コール・ニドレイ












 衛兵ふたりに脇を支えられた彼は、立っているのもやっとといった状態だった。擦り切れた衣服の下の身体は痩せさらばえて、酷く衰弱しているのが一目でわかる。陽に晒され続けた肌は、痛ましいほどに赤く腫れ上がり、淡い金の髪はすっかり艶を失い、あちこち縺れ、絡まっていた。半ば幽鬼めいた、悲愴この上もないありさまで、彼は再び、カルマの前にその姿を現した。
 ―――罪人に裁きを。
 甲板の全ての視線が、固唾を飲んで見守る中、軍主はゆっくりと、だが確かな足取りで彼の傍に歩み寄った。
 生気を失い、虚ろに漂っていた青灰色の視線が、近付いてくる影に漸く焦点を結ぶ。ずっと敵対し続けていた相手の姿を認めたにも関わらず、そこに敵意や憎悪の色はなかった。訪れる死を静かに待っているかのような、諦めの凪のみが静かに広がっていた。
「―――何も…言い訳はしないよ。好きにするといい」
 それだけ呟き、青年は覚悟を決めたかのように瞳を閉じた。まるで、自身の上に振り下ろされるであろう裁きの刃を、確信しているかのように。
 カルマは首を左右に振ると、彼の痩せた肩の上に、そっと両手を置いた。青年の身体が緊張に強張るのがわかる。俯き、後悔と犯した罪の重さに震える彼は、だが次の瞬間信じられない言葉をその耳に聞いた。
「………帰って来てくれて…良かった……」
 驚きに見開かれた青灰色の眼差しは、今にも泣き出しそうな顔で、こちらを見詰めるふたつの碧い海を見た。
「また会えて……良かった―――」
 しなやかな力が、痩せた身体をしっかりと抱き締める。もう二度と離すまいとするかのように。
 ―――答えは、最初から決まっていた。
 許しを受け入れた青年は、カルマの腕の中で、安心したかのように意識を失った。




「ですから、その理由を聞いているのです。何故、彼を許したのかを」
 青年の運び込まれた医務室へと向かう途中のカルマを、シグルドは追いかけて呼び止めた。彼は大切な人だからだ、と事もなげに言って再び歩き始めた軍主に並んで歩を進めながら、シグルドは尚も、納得出来ないといったように言い募った。
「彼は幾度も我が軍と敵対を繰り返しています。この船にも、彼の為に損害を受けた人々が大勢乗っています。あなた自身、他でもない彼に裏切られ、貶められている。海で生きるものにとって、裏切りは何よりも重罪です。いつまた、同じことを繰り返すとも限らない。彼は危険です。即刻処刑して、海へと堕としたほうが良い。軍の為にも、あなたがこれ以上傷つかない為にも、そうするべきだと、俺は思います」
「シグルド」
 カルマは足を止め、穏やかな笑顔で、少し高い位置にあるシグルドの顔を振り仰いだ。
「僕が誰だか、知ってる?」
「―――え?」
 唐突な質問の意味が飲み込めず、シグルドは困惑のうちに目を瞬いた。固まったままの青年に小さく笑いかけてから、カルマは人差し指で自分の顔を指差し、言った。
「騎士団長殺しの罪で、ラズリルを追放された大罪人」
「……っ!…それは冤罪だと…!」
「そうかな?」お道化た仕草でひょいと肩を竦め、カルマはまた歩き出した。「確かに、世間一般の認識では、そういうことになってるね。けれど、僕の左手にあるものが、団長の命を奪ったのは事実だ。もしあの時、団長の命令を無視して、館に入ったりしなければ、次の器を見つけられなかった紋章は、現在確保している器を失わない為に、団長の命を多少なりとも永らえさせたかもしれない。ならば、団長の死に、僕が全く関わっていなかったと、言い切ることは出来ない」
「……………」
「それにね、こういう見方も出来る。この紋章を受け継ぐことになったそもそもの切っ掛けは、六本マストの海賊と交戦したことだった。ならば、もしあの時スノウの命令を受け入れ、商船を見捨てて逃げていれば、団長がこれを継承することもなかったのかもしれない。だとしたら、その選択肢を選ばなかった僕は、艦長だったスノウに逆らったばかりか、ラズリルに不幸と混乱を齎した凶星ということになる―――二重の裏切りだよ」
「……全て仮定の話です。そんなものに意味はありません。現に今ここにある結果は、あなたが言ったものとは全く異なっている」
「そう、確かに仮定だよ」行く手を真っ直ぐに見据え、揺らぎない口調で、カルマは言った。「確かに、導き出された結果はひとつだけかもしれない。でもね、それなら仮定がどうして現実にならなかったのか、どうして別の結果を修めることが出来なかったのか、それを考えることも大切なんじゃないのかな。後悔する為ではなく、同じ過ちを繰り返さない為にね――。結果は所詮、物事の表層に過ぎない。海面だけを見て、深海に隠された真珠を探し当てることは出来ないだろう?同じことだよ。ひとつの結果に辿り着くまでに、一体どれだけの選択肢があり、思惑があり、偶然があることだろう。一見正しいと思える結果の影にさえ、実は幾つもの過ちが存在しているのかもしれない。間違えたこと、結果が全てだと、僕は思わない。何故間違えたのか、何故やり直せなかったのか、何故違うとわかっている選択肢を選ばざるを得なかったのか―――その意味を知ることこそが重要だとは言えないだろうか。確かに、過去の罪を消すことは不可能だ。けれど、誤ったからこそ得たものだってあるはずだ。彼が間違っていなかったとは言わない。けれど、彼がその結果を導き出すまでの過程の中に、彼なりの誠意と葛藤がなかったと、どうして言い切れるだろう。結果だけに捕らわれて、全てを判断するような真似を、僕は断じてしたくはない」
 そこまで言ってカルマはふっと、海の瞳でシグルドを貫いた。
「あなたも本当は、わかってるんじゃないのかな…?」
 透明な眼差しに、心の隙間を見透かされたような心持ちがして、シグルドは思わず息を呑んだ。
 忌まわしき過去の像が、脳裏にありありと蘇る。ミドルポートの私掠艦隊、その中でどれほどの罪を重ねたのかは、自分が一番よく知っている。誤った道と知りながら、当時の自分は非道と謀略に満ちた世界を、平然とした顔で歩き続けていた。あの頃のことを思い出すたびに、今も胸に苦い思いが込み上げてくる。
 だが―――あの過去を経ていなければ、今の自分はなかっただろう。気の良い相棒にも、恩人である女海賊にも、けして出会うことはなかっただろう。今、彼らと共にある自分を、シグルドは誇りに思っている。ならば、これまで自分が選んできた選択肢のたったひとつさえも、無駄であったということは出来ない。
「ですが……」今だ納得しきれない思いに、シグルドは再び口を開いた。「ここは軍であり、守るべき軍規が存在します。裏切り者は死刑―――そう決まっている。軍主であるあなたが、それを違えるつもりですか」
 カルマは僅かに俯き、自嘲めいた笑みを浮かべた。「軍主としてじゃない。これは僕個人としての望みであり、決断だ。我侭でしかないってことは、充分承知している。軍主としての僕に期待してこの船に集ってくれた人たちを、裏切る選択肢だということも理解している。だから―――その贖いの為に、僕は軍主として、最大の結果を修めることを彼らに約束する。つまり―――この戦における、我が軍の勝利を」
 凛と言い切る横顔の眩しさに、彼の抱える覚悟の深さを悟って、シグルドは小さく嘆息した。
「………喩え命に代えても――なんて、お約束すぎる台詞を、その後に続けるのはなしですよ」
 カルマは一瞬、瞳を大きく見開き、困ったような微笑みを浮かべ、頬を掻いた。図星か、とシグルドは苦笑する。
 一点の曇りすらない眼差し。穏やかな決意を讃えた凪。
 ―――一体何が、彼にここまで言わせるのだろう。
「もう一度、最初の質問に戻ります。ですが、今度は軍の一員としてではなく、俺個人として質問させて下さい。あなたはどうして、自分を裏切った彼を許した……いえ、許せたのですか?」
「さっきも言ったよ」微笑みの気配が、空気を淡く揺らした。「彼は僕にとって掛け替えのない人で、そして僕は彼が好きだから。大切な家族で、親友だ。この世でただひとりの、大切な―――スノウだ。それ以外の理由なんてない」
 気負いもなく、だがきっぱりとした口調で言い切ると、カルマは上目遣いにシグルドを見上げた。「ハーヴェイと和解したとき、あなたは何か理由を必要とした?」
 思わず絶句するシグルドに向けて、してやったりの笑みを浮かべると、カルマは医務室の扉に手を掛けた。
「心配してくれてありがとう。僕は大丈夫だから」
 小さく一礼して、軍主は扉の向こうに消える。消毒薬のつんとした匂いが、周囲に微かに立ち込めた。
 残された言葉を反芻して、シグルドは苦笑する。
 心配、というよりも、興味を覚えての質問だったと、シグルドは自覚している。これが彼の言う「個人の問題」ならば、自分に立ち入る資格などないことも承知している。だが、それを咎めることもなく、心配という解釈で捉える事の出来る彼に、密かに感心した。それとも、気付いていながら、こちらが余計な罪悪感を背負わぬよう、敢えてあのような物言いをしたのであろうか。
「全く……敵わないな」
 ―――あんな少年に、誰かを憎み続けることなど、出来はしない。
 裁くのでも、否定するのでもなく、ただ全てを、ありのままに受け止めて。
 それはまるで―――海そのもののように。
 (彼なら、やり遂げるかもしれないな)
 信ずる道を違えずとも。憎しみに刃を持って応じずとも。
 曇りなき瞳のままに、未来を勝ち取ってみせるかもしれない。
「俺に信じさせたんですから、証明してみせて下さいよ――」
 何とはなしに温かな心持ちで、踵を返しかけたシグルドは、ふと、彼がその身に負ったものの名に思い至って、端正な口許を微かに綻ばせた。
 
 


 贖いと許し。
 業が背負うにこれほど相応しいものも、他にあるまい。















償いと許しについての話。
うちの4主はどこまでいってもこういう奴のようです(苦笑)
「SINCERE」と似たような展開になってしまったのがちと悔やまれます…。




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