無形の軛












「あ………」
 崩れ落ちた遺跡の前に佇んでいた人影を認めて、トーマスは小さく声を上げた。
 煌びやかな神官将の装束を纏った彼に、この寂しい場所は酷く不似合いだった。だが同時に、これほど彼に相応しい場所も他にないような気がして、複雑な思いを噛み締めるように、トーマスは僅かに瞳を伏せた。
 ザクザクと砂礫を踏み分け近付けば、足音に気付いて彼は振り返った。やあ、と笑うその顔は、いつもの彼のものだった。人懐こそうな穏やかな笑顔。裏で何を考えているかわからない―――仲間たちがそう評していた顔だ。尤も、彼だって仲間であることに違いはないのだけれど。
 トーマスが手にした花束に目を留めて、先客である若き神官将は微かに目を細めた。
「ここにそういう意味で来てくれる人がいるとは思わなかったな。―――ありがとう…と、そう言うべきなのだろうね。私の立場なら」
「あなたも、そういうつもりで来たんじゃないんですか、ササライさん?」
 トーマスが訊くと、ササライは軽く肩を竦めた。
「どうだろうね…。自分に、彼のことを悼む気があるのかどうか、正直私にはよくわからない。彼が私に近しい間柄であったのは確かだが、現実には私はつい最近まで彼のことを殆ど知らなかった。傍にいた時間など皆無に等しい。彼が存在しようとするまいと、私にとって大した違いはない―――というのが本当のところだよ」
「じゃあ、どうしてあなたはここに来たんですか?」
「さあね」ササライは静かに俯いた。「ただ…何となく―――かな。それだけだよ。他意はない」
「そうですか…」
 問答を打ち切り、トーマスは小さく会釈をすると、跪いて抱えた花束を遺跡の入り口へと横たえた。瓦礫に閉ざされてしまったそこから、中へ入ることは叶わない。ほんの数日前までの喧騒が嘘のように、周囲は静まり返っていた。命あるものは、既にここには存在していないという証のように。まるで、この遺跡全体が彼の墓標となってしまったかのように。
 地面に蹲ったままの姿勢で、トーマスは瞳を閉じ、手を合わせて祈りを捧げる。名も知らぬ彼の為に。違う出会い方をしていれば、友人になれたかもしれぬ彼の為に。
 隣に佇む神官将が、小さく溜息を漏らしたのが気配でわかった。
「素性のわからない、しかも敵でしかなかった男を弔おうなんて、君は随分物好きというか…甘いんだね」
「彼を嫌う理由は、僕にはありませんから」
「理由ならあるだろう。彼は君たちの敵だ。このグラスランドを崩壊に導こうとした」
「何故彼がそうしようと思ったのかを、僕は知りません。いや、それだけじゃない。僕は彼という人を知らない。何も知らないんです。それなのに何故、一方的に敵だと決め付けなくてはならないんですか?」
 トーマスは立ち上がり、真っ直ぐに顔を上げてササライを見た。酷く純粋な、蔭りのない瞳で。
「降りかかる火の粉は払うのが当然だろう?ただそれだけの話だ」
「火の粉でしかないなんて、そんなこと言い切れないじゃないですか。現にササライさんとだって、こうして手を取り合うことが出来たのに」
「私が君たちに協力したのは今回の件に対する私個人の判断で、ハルモニアの総意ではない。ハルモニアが、そして私が、グラスランドの敵である事実は今でも変わらないんだよ。誤解しないで貰いたい」
「それでも……僕はササライさんのこと、仲間だって今でも思ってます。ただ憎んで、殺し合って、それで終わりなんてことにならなくて、本当に良かったって」
 そう、立場をいうなら、自分たちもけして相容れぬ関係だ。それでも今はこうして肩を並べている。それが喩え一時的なものであっても。理解し合える仲には到底及ばなかったとしても、だ。
 戦うことを否定するわけじゃない。でも戦いしかないなんて、そんなのは戦わない努力を怠った言い訳でしかないのではないか。
 ふっと溜息と共に微笑んで、ササライは視線を遺跡へと移した。今の自分たちの遣り取りを見たら、この下に眠る彼は果たして何と思うだろう。
「もう少し早く君と出会えていれば、彼もこのような馬鹿な行為には走らなかったのかもしれないな。私には君のような考えは出来そうにないし、実際、彼と対峙したときも、敵愾心を覚えこそすれ理解しようとは微塵も思わなかった。あのとき手を差し伸べていれば、彼は応えてくれたのだろうかなど、今考えても詮無い話だ」
「……後悔してるんですね」
 ぽつりと落ちた呟きに、ササライは訝しげに瞬いた。
「どうしてそう思う?」
「だって……さっきからずっと泣きそうな顔をしてますよ、ササライさん」
 言われて、ササライは少し驚いた。
 自分を兄と呼んだ彼の姿が、瓦礫の向こうに消えた瞬間からずっと感じていた、胸のうちが疼くような痛み。名も知らぬその感情はしかし紛れもなく自分のものなのだと、突き付けられたような気がしたので。
 痛みを堪えるように俯いた横顔を、さらりと流れた髪が覆い隠す。暫しの沈黙の後、ササライは自嘲を含んだ低い声で呟いた。
「実に滑稽だ…笑ってくれていい。私は今まで彼と言葉を交わすことはおろか、その存在を振り返ったことすら殆どない。なのに―――彼がこの世界のどこにも存在しなくなった今になって、まるで自らの半身を失ったかのような……そんな喪失感に捉われている。滑稽な錯覚だ。私は物心ついたときからひとりだったが、肉親の存在を欲したことも、自らの境遇を寂しいと思ったこともない。それなのに、血を分け合っていたかもしれぬ相手が死んだから悲しいのだと、そう思い込もうとしている。自分以外の存在を必要としなかった私に―――今更彼を肉親だと呼べる資格などある筈もないのに」
 手を。差し伸べてやることすらしなかったのに。
 今更後悔するなど、吐き気がするほど身勝手な話だ。
 この身体に流れる血が偽りだと知った今でも、人であることを諦めきれない自分の愚かさが、このような感情を呼び起こすのだろうか。
「でも、彼は呼んでましたよね。ササライさんのこと、兄さん…って」
 確信に満ちた声にはっとする。
「彼はササライさんのこと、殺さなかったんじゃなくて殺せなかったんだと思います。兄弟だから。血を分け合った、大切な家族だから」
「私と彼との関係を果たして兄弟と定義して良いものか、私にはわからない。我々の出自は、ひと言では言い表せないほどに複雑だ」
「でも彼は…兄弟だと、そう信じていたと思います。事実がどうかではなく、そう信じたかったんじゃないかなって…。それに、喩え共に過ごした時間が短くても、人が家族を想う気持ちに理屈は要りませんから」
 人が、と。当然のように言われた言葉に、ズキリと胸が痛んだ。
 ああ、私は。
 祈るように確かめるように。ササライは己が胸に手を当てた。
 ―――まだ、人間なのだと。
 この痛みに耐えることが出来るうちは、人間でいて良いのだと。
 彼を、弟と呼んでも良いのだと。そう思えた。
「手を―――差し伸べてやれば良かったな…」
 喩え、応えては貰えなかったとしても。
 瞳を伏せ、ササライはふっと口許を歪めて笑った。
「今更だな……もう、何を言っても届きはしないのに」
 虚しい後悔を、しかし隣に佇む少年は優しい手で迷いなく拾い上げる。
「上手く言えないけど…後悔してあげなくちゃいけないんだと、僕はそう思うんです。だって…ずっと否定されたままなんて、誰だって悲しいと思うから」
 そう言ってトーマスは、両手を胸の前で祈りの形に組み合わせた。
「話をしてみたかったです…彼と」
「死に急ぐな、馬鹿な真似は止せって、説得でもしたかったのかい?」
「僕はそんな偉い人間じゃありません。ただ…友達と交わすような、何でもない話を。どこに住んでたのとか、どんな食べ物が好きかとか、どんな歌を知っているのとか……そんなことを、当たり前のように、話してみたかったです。彼と」
「……ありがとう」
 気付けば、素直に言葉が零れていた。
 狂気の魔術師。この地に住むものたちが、恐怖と嫌悪を込めて彼をそう呼ぶのを、ササライも知っていた。だが、そうでないものもいる―――たったひとりでも、彼を彼として見ようとしてくれたものがいる。そう思うだけで、ほんの少し、心が軽くなったような気がした。
 手向けの花が風に、白い花弁を揺らしている。
「我々は明日の朝、ハルモニアへ発つ。……最後にここに来れて、良かったと思う」
「最後だなんて…。これからだって、幾らでも来ればいいじゃないですか」
「残念だが、それは無理だ」静かにかぶりを振ったその顔は、普段の作り物のような整った表情に戻っていた。
「ハルモニアは遺跡の発掘調査の為に、軍の派遣を決定した。もうじきここは、大勢の兵士と調査員とに埋め尽くされ、踏み荒らされることになる―――彼と共に瓦礫の下に消えた、真なる『風』を見つけ出す為に」
「そんな、どうして…!そっとしておいてあげられないんですか!?」
「『風』を取り戻すことはハルモニアの長年の悲願だった…。私にそれを阻めるだけの権限はない」
「でも…!軍隊の派遣なんて、ヒューゴ君やクリスさんが見過ごす筈が…」
「調査隊の指揮官はナッシュ・クロービスだ。クランやゼクセンを言い包める策ぐらい、あの男なら幾らでも思い付くだろうからな」
 張り詰めた顔で、トーマスはへの字に引き結んだ唇を震わせた。憂いに潤んだ大きな瞳がじっとこちらを見詰めてくる。ササライは黙って見返した。やがてトーマスは小さく吐息をつくと、静かに視線を逸らした。
「あれだけの人が死んだのに…傷付いたのに…。それでも、紋章に…力に固執する人がいるのは、何故なんでしょうね…」
「彼らを笑うことは出来ない。私とて同じだ」
 言い切る声の強さに、トーマスは弾かれたように顔を上げた。
「同じ…?」
「私が再びここを訪れることがあるとすれば、それはハルモニアがグラスランドへの再侵攻を決意したときだ。この地に『炎』と『水』が存在するとわかった今、両者の衝突は避けられない。戦端が開かれるのは、そう先の話ではないだろう。そして―――今更、ハルモニアの神官将としての生き方を変えることは私には出来ないし、変えるつもりもない」
「………」
「次に会うときは―――敵同士だ」
「止めることは出来ないんですか?」トーマスは必死に食い下がった。「戦わずに済む方法は、本当にないんですか?こうして話をすることが、僕たちには出来るのに!」
「ない。―――人が、紋章の軛から解放されぬ限りは」
 淡々と絶望を告げ、ササライは尚も何かを言いたそうなトーマスに背を向けた。別れの握手は求めなかった。手の温もりを知ったところで、どうすることも出来ないのだ。ならば最初から、知らぬままでいるほうがいい。
 立ち去る背中を押すように風が吹いてくる。少年が追いかけてくる気配はなかった。
 ―――君に会えて良かった。心からそう思っている。それは真実だ。でも。
 今更、進む道を変えられはしない。
 喩え、伸ばした手が彼に届いていたとしても、繋ぎ続けていることは出来ない。もし故国と彼の二者択一を迫られたならば、自分は迷うことなく彼の手を放すだろう。何度後悔しても、結論は変わらなかった。
 本当に……滑稽だ。
 不意に衝動が込み上げてきて、ササライは声を上げて笑った。敵わぬと知りつつ虚しく抗い続けた彼の愚かさと、抗うことすらしようとしない自分の愚かさを、笑った。
 私はこれからも右手に流されるまま生きるだろう。ただ。
「……紋章なんて無くなれば良い。そう考えたおまえの気持ちが、今なら少しはわかるような気がするよ」
 ルック、と唇だけでその名を呼ぶ。
 過ぎゆく風の中より、応えは返らなかった。



















ササライとトーマス。幻水3での贔屓キャラツートップ(笑)
ED後のササライは、自分の出自や立場に疑念を抱きつつも、
結局ハルモニアという名の籠から出る勇気のない臆病な鳥…といったイメージがあります。
そんな彼の転機となるような事がその後のハルモニアに起こるのかどうか、大いに気になるところです。
そしてトーマスですが……ヒューゴたち3人の主人公がお好きな方には大変申し訳ないのですが、
私は幻水3の主人公は最初から最後までトーマスであって欲しかったと思う人です。
互いに否定し合い、衝突を繰り返していたあの宿星たちの中に在って、
誰のことも否定せず、全てを素直に受け入れていた彼なら、
ルックをただ敵とみなして戦うのではなく、歩み寄る努力をしてくれたのでは…?そう思わずにいられないのです。








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