ソラノツヅキ
僅かに開いた窓から忍び込んだ風に紛れて、ふと耳朶を掠めた音が、書物の中を漂っていた意識を現実に引き戻した。頁を繰る手を止め、耳を澄まして拾い上げたそれは、蝉の声。賑やかしくも儚い、夏の音色。 トランよりも北方に位置するこのノースウィンドゥでも、夏の大気を震わせるお馴染みの歌声は祖国のそれと変わらない。セピア色に錆付いた景色に、唐突に色が戻ってきたような感触を覚え、ゼファは読みかけの書物を置いて、窓の外の景色に目を凝らした。木枠に切り取られた梢を透かして、白く目映い陽射しが零れてくる。その向こうには、真っ青な空。 こんな色の空を、知っていると思った。 今も尚、己が胸の中に息衝く、最も鮮やかな記憶たち。 陽光をいっぱいに浴びて笑う彼の横顔。はしゃいだ歓声。 河の色と風の匂いと、耳を覆いたくなるほどの蝉の声。 そして身体いっぱいに世界を感じていたあの頃の幸福感と、容赦なく過ぎ行く刻の残酷さを思い出す。 笑い声は、もう聞こえない。 君を失ってから―――四度目の夏。 三年。あの戦いが終結してから、既にそれだけの時間が流れている。そう、頭では理解していた。 その間に三度、確かに過ぎたはずの夏に。しかし蝉の声を聞いた覚えのない自分に、ゼファは気が付いた。 否、聞いていないはずはないのだ。旅に暮らした時期は長かったが、夏の訪れがさやかではない北方にまで、足を伸ばした経験はなかった。 (聞こうともしていなかった……そういうことだろうな) 随分長い間……世界に音があることさえ、忘れていたような気がする。 光も音もない、絶望という名の闇の中で、じっと蹲っていた時間……それは地上に出る瞬間を息を潜めて待つ蝉に似ていると、ふとそんなことを考える。 (まだ、おまえのように) 光溢れる地上への出口を、見付けられたわけではないけれど。 それでも…。 (ただ五月蝿いだけじゃないって、言えるようにはなったと思う) まるで自らが夏そのものだと主張するかのような、けたたましい鳴き声。耳障りだ、暑さが助長されるとぼやくゼファを、親友は苦笑混じりに嗜めたものだった。 「おまえなぁ…そんなあからさまに嫌な顔すんなよ。蝉に失礼だろうが」 「別に、蝉に礼を尽くさなきゃならない理由なんてないぞ」 「連中にとっちゃ、たった一度きりの夏じゃねぇか。少しくらい大目に見てやろうって気にはなんねーのかねぇ。昨今の若者は心が狭ぇなぁ」 「年寄りみたいなこと言うなおまえ」 「おうおう、年長者は敬い給え」 「半年しか違わないじゃないか(彼からはそう聞かされていた)」 大人の余裕、とばかりににかっと笑う彼の顔を真っ直ぐ見るのは少し悔しくて、拗ねた眼差しを夏空に放り投げ、ゼファは暑さに纏まらない思考の赴くままに言葉を紡いだ。 「毎年毎年、夏が来れば当たり前のように蝉って鳴いてるけど…でも、来年鳴く蝉の中に、今年鳴いてる蝉はいないんだよな」 「………まあ、そうだな」 返答の前には一瞬の空白があったが、不自然と言えるほどのものではなかった為、ゼファは気に留めることもなく先を続けた。 「暗い土の中で何年も何年も過ごして、やっと外に出られても、たった一週間かそこらで死んでしまうんだろ、蝉って。気の遠くなるような長い歳月を費やしても、羽ばたける時間はごく僅かなのに。一度地上に出てしまえば、あとは死を待つばかりだ……それでも地上を目指すのは…飛ぼうとするのは、どうしてなんだろう」 まるで、その一瞬の為だけに、生きているとでもいうように。 ……虚しくは、ならないのだろうか。 全てを引き替えにしても、ほんのひと時しか、自由を得ることは許されないというのに。 そんな生に意味があるのだろうかと考えてしまうのは、人の身勝手な価値観でしかないのだと、自覚してはいるけれど。 「……死ぬ為に生きてるみたいだなんて、言ってくれるなよ」 考えていることを見透かしたかのような親友の声に、ドキリとした。 「たった一週間の命、だからこそアイツらは、与えられた時間を一瞬たりとも無駄にしない。力の限り飛んで、伴侶を見付けて、次に命を繋いで―――最後の最後まで、自分はここにいるぞって叫んでさ。どんなに短い命でも、アイツらはきっと満足してるよ」 「そうかな…」 「少なくとも、暑い暑いって毎日だらけてる誰かさんよりは、よっぽど有意義な毎日を送ってると思うぜ」 「悪かったな…暑いのは苦手なんだよ…」 揶揄混じりのその笑みの影にひっそりと隠された物思いに、当然その時は気付けるはずもなく。ただ、優しい奴なんだな…と、そんな風に思っていたのだけれど。 今ならわかる。親友はあの、儚くも真っ直ぐな生き物たちに、彼自身の境遇を重ねていたのだと。 一年と少し。自分が彼と過ごした時間は、彼に与えられていた刻、その永の彷徨を思えば、瞬きするほどの刹那でしかない。 そしてまた――自分との出会いこそが、彼の命運を尽きさせたことは、疑いようもない事実だ。 けれど彼は。 (最期の瞬間まで、笑っていてくれた) おまえに会えて幸せだったと、そう、言ってくれた。 闇に怯え、迫り来る足音に怯え、息を潜めながら永らえてきた三百年は、けれどけして無駄ではなかったのだと。 意思や願望などというものを置き去りにして、紋章の器としてこの世界に存在し続けた彼は、それでも確かに最期の瞬間、その死ではなく生に満足していたのだろう。 そんな風に、全てを懸けて―――振り向きもせずに、最後の最後まで駆け抜けるように生きた彼が、今は少し、羨ましいと思う。 絶望という闇の中に突き落とされ、出口の見付からない迷宮を彷徨い続け――どう足掻けば良いのかすらわからぬままに流れて行った三年。その年月が長いのか短いのかは、ゼファにはわからない。ただわかるのは、その間に幾つかの出会いがあって、思い出と優しい手に背中を押して貰って…そして漸く少しは、笑えるようになったということだ。 (やっと、光の差してくる方向が、わかったって程度だけどな) 地上に続く道は、まだ遠い。だが、その行程が無駄ではないと言い切ることが、今の自分には出来る。 もう地の底は見てきた。あとは、這い上がるだけだ。 光に向かって進むといい―――海の瞳を持つ青年の、そう言った穏やかな声を思い出す。 (あなたに言われなくても) どんなに遠くても。その先に待ち受けているものが何であっても。 必ず辿り着いてみせると。夏を謳歌する命の歌声を聴きながら、迷いなく、そう思った。 そして。この闇を抜けた後も。 (そう…地上に出るのは、終焉を掴む為じゃない) 懐かしい色の、真新しい空に、届けとばかりに大きく手を伸ばす。 そして…いつか。いつかきっと。 親友が飛べなかった空の続きを、代わりに飛んでやろうと。鮮やかに色付いた夏の景色の中で、そう思った。 |
ブログでだかだか書いていたものですが、思ってたより長めになったので、こちらに置いてみました。
坊とテッドの親友コンビは、私の中で永遠の聖域ですv
戻る?
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||