Innocent warrior












「一緒に戦って下さい!」
「断る」
 勢い込んでそう口にしたリオに返されたのは、恐ろしく簡潔且つ明瞭な回答だった。
 会話所要時間僅か二秒。正しく電光石火の切り返し。提示された内容を熟考した上での判断では到底あり得ない。彼にしてみれば「おはよう」と言われたから「おはよう」と返した、その程度のレベルの話なのかもしれない。
 しかし、それであっさり引き下がれるほどリオは諦めの良い性格はしていなかったし、何事も波風立てず穏便に、の姿勢を、どんな場面においても実践出来るほど大人でもなかった。
「どうしてですか!?」
 メゲた様子など欠片もない。声のトーンもボリュームも少し下げることなく、リオは食い下がった――先ほど一瞬で会話を終わらせた、もとい、終わらせようとした相手……この屋敷の主である少年に。
 少年―――ゼファは客間の卓に行儀悪く肘を付き、研ぎ澄まされた黒曜の瞳でリオを一瞥した。気の弱いものが見れば失神しかねない眼光にも、しかしリオは怯まない。流石は都市同盟の軍主、見た目どおりのお子様じゃないという訳か…ゼファは軽く吐息をつき、カップの紅茶をひとくち啜った。
「ならば逆に訊こう。何故、俺に一緒に戦って欲しいんだ?」
「え?えっと……その……」
 質問に質問で返されるとは思っていなかったらしい。リオは必死に思考を巡らせ始めた。
「だって、ゼファさん、強いし…」
 そうだろうな、と。ゼファは先ほどとは違う性質の吐息をついた。トランの英雄の風評を聞いて戦力に引き入れようと、そういうことか。
「頭もいいし、僕が全然知らないようなことを、いっぱい知ってるし」
 利用したいのは名か、それとも立場か。くだらない。そんなもの、俺にとっては小麦一粒ほどの価値もない。もし誰かが欲しいと言うなら、大喜びでそっくり丸ごと押し付けてやるところだ。
「だから―――」
 あの戦いが終わってから三年。しかし世界はまだ、英雄という虚像を、自分に忘れさせてはくれない―――。
「ゼファさんが一緒に来てくれたら、僕は早く、ハイランドに行けるようになるんじゃないかって」
 ―――最後の台詞は、ゼファが予想していたものとは少し違っていた。顔を上げ、ゼファは視線だけで見ていた相手に、初めて身体ごと向き直った。
「ハイランドに勝てるんじゃないか――ではなく?」
 リオはきょとんとし、榛色の大きな瞳をパチパチと瞬き、それから、うーん、と首を傾げた。
「勝つとか負けるとか……あまりそういうこと、考えたことがないです。そりゃ、負けるよりは勝つほうがいいんでしょうけど…でも、勝っても負けても、人が死ぬことには変わりないし。僕はハイランドを滅ぼしたくて、戦争してるんじゃないし」
「停戦が望みか?」
「うーん……止められるのなら、それが一番いいです。けど、どうしたら誰も傷付かずに平和に治まるかなんて、そんな難しいこと、僕にはわかりません。僕はただ、ハイランドに行きたいだけなんです。ハイランドに行くことが出来さえすれば…ジョウイに会うことさえ出来れば―――僕はそれでいいんです」
 一軍を預かる身とは到底思えない我欲剥き出しの言葉に、ゼファの黒曜の瞳がすっと細められる。その視線は鋭利と呼べるものを通り越して、早や絶対零度の域に到達しようとしていた。
 まだ少年の域を出ない外見にはあまりに不釣合いな―――それは『軍主』の顔だった。栄耀栄華を極めた赤月を滅ぼした軍、その頂点に立つ者の。
「ジョウイ、というのは?」
「僕の親友です。ちょっと色々あって…今は、ハイランドの皇王なんかになっちゃったりしてますけど…」
「成る程…親友同士で覇道を争うか。尤も、昨日までの友が今日の敵になるなど、今時珍しい話でもないが」
「ジョウイは敵なんかじゃありません!」
 リオの声は真剣だった。
「本気で言っているのだとしたらお笑い種だな。君は同盟の軍主で、彼はハイランドの皇王。そして今、この二国は敵対関係にある。子供にでもわかる道理だ」
「僕は本気です。肩書きが付いたって、僕は僕だし、ジョウイがジョウイなのも変わりません」
「君の気持ちがどうであれ、立場と状況こそが全てを決定する。個人の意思など問題ではない。それが戦争だ。君も軍主ならわかるだろう?」
「わかりません!だって僕が軍主になったのは、戦争を終わらせる為であって、ジョウイを殺す為じゃないんです!僕はただ、ジョウイとナナミを守りたいだけ。どんな立場になろうと、これだけは絶対に譲れません」
 ゼファはだんだん頭痛がしてきた。頬杖を付いていた手を、無意識のうちに米神へと移動させる。
「戦争を終わらせたいのなら、軍主の取るべき選択肢はひとつだ。―――立ちはだかる相手は全て潰す。それしかない」
「ジョウイを殺さなきゃ戦争が終わらないなんて、そんなこと絶対にありません!」
「やらなければ、やられるのは君の側になる。ただそれだけの話だ」
「なんでそうやって決め付けるんですか!?」リオは一歩も退かず、零れ落ちそうに大きな瞳で、ゼファを真っ直ぐに見据えた。「だって…だって…同盟とハイランドが戦争をしていて、それで僕がその同盟の軍主で…ジョウイはハイランドの皇王で……だから―――僕とジョウイがふたり一緒に『もう戦争は止めよう』って言ったら、それで戦争は終わりじゃないですか!」
 想像の遥か彼方を行く言葉に、ゼファの思考は完全に停止した。虚をつかれ、呆気に取られたその顔は、思いのほか幼く、あどけなかった。
 だが、それも一瞬のことで。ゼファはすぐさま表情を引き締めた。
「―――事態はそれほど単純ではない。二国の因縁が一体いつからのものだと思っている?あの地に染み付いた怨嗟は、そう簡単に晴れはしない」
「でも…でも、可笑しいですよね、それって。百年も昔の人たちが憎みあってたからって、何で今の時代の僕たちまで憎みあわなくちゃいけないんですか?違う考えを持ってる人は、同じ場所で生きてちゃいけないなんて、やっぱりそんなの可笑しいです」
 リオは凛とした声で言い放った。
「ジョウイがハイランド軍に入ったのだって、戦争を止めさせたかったからだと思うんです。でも、そんな大事なこと、僕にひと言も言わずにひとりで勝手に決めて出て行っちゃって。だから、何でそんなことするんだよ、僕たち友達じゃないのかって、一発思いっきり殴ってやらないと気が済まないんです!だから、僕はどうしてもハイランドに行かなくちゃいけなくて、でもハイランドに行くには、やっぱりハイランドと戦わなくちゃいけなくて。だから同盟軍を抜けることも出来なくて、ええと……やっぱり難しいことはよくわからないけど―――とにかく、そういう訳なのでゼファさんに手伝って欲しいんです。ジョウイに会いに行く為に」
 これが軍主か、と。ゼファは心の中で吐き捨てた。何ということだろう、彼は国の為などではなく、完全に自分と親友の為だけに戦っている。しかも、恐らくは考え抜いた上での結論ではない。最初から、迷いなく、だ。
 軍主たるものに、このような道楽が許されるのか。かつて同じ立場であったものとして、彼に対する怒りがふつふつと沸いてくるのをゼファは感じていた。だが、それ以上に―――羨望や憧憬や後悔―――様々な感情が複雑に入り混じった、言葉では言い表せないような想念が、静かに胸中に広がるのを止めることが出来なかった。
 三年前――あの時の自分は、果たしてどうだっただろう。
 じわじわと腐敗の進んでいく帝国の裏側に心を痛めたのは事実だが、それが直接的な切っ掛けだったかどうかは、もう既に覚えがない。自身の選択を否定するつもりはないが、それが望んだ道であったかと問われれば、素直に頷くことの出来ぬ自分を、ゼファは自覚していた。ただ、自分は軍主だった。軍主であるからには勝たねばならず、その為には多くのものを犠牲にせねばならなかった。母親代わりであった青年を亡くし、父を討ち、最愛の親友を喪って……それでも立ち止まりはしなかった。立ち止まることなど許されなかった。
 そうして―――勝利を得て…気が付けば、自分の手には呪われた紋章以外、何も残ってはいなかったのだ。
 もし…もし、あの時。別の道を選んでいたら。
 グレミオは、父は、テッドは。死なずにすんだのだろうか?
 詮無きことだと知りながら、それでもずっと、考えずにはいられなかった疑問だった。
 そして、今。目の前にいるもうひとりの『軍主』は、あの時のゼファが選ぶことの出来なかった道を、少しの躊躇いもなく、進もうとしている。
 真っ直ぐに。眩しいほどの確信を秘めた、力強い瞳で。
 ―――あの頃の自分に、こんな目が出来ただろうか。
 彼のように生きられたら、何かが変わっていたのだろうか?
 そう自問せずにいられないほどの彼の奔放さと、自分自身の未練がましさが、ゼファには酷く業腹だった。それ故か、次に口にした質問は、かなり意地の悪いものとなった。
「それで……君に付き合ってハイランドと戦って、俺に何か得があるのか?」
 一瞬の空白の後。窓は閉まっているはずなのに、室内にひゅうっと寒風が吹きぬける音を、リオは確かに聞いた…気がした。
「え……と……」
 全く。見事に。何も考えていなかったということが非常によくわかる、とても素直な反応だった。軍主としての資質に甚だ欠ける少年だが、その中でも特に、外交ほど彼に不向きなものもないだろう。彼は酷く正直な人間だった。
 ゼファは殊更呆れたように溜息を吐き、椅子の背凭れのクッションに身体を沈めた。
「生憎、俺は同盟やハイランドがどうなろうと興味はないし、君と君の親友とやらが仲直りをする為の膳立てをしてやる義理もない。昨日今日出会ったばかりの赤の他人も同然の相手に、身体を張って無料奉仕してやるほど、俺は親切じゃなければ物好きでもない」
 ふいと顔を背け、そしてまた、ゼファは視線だけをリオに向かって投げた。
「わかったなら、話はここで終わりだ」
「あのっ…!!あの、あの、でも…見返りとか何も思いつきませんけど…!」リオは必死の声を出した。「手伝って貰えるなら、何でもします。僕に出来ることなら、何でもやりますから…!」
 ゼファは片眉をぴくりと跳ね上げた。
「君はやはり、自分の立場を全く理解していないな。軍主ならば『何でも』だなんて言葉を、軽々しく口にするな。もし俺が協力の条件として―――君の命を要求したら。どうするつもりだ?」
 またしても空白が落ちたが、今度は、リオは先ほどのように狼狽えたりはしなかった。無邪気としか表現の仕様のない満面の笑顔で、彼は実にきっぱりと爽やかに「あ、それなら大丈夫です。ゼファさんはそんなことしません」と、言ってのけたのだ。
「……何故そう言い切れる?」
「だって、ゼファさんはそんな人じゃないから。それに、僕を殺しても、同盟の人でもハイランドの人でもないゼファさんには、何の得にもならないですし」
 ―――絶えず贄を欲している右手の死神に、一先ずの餌を与えることで当座の安寧は確保出来る、というメリットはあるがな…と、声にも表情にも出さずにゼファは考えた。尤も、それをしたときの後味の悪さは、得られる利益を差し引いて尚余りあるものになりそうな予感がある為、実行する気はサラサラなかった。そういう意味では確かに、リオの人を見る目に狂いはなかったと言えるのかもしれない。
 軍の為ではなく、自分の守りたいものの為に。
 どこまでも一生懸命になれる彼は…これから先、一体どのようにして、未来を切り拓いていくのだろう。
「……少し、考えさせてくれ」眼前の少年ではなく、どこか遠くを見るような目をしながら、ゼファは僅かばかり疲れを滲ませた声で言った。「もう遅い。今日は屋敷に泊まっていくといい。明日―――返事をしよう」

 
 



 何か予感のようなものがあったのかもしれない。その晩は横になっても、眠りはなかなか訪れてくれなかった。
 無理に眠ろうとしたときは、大抵酷く夢見が悪いことを知っている。ゼファは寝台から下り、出窓に腰掛けて、天空に掛かった月をぼんやりと眺めていた。
 と、廊下を歩いてくる小さな足音が聞こえた。夜も更けた所為であろう、かなり控えめなその音は、ゼファの部屋の扉の前で止まった。だが、中に入ってこようとはせず、屋敷は再び沈黙に閉ざされる。静寂を保ったまま、しかし扉の前の気配は去ろうとはしない。
 誰なのかは、ゼファにはもうわかっていた。歩調はリオのそれと似ていたが、彼よりは少し軽い。クレオならばもっと落ち着いた歩き方をする。
 深く関わりたくないのなら近付かなければいい―――そう想いながらも、ノックを躊躇うその姿までもが容易に想像出来て、ゼファは結局溜息混じりに声を掛けてしまう。
「鍵は開いている。入るといい」
 扉の向こうから、息を呑む声が聞こえた。それから、呼吸ふたつほどの時を置いて、扉がそろそろと開く。
 昼間は街に買い出しに出ていた(クレオが気を利かせて連れ出してくれたのだ)、軍主の姉のナナミだった。おずおずと遠慮がちな所作は、どうやら時刻に対する配慮の所為だけではなさそうだ。初めて会った時の、向日葵の花を思わせる笑顔は、今はすっかり態を潜めている。
「眠れないのか?」
 灯りを点けずとも、月明かりに慣れた瞳に、彼女の姿はよく映った。ナナミは俯き、手を組んでもじもじと逡巡し、そうしてやっと―――意を決したように口を開いた。
「あの……ゼファさんって、前にリオみたいに軍主やってたって聞いて…。それで…どうしても訊きたくて」
 またその話か。ゼファはうんざりしかけたが、ナナミの声は酷く切実だった。
「どうしたら、リオは死なずにすみますか?どうしたら、私はリオを守れますか?」
 残酷な質問だな、とゼファは思った。何も守れなかった俺に、それを訊くのか。
 少女から逸らされた視線は自然に、壁に掛かった肖像画へと移動した。額の中で屈託なく笑っている少年のその顔も、仄白い月明かりの下では幾分青褪めて見える。
 ――彼はもういない。絵もやがては朽ちるだろう。それまで……自分は彼の笑顔を覚えていられるだろうか。
「もし…」視線を肖像画に向けたまま、ゼファはナナミに問いかけた。「リオを救う為に、自分の命を差し出せと言われたら……君はどうする?」
「ええっ!?えー…っと……」
 顔いっぱいで驚いて、それからナナミは首を傾げたり天井を睨んだりしながら、あたふたと答えを探し始めた。くるくると変わるその表情は、やはり似ているな、とゼファは思う。血は繋がっていなくとも、彼女とリオは紛れもなく姉弟だ。
「えっと…まだ、死ぬとかそういうのって、ちゃんと考えたことないし、やっぱり死ぬのはやだし、まだやりたいこともたくさんあるし。突然死ねとか言われたら凄く困るんだけどっ…あの、あの、でも――えっと、その…どうしても、って言われたら……それでリオが助かるんだったら、私…………死んでもいいです」しどろもどろになりながら、それでもナナミは、最後にははっきりと言った。「お姉ちゃんだもの。弟を守ってあげなくちゃ」
 その目は痛々しいほど真剣で、偽りの気配は微塵もなかった。
 ナナミの答えを、ゼファは最初から半ば確信していた。そして返ってきた予想に違わぬ言葉、姉弟の深い絆に安堵し、それ故の決意に嫌悪を覚えた。
 三年前の悪夢の余韻は、未だゼファを安息より遠ざける。
「本当に彼を生かしたいなら……その考えは捨てたほうがいい」
 絶望の淵に自分を残して、引きとめる声に耳も貸さずに逝ってしまった彼らの後姿が、今も、脳裏から消えない。
「弟を心配をしちゃいけないって言うんですか!?」
「そうじゃない。ただ―――彼が何の為に戦っているのか、君はそれを忘れてはいけない。さもなくば、喩え生き残れたとしても、彼は死よりも深い喪失を生涯抱え続けねばならなくなる」
 ゆっくりと瞳を伏せて深く息を吐き、そうして再び上げられた黒曜の視線は、ナナミを真っ直ぐ正面から捉えた。
「どういう意味ですか?」
「彼は、君と親友とを守りたいと言っていた。どんな立場になっても、それだけは譲れないと」ゼファは静かに言葉を続けた。「彼を守りたいのなら、まず、君自身が生き残ることだ。守るべきものを失った生に、意味などない」
 俺のように―――と。最後は声に出さずに呟いた。
 生きる、というより、ただ惰性のままに流されてきた三年の間に、見えた風景は過去のものばかりだった。
 二度と取り戻せない時間。もうこの世のどこにも存在しない温もり。けして届かないと理解していながら、それでも飽くことなく焦がれ続けた。漸く少しずつ、足掻くことを覚え始めた今でも、未来はまだゼファの前にその姿を見せてはくれない。
 崇高な自己犠牲の精神など、反吐が出る。
「私……リオに死んで欲しくないの…」ナナミの目から、大粒の涙が零れ落ちた。「あの子はただ、ジョウイを取り戻したいだけなの…。本当は…戦争なんて出来る子じゃないのに……軍主なんて嫌で堪らないはずなのに…私たちの為にって、頑張りすぎちゃうから……傍に…ついててあげなくちゃ…絶対に無理しちゃうから……」
 薄闇を振るわせる嗚咽に、ゼファは内心の困惑を隠すように顔を顰めた。誰のものであっても、涙を見るのは酷く苦手だった。こんなときにテッドがいれば、気の利いた台詞で場を和ませてくれるのに。グレミオがいれば、手際よく温かな飲み物を用意して、彼女の気を落ち着けてくれるのに。彼らのいない現実を知りながら、それでもそう考えずにはいられない自分が、つくづく情けなかった。結局、生者はどれほどの時を経ても、死者を超えることなど出来はしないのだ。
 小さな肩を震わせ、両目からとめどなく涙を流しながら、それでもナナミは俯かなかった。滂沱に霞む視界を、懸命に瞬きで払いながら。「リオを…リオを、守ってやって下さい、ゼファさん…。お願いします」
 ゼファは答えなかった。色のない表情で、涙に濡れた少女の顔を無言で見詰めていたが、程なくして緩やかに立ち上がり、白い手布を彼女に差し出した。英雄と讃えられた少年の、これが精一杯の不器用な慰めだった。
 受け取った手布で涙を拭い、鼻を啜り、それで漸くナナミは少し落ち着いたようだった。ごめんなさい、と呟く彼女に、謝るようなことじゃない、と返す。
「部屋まで送ろう。眠れないのなら、家人に言い付けて香草茶かホットミルクでも用意させるが」
「ううん、大丈夫です。…ありがとうゼファさん。話、聞いてくれて」
 気恥ずかしさを誤魔化すように笑い、ぺこりと頭を下げて、ナナミは部屋を出て行った。が、その一瞬後「あ、そうだ」―――再びガチャリと扉が開き、ナナミは隙間から身体を半分だけ覗かせた。
「さっきの質問、ゼファさんだったら何て答えるんですか?」
「質問?」
「ほら、大事な人を救う為に、自分の命を犠牲にしろって言われたら…ってアレですよ」
「そうだな……」
 もといた出窓の縁に腰掛けなおして、ゼファは硝子に背を預け、視線だけで天を仰いだ。漆黒の瞳が月明かりを映じて、ほんの一瞬だけ深い藍に染まった――ナナミには、そのように見えた。
 軍主としての答えなら、考えるまでもなく決まっている。自分の命の使い道を、自分の意思で自由に選択出来る権利など、軍主にはない。この身は勝利を掴む為の剣。懸けられた期待、数多の生命。それらを負うべき背を、たったひとつの願いの為に明け渡すことなど、けしてあってはならない。
 ああ…けれど、今なら。
 自由に生きることを、許されるのなら。
「……取り敢えず、駆け落ちでもしてみるかな―――ふたりで」
「いいですね、それ!」
 夜目にも鮮やかに、向日葵が咲いた。






 如雨露を傾ければ、溢れる銀糸の合間に虹が架かった。朝陽を受け、花や木々たちもその身に纏った雫を鮮やかに煌かせている。まるで花が笑っているみたいだと、リオは思う。
 初冬の朝の空気は身を切るように冷たいが、屋敷の庭に冬枯れの寂しい印象はない。どの草花も手入れが行き届いており、青々とした葉を誇らしげに風に揺らしている。それをひとつひとつ見て回るのが楽しくて、リオは如雨露を片手に、子供のようなはしゃいだ足取りで庭のあちこちを巡っていた。
「朝からご苦労なことだね」
 背後から掛けられた声に振り向けば、悠然とした足取りでゼファがこちらに歩み寄ってくるところだった。生成りの短衣に緋色の上着を重ねたいつもの出で立ちではなく、ゆったりとした作りの麻の部屋着を纏っている。
「おはようございます。早いですね」
「君こそ早いな。客人に仕事をさせてしまっているとは面目ない」
「いえ、僕がやらせて下さいってクレオさんに頼んだんです。凄く綺麗な庭だし、花の水遣りなんて久し振りだから、つい嬉しくなっちゃって。キャロにいた頃は、道場の裏に色々植えてたんですよ。…って言ってもウチのは花じゃなくて、葱とか大葉とか、食べられるものばかりでしたけどね」
 にこにこと微笑むその顔は、本当に楽しそうだった。
 身を削るような戦の最中でさえ、この少年は笑顔を絶やさない。重圧に耐えているのではなく、あくまで自然体で生きる彼を見ていると、どうしても三年前の自分と比較せずにはいられず、胸に苦さが込み上げてくるのを、ゼファは止めることが出来ない。
 ―――自分は確かに強くなった。立ち塞がる全てを悉く薙ぎ払い、数多の屍を踏み拉いて、ここまで辿り着いた。
 だが、彼の持つ強さは、自分のそれとは全く違うものだ。
 軍主として数多の期待を押し付けられながら、それでも花を愛で、美しいと笑える明るさと素直さ。作られた表情は、そこにはない。彼はこれまでもずっとこうであったろうし、これから先、何があったとしても、きっと虚勢でも何でもなく笑顔で前を向いて歩いていくのだろう。そう確信させる何かが、彼にはあった。
 そんな彼の織り成す未来を見てみたくなったのは、ただの気紛れのようなものだったのかもしれないけれど。
「三日後―――」結局、絆されてしまったのが癪で、ゼファは敢えてリオの目を見ずに言った。「ノースウィンドゥに向かう。シュウ軍師にもよろしく伝えてくれ。世話になると」
「来てくれるんですかっ!?」
 途端に弾んだ声を上げるリオに、ゼファは「但し」と厳しい声で付け加えた。
「俺の前で大見得を切った以上は、挫折も妥協も認めない。ハイランドに行く、親友を取り戻すと言った君のその誓い、岩に齧りついてでも果たしてみせろ。全てに決着がつくその時まで、俺の前で死ぬことは許さない」
「はい!」背筋を真っ直ぐに伸ばし、リオは頷いた。今にも飛び上がらんばかりに、全身に喜色を湛えて。
 その様子にどことなくほっとしてしまった自分を自覚して、ゼファは内心苦笑する。もしかしたら、彼の城に集った人々は、この笑顔を見たいが為に、彼の傍に留まり続けているのかもしれない。
「それにしても…わからないな。腕の立つ戦士なら、他に幾らでもいるだろう?何故、俺なんだ?」
 溜息混じりにぼやけば、リオは、えーと、と首を傾げた。
「何だろう…よくわからないんですけど、ゼファさんがいいんです。一緒にいると安心するっていうか……それに」
「それに?」
「楽しいんです。ゼファさんと話していると」
 あっけらかんと答える声と表情に、ゼファは、はぁ?と目を丸くし、とうとう堪えきれずに吹き出した。彼の前では、肩肘張っているのも馬鹿らしくなってくる。
「本当に可笑しな奴だな。君は」
「あーっ!!」凄い発見をしたかのように、リオが叫んだ。「ゼファさんの笑った顔、初めて見ました!」
「……え?」
「うん、ゼファさんは、笑ってたほうがいいですよ。そのほうが素敵です」
 口説き文句かそれは、と呆れながらも、ゼファは耳の奥に懐かしい笑い声を聞いたような気がした。




 ―――おおっ、何だよおまえ、ちゃんと笑えるじゃんか。なら、出し惜しみすんなよ。笑顔は長生きの秘訣、ってな。この俺が言うんだから間違いないぜ。なっ、グレミオさん!
 ―――そうですよ。グレミオは坊ちゃんの笑顔が大好きですから、もっと笑っていて下さい。そのほうが、しかめっ面でいるよりもずっとずっと、坊ちゃんらしいですよ。




 ……花咲く庭を振り向いても、そこにはもう誰もいない。
 それでも、自分が生きようと思えば、彼らはいつだって背を押してくれるのだ。漸く、そう思えるようになった。
「はぁ〜、安心したら何だかお腹が空いちゃいました。もうすぐ朝ご飯の時間ですよね!ゼファさんちのご飯、すっごく美味しいから楽しみだな〜。あ、ナナミを起こして来なきゃ。僕、先に行ってますね」
 くるくると表情を変え、駆け出して行く少年に苦笑交じりに頷いてから、ゼファはゆっくりと思い出の詰まった屋敷を振り仰いだ。
 ここを発つのは、これで三度目になる。一度目は追い立てられるままに。二度目は過去から逃げるように。
 だが、今回は違う。自分の意思で。未来へと向かう為に。
 宣する口許が、自然に緩やかな弧を描いた。
「―――行ってくる。グレミオ、テッド」
 応えるように、耳元を優しい風が吹き抜けた。



















幻水2の10周年記念アンソロジーに寄稿させて頂いた小説です。
定番すぎて今更感たっぷりな英雄イベントネタですが、坊&2主好きなら一度は書いておかないと!!
坊とナナミの組み合わせも好きなので書いてて楽しかったです。
ナナミと言えば坊の前で泣いてるようなシーンばっかり書いてる気がするけど気にしない(笑)








戻る?

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送