Long good-bye












 空を翔けた一閃に深く抉られ朱に染まった右腕に、最早感覚は残っていない。力なくだらりと垂れ下がったそれに、腱をやられたか――と冷静に、どこか他人事のように、トロイは考えた。剣は手の届く足元に転がっていたが、拾い上げても、まともに握ることすら出来ないだろう。
 傷口を無意識のうちに庇うように押さえながら、奇妙に静かな気持ちで、トロイは目の前に佇む少年を見詰めた。彼もまた、総身の至るところに傷を負い、肩で荒く息を繰り返している。だが、その足元は揺るぎなく、その瞳には未だ衰えることのない闘志の光があった。
 勝敗は決した。悔恨の念はなかった。ひとたび剣を抜けば、辿り着く結末はふたつにひとつ、勝者か敗者のどちらかでしかない。そして自分は敗者となった。相手が誰であろうと関係はない。ただそれだけのことに過ぎぬ。
「とどめを……刺すがいい」
 感慨もなく、事務的な口調で、トロイはそれだけを口にした。
 剣の切っ先を油断なく突きつけたまま、少年は暫し無言でトロイを見詰めていたが、突然くるりと手首を返すと、両の剣をふたつとも鞘に収めてしまった。
「……何の真似だ?」
 重く押し殺したような、怒りすら滲ませた声で、トロイは呟いた。
「あなたはもう戦えない。とどめを刺す必要性を、僕は感じない。それだけだ」
 静かな、だが凛とした声で、少年は答えた。その声にも、そう言えば先程の太刀筋にも、トロイは覚えがあるような気がした。そして闇を飲み込んで尚鮮やかな、ふたつの碧い海にも。
 靄が晴れるように脳裏に蘇ってきた記憶に、トロイは唇を歪めた。月明かりの中で剣を合わせた、名も知らぬ漂流者の少年。その容姿を、冷たい絶望を、トロイははっきりと思い出すことが出来た。彼を目の前にして、何故今まで忘れていられたのかが不思議なほどに、はっきりと。
「私を憐れんでいるのか?それとも、あの時見逃して貰った恩を、返すとでも言うつもりか?」
 更に明確な形を持って胸に湧き上がってきた怒りのままに、トロイは少年を睨み付けた。
「違う」
 背筋を伸ばし、少年は真っ直ぐにトロイを見返してきた。紡がれた声は大きくはなかったが、そこに込められた強い意志が、トロイの胸に直に響いた。
「あなたも戦士なら、自分の命の裁定を、自分以外の存在に委ねるな。死にたいのなら…海に還りたいのなら、ひとりで勝手に還ればいい。終焉の理由を、僕に求めるな。僕はあなたに勝つ為にここに来たのであって、あなたを裁きに来た訳じゃない」
 言葉もなく、トロイは驚きにただ瞳を見開いた。
「僕がこうして生きているのは、あなたに見逃されたからでも、まして海に裁量を委ねた結果でもない。生きたいと思ったから、歯を食い縛ってでも生き延びた。自分の足で、ここまで歩いて来た。他の誰でもない、僕自身の意志で」
 戦の炎を孕んで吹きすさぶ風に、栗色の髪を靡かせながら、少年はきっぱりと言い放った。
「あなたが僕を見逃したのは、絶望に打ちひしがれた僕を憐れんだからか?軽く見るな。真に終焉を望むなら、僕は幕ぐらい自分の手で引く。あなたの助けを借りた覚えはない。僕は胸を張って、僕の望む道を生きる」
 不遜な発言だと、そう言えるかもしれない。
 あの夜を覚えていて、それでも頭を下げぬ少年を、恩知らずと罵る権利さえ、もしかしたらトロイにはあったかもしれない。
 だが、そんな気にはなれなかった。
 代わりにどこか温かな…安堵にも似た思いが、胸のうちに静かに滲み渡ってゆくのを、トロイは感じた。
 今この場に、この瞬間に、そう言い切ることの出来る強さ。選び取る意志。剣の腕ではない、それこそが、彼と自分の命運を決定的に隔てたのであろう。
 祖国を思う心に偽りはなかったが、それでも自分の辿った足跡を振り返ってみれば、どこか流されたままにここまで来てしまった感は否めなかった。大海を翔ける翼は自分の意志で得たものでも、そこに描いた軌跡は必ずしもそうではなかった。仲間の為、そして自分自身の為に、迷いなく剣を振るうことの出来る少年との決着など、思えば最初から決まっていたようなものだったのかもしれない。
「………そうだな」トロイの薄い唇に、この場に似つかわしくない、穏やかな微笑みが浮かんだ。「おまえの言うとおりだ。私の進むべき道は、私自身が選ぶとしよう。おまえも…行くがいい。いずれまた…この海で会おう」
 押さえた傷口から、それでも堰き止め切れずに溢れた血が、腕を伝い、足元に赤黒い染みを作った。
 致命傷ではない。だが恐らくはもう、二度と剣を取ることは叶わぬだろう我が身に、未練はなかった。生きながらえるのであれば、剣士以外の道など、トロイには考えられない。彼に諭されたとて、還る、という選択肢自体に変わりがある訳ではない。
 けれど…敗戦の将として消えるのだという気持ちは、もうそこにはなかった。
 ひとりの男として。海に生きたひとつの命として。
 自らが望み、選んだ道として。最期の瞬間まで顔を上げて。私とは逆の道を選んだ、私の最後の相手であったおまえに、恥じぬように。
 行け――と、もう一度。声ではなく視線で促すと、少年は力強く頷いた。躊躇う素振りを微塵も見せることなく、踵を返し、駆け去っていく後姿を見遣って、トロイは何故、彼があの時の少年だとすぐに思い至らなかったのか、その理由がわかったような気がした。
 目が違った。瞳に宿る、魂の輝きが違っていた。
 あの夜の彼の瞳は、絶望に捉われた凪の色をしていた。死に場所を探す目だと、トロイ自身もそう感じた。だが、今の彼の瞳には、未来を生きる決意が溢れている。凪を押し流す風。しかし嵐のような、全てを薙ぎ払う激しい風ではない。例えるならばそれは、春の訪れを告げる南風のような。
 別れてから今までの間に、彼の身に何があったのか、自分に知る術はない。だが、離れていく流刑船を見送ったときに、僅かながらにでも抱いた祈りが聞き届けられたのかもしれぬと、そう考えることは不快ではなかった。
 人の意志は、ときに運命さえも動かす。遠い過去に、聞いたことのあるような―――そんな言葉がふと、脳裏を過ぎった。
 鮮やかに駆けて行く背中に名を問おうとして、だが結局は思いとどまり、トロイは開きかけた口を閉ざした。未来へ向かって、力の限り―――命の限り、ひたすらに突き進んで行くその背中を、喩えほんの一瞬でも振り返らせるのは、惜しい気がして。
「いずれまた、この海で会おう」
 もう一度。それだけを口にした。
 傾ぎ、沈んでゆく船に自分を残して、少年はオベル艦へと飛び移った。仲間の待つ艦、生の領域たるその場所へ足を踏み込むまで、彼は一度もこちらを振り向かなかった。それでいい、とトロイは思った。
 私は還る。おまえは行くがいい。未来へ。
 崩壊していく船の、断末魔の鳴動を全身に感じながら、トロイは薄らと微笑んだ。
 海が近付いてくる。終焉、そして原初の地。その大いなる一部に、私は還る。




 いずれ、また。
 そして願わくば、その時はどうか。
 敵ではなく、互いに友として―――そう在れたらいい。




 世界との決別の刹那に抱いた、らしくもない思い付きめいた願いは――しかし思いがけず温かかった。



















エルイールでのトロイとの再会話、漸く書けました。
クールークという国が一枚岩とはほど遠いのは、対立する群島の目から見ても明らかで、
そんな中にあって、孤立無援の状態で、それでも最後まで艦隊指揮官として、そしてひとりの剣士として誇り高く在ろうとしたトロイ。
同様に軍を指揮する立場の4主にとって、その存在はある意味憧れの対象にもなりえたんじゃないかなぁと。
でも、その立場ゆえにトロイには、クールークが最終的に行き着く先も見えてしまっていて、
だから敗北を喫したときに、ああもあっさり生き残る道を放棄してしまったのかなぁ…と。
4主は流れを受け入れた上で動かしてきた人なので、ただ受け入れようとしかしなかったトロイの姿は、
潔いと認めながらも、腹立たしくて仕方なかったのではないかと。もし憧れてたのなら余計にね。
…とまあ、何だかんだで全てはタダの妄想なのですが(笑)旨く表現出来てるかどうかはまた別の話。








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