遠き呼び声












 足元を波と砂がさらさらと流れていく。ブーツもゲートルも脱ぎ捨てて、素足で浸したそこはやはり心地が良かった。理屈でなく肌に馴染む感触は、どれだけ時が流れようとも、けして忘れるまい、と思う。
 海に立ち、波のさざめきに身を委ねると、揺れる足元を介して自分が世界と繋がっているのを感じる。穏やかな波音と共に、世界が自分の内に融けていくのを感じる―――否、融けていくのは自分のほうかもしれない。
 汀線の殆どが切り立った崖であるオベルには、なだらかな砂浜は少ない。王宮の裏手の林を抜けた先に、その数少ないひとつがあった。気分転換の当てのない散策のつもりだったが、自覚がなくとも自分の足はやはり海のほうへと向かうらしい。カルマはひっそりと微笑った。
 海は穏やかに凪いでいた。ほんの数日前に、数多の命をその懐に飲み込んだ海だ。戦いの熱は、未だ至るところにその名残を留めている。浜には船の残骸らしきものが幾つも打ち上げられ、無残な姿を晒していた。あれもやがては朽ちて砂となり、海へと還っていくのだろう。そしていつかまた、新たな命となって、ここへと帰ってくる。
 全ての起源と帰結とを抱いた海。幾つもの出会いと別れを齎した海。眼前の風景は、記憶になくとも知っているような気がする。遠い遠い物語。懐かしいな、と理屈でなくただ思う。
 と。
 ―――ィィィィィィィィィッ……。
 突如背後から響いた音が、空気を震わせ、海に木霊した。大きくはあったが風を切り裂くような剣呑さはない。飛ぶ鳥の鳴き声にも似た、どこか柔らかな調子のそれは、はっきりとした意思を持っていた。自分に向けられた呼び声なのだと理解して、カルマは音のしたほうを振り返った。
 王宮へと向けてせり上がった坂の上、林の途切れた場所に彼女は佇み、こちらに向かって大きく手を振ってみせた。
 結い上げられた蜜色の髪が、陽光を受けて淡く輝いている。カルマの視線が自分に向いたのに気付いたフレアは、弾むような笑顔を浮かべると右手の指を唇に咥えた。
 再び指笛の音が周囲に響き渡る。伸びやかな音色にカルマは薄く微笑み―――次いで、振り返る前からそれが誰のものであったか気付いていた自分に少し驚いた。
 波は全てを見透かすかのように、尚も優しく流れ続けている。


 

「上手いね」
「指笛のこと?ふふ、子供の頃はよくこれでセツさんに叱られたのよ。一国の王女ともあろうものが、なんてはしたない!…ですって。でも、お父さんに教わったのって言い返したら黙っちゃったわ」
 海岸に打ち上げられた流木に、フレアはカルマと並んで腰掛けた。林を駆け抜けてきたのか、上着のそこかしこに引っ掛けたような痕があり、ブーツにも乾きかけた泥がこびりついているが、彼女は少しも意に介した様子はない。夢中で泥んこ遊びをした子供のような生き生きとした表情で、フレアは抱えていたバスケットを広げ、食べる?と小首を傾げた。
 中身は鶏腿のローストとレタスを挟んだパンだった。作りたてなのだろう、漂ってくる匂いは仄かに温かい。ありがとうと素直に頷いて手を伸ばしたカルマは、一口齧って満足げに顔を綻ばせた。
「うん、美味しいよ」
 君が作ったの?と目顔で訪ねてくるカルマに、フレアは苦笑して首を横に振った。
「残念ながら私が作ったんじゃないの。王宮の料理長ご自慢の一品。私は不器用だから料理は全然駄目。何度練習しても上手くならないの。せめてサンドイッチくらいは…と思ったんだけど、形を崩さずにパンを切ることが出来なくて。ウサギを射止めるのだったら、誰にも負けない自信があるのに」
 フレアは笑って、手にしたパンに豪快に齧り付く。淑女らしい慎みなど無縁の仕草だが、それでも下品と感じさせないのは、彼女の明朗な人柄のなせる業だろうか。
「昔からお転婆だったんだね」
「ホント、誰に似たのかしらって、よく母にも言われたわ。そんなことではお嫁の貰い手がなくなりますよって」  
「で、その度に『お嫁になんて行かなくてもいい』って言って、お母さんを困らせてたんでしょ?」
「あら、よくわかったわね。そのとおりよ。だって女の子だから――王の娘だから、お淑やかにしてなきゃいけないだなんて不公平だわ。狭い王宮の中でじっとしてるだけなんて性に合わないもの。海にも森にも草原にも、王宮にはない宝物がたくさんあって、それを全部見付けて集める為には、毎日全力で駆け回ったって足りなかったわ。この海を越えた向こうには、私の知らない国があるって知ったとき、私決心したの。どんな遠い国でも、いつか必ず行ってみせるって。剣を携え、旅マントを翻らせて、御伽噺の主人公のように、世界中を冒険して回るんだって」
 世にも勇ましい王女の、無邪気な決意に満ちた昔語りに、カルマは揶揄ではなく穏やかな笑みを向ける。
「随分壮大な夢だね……と言いたいところだけど、フレアなら出来そうな気がするよ」
「ありがと。……こんなこと言ったら笑われると思うんだけど。私ね、まだ諦めてないの。旅に出ること。世界中っていうのは流石に無理かもしれないけど、でも…せめて、失くし物をね―――探しに行きたいの」
 重大な秘め事を打ち明けるかのように、悪戯っぽく微笑んだフレアの瞳は、失ったものへの悲哀ではなく、懐かしさと慈愛を湛えていた。
 失くし物…と鸚鵡返しに、問いかけというより独白のように呟くカルマに、ええ、と明るく笑いかけ、フレアは潮風に乱され顔に掛かった髪を払った。
 中天を過ぎた陽射しは、射るような強さで、肌と緩慢になった意識とを灼く。世界を融かしたかのような熱が全身に染み渡る。それとも、世界に融けていくのは自分のほうなのだろうか。
「弟がね、いるの。私」
 殊更明るい調子で、彼女は切り出した。
「まだ小さくて、いつも私の後をついて回って。私の真似ばかりして。そんな弟が可愛くて仕方なかったから、お父さんたちに内緒で、色々と悪戯を教えたわ。厨房の中のクッキーの隠し場所や、足音を立てずに歩く方法―――指笛もね、そう。もしはぐれてしまったときは、これを合図にお互いを探そう―――そう言ってね。でも弟はなかなか上手く吹けるようにならなくて、どうしようって涙ぐんで」
 遠き日の面影を確かめるかのように笑んだ横顔を、カルマは何も言わず見守るように見詰めた。
「だからね、吹けるようになるまでは、あなたは私の傍を離れちゃ駄目よって言って聞かせたの。でも―――どうしてもはぐれてしまったら……そのときは私があなたの分まで指笛を吹くからって。私はずっとここにいて、あなたを呼び続けているから、だから、この音をよく覚えて、そして必ず帰ってくるのよって、何度も何度も言い聞かせたの。わかった、必ず帰ってくるって、あの子、そう言ったわ―――でもね、帰ってこなかったの」
 笑んだ瞳のままに、フレアは微かに俯いた。声の震えを押し隠そうとした口許が曖昧に歪み、痛みを堪えているかのような表情になった。
「暗い、海だった。鈍色の雲が、空を隙間なく覆い隠していた。私はぼろぼろになった船の上にひとり取り残されて、ずぶ濡れのまま、姿の見えなくなった弟を探したの。何度も何度も指笛を吹いて―――私はここにいる。もしものときの約束どおり、指笛を吹いてあなたを待ってる。この音を覚えているでしょう?だから…早く帰ってきてって……何度も何度も。異変を知って駆けつけてきた哨戒艇が私を連れ帰ろうとしたときも、弟が見付かるまでは帰らないって大暴れして、父の手を散々焼かせたわ」
 喪失を語りながらも、その口調に蔭りの色はなく、穏やかな確信と決意とを滲ませて、フレアは傍らのカルマを見上げた。
「―――信じているんだね。弟は死んでいない。必ずどこかで生きていると」
「ええ、信じているわ」
 一瞬の躊躇いもなくそう言い切って、フレアは吹き抜ける風に瞳を細めた。
「可能性が低いのはわかっている。あれから15年も経っているんだもの。父が、行き場のない後悔と悲嘆とを捻じ伏せる為に、自分自身に諦念を課してきたことも知っている。だから、誰かの前でこんな話をしたことはないわ。でもね……笑わないで聞いてね、カルマ。もし本当にあの子が死んだとしたら、それが私にわからないはずはない。そう思うの。女の勘って馬鹿に出来ないのよ。あの子はきっと生きてる。もしかしたら、私に見付けて貰う為に、どこかで泣きながら指笛の練習をしてるのかもしれない。だから、私が見付けてあげなきゃ……ううん、きっと見付け出せる。だってあの子が奏でる音が、私に届かないはずはないもの」
 フレアは透明な瞳で、穏やかに光る海を見詰めた。
「不思議ね……母を失い、弟を失った海なのに……それでも私、海を嫌いにはなれない」
 風と波の音に耳を傾ければ、今もあの頃の光景が脳裏に浮かぶ。それは時に息が苦しくなるほどの感傷を起こさせたが、同時に、失ったものの息吹をすぐ傍に感じさせてくれる場所でもあった。
 ―――幸せだった、あの頃に帰りたい。
 思いはいつしか少女の胸の中で、悲痛な叫びではなく、優しい祈りへと、その姿を変えていた。
「それはきっと……再び巡り会えるその場所も、やはり海だと知っているからじゃないのかな?」
「そう思う?」
「だって、海にはまだまだ、君の見たこともない宝物がたくさん詰まってるんだろ?だったらその中に、君の会いたいと思っている人も、いるかもしれない」
 カルマは微笑って、ふと、遠くを見詰める眼差しになった。
「僕にも、無事を願っている人がいる。他の誰が何と言っても、僕だけは彼の無事を信じている―――再び会えた時、いったいどんな顔をすれば良いのか、僕にはまだわからないけど……」
「そんなの簡単よ。にっこり笑って『お帰りなさい』って言ってあげればいいの」
「………そう……だね………」
 ありがとう、とはにかむように呟かれた声に、フレアは苦笑してかぶりを振った。
「ありがとうを言うのは私のほう。やっぱりね、どれだけ信じるって決めてても、消えないものよ、不安って。もしかしたら私は、母と弟のいない現実から目を逸らしたいばかりに、ありもしない希望に縋り付いて、自分に嘘を吐いているだけなのかもしれないって、何度も思った。届きもしない幻影を、いつまでも追いかけてる愚か者だって、自分のことが情けなくなったこともあるわ。………でもね、カルマも同じ思いを抱いてるんだってわかって―――ごめんなさい、不謹慎だけど私、少しだけ安心しちゃった。そうよね。私が信じてあげなきゃ。弟の無事を―――必ず帰ってくるって。そして会えた時に笑顔で『お帰りなさい』を言える私になる為に―――これからも私、顔を上げて生きようって……そう思えた」
「フレア……」
「ありがとう、カルマ。話、聞いてくれて」
 嬉しそうな―――それでもどこか寂しそうな気配を残したまま微笑んだ横顔を暫し無言で見詰めてから、カルマは手の中のパンの欠片を一息に口に放り込み、衣服についた屑を払いながら立ち上がった。躊躇いのない足取りで、数歩、海へと向かって歩き出す。何事かと目を瞠ったフレアが声を掛ける前に、カルマは立ち止まり、右手の指を唇に咥えて、しぃっと息を吸い込んだ。
 ―――ィィィィィィィィィッ……。
 空気を震わせた音色は、先刻フレアが奏でたそれより、一段高く、鋭い響きを持っていた。遠く遠く、風に乗り、海の彼方にまで届きそうな呼び声。澄んだ余韻が、いつまでも耳に残る。記憶にないはずなのに、知っているような気がする……知らず物思いに沈みかけていた意識を、フレアは慌てて現実に引き戻した。
「上手ね」
「騎士団にいたときに、仲間たちに教えて貰ったんだ。もし海ではぐれてしまったときは、これを頼りにお互いを探そうって。僕はなかなか吹けるようにならなかったんだけどね、一旦コツを掴んだ後は、仲間の誰よりも大きな音が出せるようになった」
 カルマは振り返り、揺れる海の瞳に笑いかけた。
「僕も吹くよ。新たな地の土を踏みしめる度に、まだ見ぬ海を渡る度に。僕はここにいると、力の限り叫ぶよ。―――そうすればいつか、もしかしたら君の弟にも会えるかもしれないし」
 優しく細められた海の瞳に、フレアは泣きそうな笑顔で頷きを返した。
 本当はね―――声には出さず、胸の内だけで呟く。
 あなたが弟なんじゃないかって、そんな風に思ってた。
 確証はない。でもそんな気がするの。これは女の勘。
 私の指笛に振り向いてくれたとき、やっと見付けてくれたわね、お帰りなさいって……そう言いそうになった。
 けれど、これも確信。
 あなたはけして、ここには留まらない。
 いつも海の向こうを見詰め、風の彼方に思いを馳せ、追いかける暇もなく駆け出していってしまう―――。
 だから。
「―――うん。お願いするわ、カルマ。もしどこかで弟に会えたら……私は元気でやっているって、そう伝えて」
「わかった」
「あなたの探し人―――見付かるといいわね」
 祈るような気持ちでそれだけ言い、フレアは空になったバスケットを手にして立ち上がった。
 これでいい。飛ぶ鳥の翼を手折る権利は、誰にもない。
 だからせめて、今この瞬間だけでいい。あなたの隣に立つことを許してほしい。
 海を嫌いにはなれない。あなたとの出会いをくれたのも、やはり海だったのだから。
 寄り添うように隣に並んできた優しい温もりに、カルマは穏やかに笑みを返し、その華奢な肩にそっと手を置いた。






 忘れないで。
 喩えどれほど遠く離れてしまったとしても。
 私はいつも、あなたの幸せを祈っている。






 風が哭いている。
 懐かしい、祈りの歌にも似た声の向こう側に、カルマはふと、指笛の音色を聞いたような気がした。















フレアは幻水4の登場人物の中で、かなり贔屓の女性キャラです。
いつかは彼女と4主のお話を書いてみたいと思っていたので、やっとこさ書けて満足満足(出来はともかく/爆)




戻る?

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送