけなのに何故国は国でなくなるのか、国が国でなくなることが何故良くないことなのか。判らないなりに、そうなのだと頷く人間の集団の中で、そうなのだと頷いて剣をとっていた。
貴方はいつもどこか不思議そうな顔をしていますね、とポーラは笑った。
納得しなくていい、とにかく迷うな、とケネスは叫んだ。
耳に残る言葉を貰った。どちらの言葉にもありがとう、と返した。変わらない方がいいものがあるってことは、二人の存在が教えてくれた。ずっとそのまま、変わらないままあってほしいと思うものが、俺に護る戦いを理解させた」
翡翠の煌きが俯いて、僅かに震えた。
「───いつも二人に背を押されている気がする。抱きしめられて、護られているような気がする」
「……いつまでも護られたままでいる気はないんだろ?」
「当然」
揶揄する声に精彩を欠いた眸を僅かに眇め、ティエンは口許だけで笑った。

「───ここから先は、勝ち取るための戦いだ」




 陽は昇り、陽は沈む。数週間後、艦はオベル沖をネイに向かって進んでいた。
真昼の空の下、甲板の人員の中でも一番新しい顔が、ぼんやりと海鳥を眺めていた。潮風に晒され、櫛も入れていない白銀の髪がもつれたままに風に揺れている。その後ろ姿に、ポーラとケネスは静かに歩み寄った。
「───スノウ、今、話せますか?」
「あ……ああいいよ、何?」
我に返ると共に、僅かな警戒と緊張が痩せた身体に漲るのが判った。長い漂流で疲れ果てた身体は、まだ痛手から立ち直っていないようだった。日焼けに赤く腫れた腕を一瞬痛々しそうに見て、それでも厳しい顔を崩さずにポーラは切り出した。
「私はずっと貴方に聞いてみたかった。貴方、私達が流刑船の周りで隠れてしていたことを見ていたでしょう?どうして報告しなかったのですか?」
「……別に……必要ないと思ったから」
「罪滅ぼしのため、だったのか?」
何のとは言わない。ただ、見つめるケネスの眸の強さに、スノウは唇を噛んで俯いた。
「───違うよ」
「では何故?」
「流刑にされたのは君達じゃない」
生真面目に、スノウは気弱な顔を励まして言い切った。
「どんな道を選んでも、君達には生きる権利がある。君達だけじゃない、誰にだって……権利だけはあったんだ、持てるものと知恵と勇気で、押し付けられた死を回避することができたら、それは君達がもぎとった生だ。誰にも奪う権利はない。生きようとあがくのは、死に立ち向かうのは人間の当然の行動だ」
「その死を用意した貴方が言うのですか。スノウ、貴方はどうしてティエンを」
ため息と共に返されたのは、彼にたったひとつ残された美しいもの、海色の澄んだ眼差しだった。
「……色々ある、理由なら……下らないものや濁ったものや、醜い歪み……すまない、どんなに謝っても済むことじゃないことくらい判ってる。隠さないことだけが僕の誠意だ。───彼は余りに優秀だった。僕は彼に勉強でも剣でも、本当に何一つ勝てなかった。比較される度に惨めで、どうしてもっと彼を平凡な人間にしてくれなかったのか、どうして僕の傍に呼んだのかと神様を恨んだよ。『罰』の紋章は……目の前に放り出された好機だった。それに飛びつかずにはいられないほど、僕は自分に絶望していた。ティエンから逃げ出したい、それしかなかった」
「ティエンは……!ティエンがどんなに苦しんだと思うんです!!」
「僕は……僕の苦しみと惨めさを隠すだけで精一杯だった。彼がどんなに僕を想ってくれていたか、そんなことはもう、僕には問題じゃなかったんだよ。ただ離れたい、それだけだった。だから……君達が彼について行ってくれるつもりだと判った時……何もかも捨てて彼を護ろうとしていると判った時、僕は……羨ましくも悔しくも妬ましくもあったけど、それ以上に嬉しかった。僕が流刑になっても、絶対そこまでしてくれる友人はいない───そんな僻みより、自分が捨てた猫が、いい人に拾われてくれたのを見ているような安堵が勝った。唾棄すべき感情だ。だから、君達のことを、船に何かしているのを見たから通報しようなんて、本当に全然思わなかった」
「───酷い」
「……ああ、本当にそうだ」
蒼白の唇を噛んで、それでも顔を上げたままでいるスノウの顔を、同じ顔でポーラは睨み返した。
「ティエンは、あの時ラズリルを焼き払おうとしていたんですよ」
「………っ」
「岸の松明の光が段々遠ざかって……人の顔も判らなくなり、罵詈雑言も届かなくなった頃……ゆらゆら揺れる船板を踏みしめて立っていたティエンは、左手の手袋を引き抜きました。水平に手を挙げ、そしてタイミングを計っていた……何もかもです、絶望して全てを消そうとしていたんですよ」
「………僕は……」
「忘れないでください、貴方はティエンの総てだった。今は知らない、でも確かに貴方は一度、貴方が、ティエンの心を粉々に砕いたんです。彼が今ああして笑っていること、怒ったり苦しんだりしていること、戦っていること、走ることも食べることも眠ることすら、ティエンが必死でたて直し、組み上げ直した結果だということを。理解してください、貴方は今なおそのキーストーンを握っているということを」
「……どうして」
「ティエンはお前を殺せなかった」
震えているポーラの肩を両手で支え、ケネスは静かに微笑みかけた。
「これだけは言っておく、お前が流刑になったら、誰がついていかなくても、ティエンだけはお前と一緒に行っただろう」
「………」
「スノウ、お前はどうしてここにいる?」
澄んだ眸に見つめられ、一瞬口を開きかけ、そして閉じ、思い直したようにスノウは強い眸で相手を見返した。
「僕は……彼の傍にいたい。縋るんじゃなくて、自分で立っていたい……図々しいと判ってる、でも僕はここにいたい。何かできることがあるとも思えないし、僕の存在は寧ろ余計な火種になるかもしれない……ここを動くことが怖いのかもしれない、でも……ここにいる。何故ここにいるかじゃなくて、今ここにいるのが僕なんだ」
「ティエンが、それを望まなくても?」
「もう逃げない、絶対に」
はっきりと言い切った声の強さに、ポーラは頬を濡らしていた涙を拭った。
その指が慌しく腰の小袋を探り、大きな二枚貝を取り出してスノウの胸に差し出した。
「……キャリーさんに調合してもらったお薬です。顔でも腕でも……塗ったら、少し楽になると思います」
一瞬呆気に取られたスノウは、それでも恐る恐る、取るまでは頑として動かさない、という意志を漲らせた掌から、貝殻を受け取った。
「───あ……りがとう」
「……少しくらい滲みても、お風呂には入ってください」
「……うん、そうするよ」
「それから……貴方の剣、少し鍛えて頂いた方がいいです。甲板の守備の担当は、全員銘入りにして頂くようにと……ティエンが言っていましたから」
「……うん」
「鍛冶師の方は施設街においでます、行けば槌の音ですぐ判りますよ」
あの方は仕事熱心だから、と微笑んだポーラの貌は、涙を残していてもふわりと暖かかった。判った、と頷いて船内へと歩き始めたスノウは暫くして、その場に佇んで自分を見送っている二人を振り返った。


「───ありがとう、ここから先の階段は自分で上るよ」




 

2006.6.17『レキノクス』
SING BY YUDU AKISHIMA















秋嶋優津さんから素敵小説を頂いてしまいましたっ…!!
メールボックス開けたときの私の取り乱しようったらなかったです…。
こんな素敵なことが現実に起きて良いんでしょうか?おお神よ、夢ならどうか覚めないで!!(落ち着け)
複雑な思いを抱きながらもそれを切り捨てることなくどこまでも抱えていこうとするティエン君と、
自らの弱さと過去の過ちに苦悩しながらも自分の意志で前に進むことを決意したスノウ。
離れているようで、その実は深いところで繋がっていると思えるような、
二人の関係が切なくも嬉しくて、本当に食い入るように読ませて頂きました。
ケネスとポーラの献身的な愛にも感動!!ティエン君を支え続けているテッドの優しさも凄く嬉しくて…!!
秋嶋さん、素晴らしいお話を、本当に本当にありがとうございましたーーっ!!!!




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