最果ての夢












 一歩ごとに重くなる足を、引き摺るようにして、ナナミは歩き続けた。
 立ち込める霧も険しい岩場も、普段の彼女であれば何の障害にもならなかったであろう。寧ろ探検にでも行くような気持ちで、弟たちと先を争うようにして、ウキウキと駆け上がって行ったに違いない。だが、最愛の弟もその親友も、今はここにはいない。故郷へと続く道だというのに、胸には暗く重い雲が蟠っている。
 都市同盟とハイランドの国境に位置する燕北の峠。キャロを出奔したときに、ここを逃げるように(実際逃げていたわけだが…)駆け抜けたことを思い出す。実際はあれから一年足らずしか経っていないというのに、もう遙か昔の出来事のような気がしていた。
 あの頃とは、何もかもが変わりすぎてしまった。そうして今、自分だけ、あの時の道をあの時とは逆の方角へと進んでいる。帰ってきてしまったのだ。ひとりだけで。もう昔には戻れない。
 ともすれば零れそうになる涙を懸命に堪えて、ナナミは同行者の背中を目で追った。
 少し前を行く彼は、先程から一度もこちらを振り返らない。けれど、霧の中にあっても、ナナミがその姿を見失ってしまうことのないように、歩調を合わせてくれているのはわかっていた。ひとりなら、彼はもっとずっと早くに―――それこそ、自分など追いつくことすら叶わぬくらいのペースで、この峠を越えてしまえるに違いないのだ。
 彼がキャロへと戻る自分の護衛に選ばれた理由を、ナナミは正しく理解していた。自分の生死は軍師と医師を除いた軍の誰にも明かすつもりはなかったから、同盟軍であって同盟軍でない彼を、シュウが指名したのは当然といえるだろう。
 ナナミは彼を好いていた。だから、彼がこうして着いて来てくれることを嬉しく思う反面、罪悪感が募った。戦いが重要な局面を迎えたこの時期に、何よりも助けを必要としているはずの弟の―――リオの元から彼を、こうして遠ざけてしまっているのだから。
 彼は普段から口数が少なく、表情も豊かではなかったが、優しかった。どこか近付き難い雰囲気がある、と言う仲間もいたが、どんな些細な、取り留めのない話でも、彼はいつも最後まで穏やかに受け入れてくれたから、嫌いになれるはずもなかった。弟も彼のことを慕っているのを知っていたから、よく軍師の目を盗んで軍務中のリオを連れ出しては、二人で彼の元に押しかけたものだった。


 ―――ねえねえ、知ってたリオ!?ゼファさんてね、八重歯があるのよ。笑ったときにちょっとだけ見えたの!
 ―――え、そうなの?ナナミってばいつの間に、ゼファさんとそんなに親しくなったんだよ〜?僕、あの人の笑った顔なんて、あんまり見たことないよ。何だか悔しいなぁ。


 ……そんな他愛もない会話を、弟と交わしたことを覚えている。
 だが今、その無言の背中には、拒んでいるような気配があった。近付き難い、と言っていた仲間の言葉を、ナナミは痛切に感じていた。やはり、こんな任務を押し付けてしまったことを怒っているのだろうか。長い長い逡巡を繰り返した後、ナナミは思い切って、彼の背中に呼びかけた。
「あの………ゼファさん」
 聞き逃されてしまうのでは、と心配するほどの小さな声しか出なかったが、それでもゼファは足を止め、僅かにこちらを振り返った。長い前髪の下から透ける瞳は、やはり笑ってはいない。
「―――どうした?」
「…怒ってるんですか、私のこと?」
「別に。怒ってなんかいない」
「でも……!!」途切れた沈黙に安堵したのか、抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出てくるのを、ナナミは止めることが出来なかった。
「だって、さっきからゼファさん、私の目を見ようとしないじゃないですか…!」
 疑念の言葉をぶつけても、目の前の彼は揺るがない。その態度がいっそ冷ややかに見えて、ナナミの不安は益々膨れ上がる。
「わかってます。これからハイランドへの侵攻を始めようって大事なときに、私なんかに付き合わせて、こんな所にまで来て貰っちゃって…。リオが今、誰よりもゼファさんの支えを必要としてるって、わかってるのに…ごめんなさい」
「―――そうじゃない」
 微かな苛立ちを含んだ声が、霧の中に零れた。
「彼が必要とする支えは、俺じゃない―――君だろう」
「―――え?」
「何故、これからという大事なときに、助かったことを隠してまで、リオの傍から離れようとするんだ。彼が何を望み、誰を守る為に戦ってきたのか、君は一番よく知っているはずだろう。その君が、こうして彼の元を去っていこうとする。仕方のないことだと、自分の心を殺してまで。その選択に納得がいかないだけだ」
「それは………」
「あなたも……!」不意にゼファは、俯いていた顔を上げると、霧の向こうに向けて鋭い声を張り上げた。「聞いているのなら、いい加減に出てきたらどうですか。気配を消してもいないのだから、隠れるつもりはないんでしょう?これ以上、俺をイライラさせないで下さい」
 驚いて言葉を途切れさせたナナミの耳に、やがて、ざくざくと砂礫を踏む足音が響いてきた。間をおかず、霧の中から、旅装束を纏った青年が姿を現す。
 青年―――とは言っても、外見だけならリオやナナミとそう歳が離れているようには見えない、少年といっても充分通用する年頃の若者である。だが、その落ち着いた物腰と大人びた仕草、そして何より、穏やかながらも全てを見透かすような碧い瞳は、自分にはけして超えることの出来ない深い時の流れを想起させて、ナナミは微かに身震いした。その果てのなさに何となく覚えがあるような気がして、思考を巡らせれば、思い当たったのは月の化身たる吸血鬼の少女だった。外見に似ているところなど、何ひとつないというのに。
「―――気持ちはわかるけど…彼女を責めるのは感心しないな」
 静かな口調で、嗜めるように青年は言った。僅かに傾げられた首の動きに合わせて、癖のない栗色の髪がサラリと揺れる。
「守りたい―――だからこそ、負担になりたくない。そう思うから身を退いたのだろう。そして、その決断は恐らく正しい」
「だからって…!」
 ゼファが感情をむき出しにする様を、その叩きつけるような激昂を――ナナミは初めて目の当たりにした。身体の震えが止まらない。
「何故、生きてることまで隠さなければならない!?彼女は自分を庇って死んだ、自分が殺したようなものだと、そんな罪悪感を彼に植え付けてまで…!重荷になりたくないというのなら、戦場に出なければいいだけの話でしょう!城に留まって、彼の帰りを待てばいい。帰る場所と待っていてくれる人の存在が、戦場に身を置くものにとって、どれだけ大きな支えとなるか、あなたにだってわかるでしょう!?」
「あの場所に留まれば―――」一瞬、労りとも同情ともつかぬ視線をナナミへと走らせてから、青年は言った。「戦況の報告を耳にする度、彼女は自分を押さえられなくなっていただろう。待つことしか出来ない我が身を嫌悪し、いつかは戦場へと舞い戻ることになるだろう。そして、一度彼女を失う憂き目を見た彼は、これまで以上に彼女を庇うことに心を傾けずにはいられなくなる。生命を賭す覚悟があるなら、守りたいという感情こそが、新たな悲劇を生む。彼か彼女の―――どちらかが戦場に倒れる日が、必ず訪れる」
 ギリ、と唇を噛み締め、ゼファは黒曜の瞳で青年をひたと見据えた。
「わかっています。わかっていても……それでも俺は納得がいかないんです。失いたいと願っている人なんて、誰もいやしない。守りたいものを守れない戦いに、何の意味がある?生かしたいのなら…生きていて欲しいと願っているのなら、最後まで共に生き抜くべきだ!置いて逝かれたものが、どれほど苦しいか…少しでもその痛みをわかっているのなら、そんなの、絶対に出来る決断じゃないっ……!!」
「ご…めんなさ………ごめ…ん…なさいっ………」
 涙の気配に、ゼファははっと我に返る。小さな肩を震わせ、両手で顔を覆って、絞り出すような声で、ナナミは泣いていた。
「私が悪いの…戦ってるあの子を…もう見たくなかったの……。リオとジョウイが殺し合いをしている姿を…傷つくところを……戦場に倒れる瞬間を……見たくなかったの。知りたくなかったの―――だから逃げた…逃げずにいられなかったの…!ごめんなさい…ごめんっ…なさい……!」
 小さく溜息を吐き、碧い瞳の青年はそっとナナミの肩を抱き、もう片方の手であやすように宥めるように、背を優しく擦った。「泣かなくていい。戦うより、逃げるほうが辛いときだってある。君が悪いわけじゃない」
 青年の手の温もりが、心の中に大切に仕舞ってきた優しい思い出を次々に呼び覚ました。良く晴れた空、暖かな木洩れ日。隙間風の入ってくる道場の一室で、弟と幼馴染みと三人で、肩を寄せ合うようにして眠った夜。顔を顰めながらも、ナナミの作った料理を残さず食べてくれたジョウイ。ミューズで、彼の帰りをリオと共にずっと待ち続けたことと、黄昏の中にその姿を見つけたときの嬉しさ。軍主の重責を負わされながら、いつも明るく笑っていたリオ。「ナナミがいてくれるから、僕は頑張れるんだよ―――」太陽のような笑顔の中で、煌いていた榛色の瞳。
 別れの切なさに、残してきた罪悪感に、もう二度と会えないかもしれない不安に、ナナミは泣いた。涙が溢れて止まらなかった。
 嗚咽する少女から気まずそうに瞳を逸らし、ゼファはふたりに背を向け、元来た方角へと向き直った。
「――――カルマ。ナナミのこと、頼めますか?」
 海を宿した青年の眼差しが、じっと注がれるのを背中越しに感じながらも、ゼファは振り向かなかった。
「戻るんだね。彼のところに」
「ええ」
 青年は仕方がないなといったように微笑むと、ナナミの頭をそっと撫でた。「わかった。彼女は僕が送っていく。キャロでいいんだよね?」
「すみません………お願いします」
 制御出来なかった感情をぶつけてしまった自分への嫌悪感に、僅かばかり沈んだ声で、ゼファは応えた。背後の青年はきっと、穏やかに頷いただろう。振り返らずともわかった。
「ナナミ」背を向けたまま、尚も泣き続ける少女に、ゼファは静かに呼び掛けた。「責めるような真似をしてすまなかった。だけど、今言ったことは紛れもなく、俺の本心だ。これだけは、どうか覚えておいてほしい」
 腕の中の少女が、声もなく頷くのを見届けてから、青年は、身じろぎもせずに立ち尽くす背中に言った。
「気をつけて」
 返事の代わりに片手を上げて、ゼファは歩き始めた。目指す先はノースウィンドゥ。デュナン湖の畔、彼の少年の待つ地だ。
 ふと、背後から追い縋るような声が掛かった。
「ゼファさん!」
 振り返れば、赤く泣き腫らした目をしたナナミが、必死な表情でこちらを見詰めていた。
「ゼファさんの言ったこと、私、忘れません!もし……もし、もう一度、あの子と会えたら……きっと、今度こそっ……!」
 懸命に訴えかけてくる少女に、大丈夫だと僅かに微笑みかけ、ゼファは霧深い峠を後にした。






 遠き日々。最果ての夢。
 届かないと知っていて尚、振り返らずにはいられない面影。
 悲哀と絶望に満ちた無彩色の世界。俺を置き去りにして、流れていく無慈悲な刻。
 けれど、それでも。
 生きてさえいれば、いつか得られる夢もあると。
 そう―――願わずにいられない、自分がいる。






 テッド、俺はけして生きることを諦めない。
 俺はおまえのようにはならない。守る為に命を賭したりしない。誰も置いて逝きはしない。
 世界の全てが、塵となって朽ち果てるその瞬間まで。
 ―――俺は俺のまま、この世界に立ち続けてみせる。















久し振りに坊&4主。妄想炸裂(笑)のデュナン統一戦争編更新。
いいのvゲームで描かれてないことを(自分に)都合よく補完するのが同人屋の務めだから(笑)
ナナミは幻水2で一番好きな女の子キャラです。いつかは花丸笑顔の元気な彼女も書いてみたいなぁ…。




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