藍の夜明け












 吹き抜ける風が、張り詰めた大気をさやさやと震わせる。
 明け切らぬ空の下、吐き出す息は既に白い。肌を刺す冬の兆しに、ゼファは外套の前を掻き合わせた。この分では、ここより北に位置するかの地では、もう雪が降り始めているのかもしれない。
 今は右手に眠る親友がまだ健在であった頃、一度だけ降ったそれを思い出し、懐かしさに薄く笑みが零れる。寒い中、薄着のままでずぶ濡れになるまで遊んで風邪を拗らせ、使用人である金髪の青年に泣きそうな顔で看病されたのも、つい先日のことのように覚えている。その青年も、今は亡い。
 失ったものの面影を辿れば、戦慄にも似た悲哀が背筋を駆け上がってくるのを止めようもなかった。迷いを振り切るように顔を上げて、ゼファはかつて黄金の都と呼ばれた街を後にした。街道に出れば、地平の彼方に生じ始めた光の帯が見えた。―――訪れる既視感に、三年前に絶望と共にこの地を出奔したときのことを思う。
 今度は違う。見届ける為に。新たな希望と可能性を見出す為に。立ち止まって過去を嘆くのではなく、未来へと続く道を模索する為に――男の子はみんな、遠い遠い地平の向こうを見詰めているのよ――勇気付けるように背中を押してくれた、春の陽だまりにも似た優しい声が、耳に蘇る。
 国境までの道は長いが、かの地に至るまでは振り返らぬと決めていた。だから、背中にやんわりと掛けられた声に、足を止めはしたものの、声のほうを振り向きはしなかった。
「―――行くんだね」
 誰にも告げることなく街を出てきたというのに、一体どうして知れたものやら。微塵も気配を感じさせることなく、彼はいつの間にか、そこに佇んでいた。少し高めの穏やかな声も、落ち着いた口調も、別れたあの日から少しも変わってはいなかった。
「それが、今の俺に出来ることだと思うからです」
 感情を乗せない声で、淡々と返す。相手が眉を顰めた気配が、背中越しに感じられた。
「君は、戦を情で捉える人間ではないと思っていたけれど?」
「勘違いしないで下さい。俺は同盟軍に協力するわけじゃない。ただ――知りたいだけです。諦めずに信じて、歩み続ける人の意志が、本当に運命を変えることが出来るのかを」
 三年前の戦での自身の選択が、間違っていたとはゼファは思わない。だが、どれほどに過酷な状況に立たされようと、ささやかな望みを諦めない榛色の瞳が、昏く凪いだ心に細波を立てた。同じ星、同じ立場でありながら、自分が選べなかった道を迷いなく見据える少年の姿。あくまで他人の姿勢を貫くのであれば、その直向きな決意を戯れ言だと笑い飛ばすことも出来ただろう。
 ―――多分、諦めきれていないのは、自分も同じなのだ。
 だから、自分が手に出来なかった未来を、あの少年に託したいのだ。
 ―――自分が選べなかった道を選んだ、彼だからこそ。
「思うところはあるんだろうけど、身勝手な言い分だと評せざるを得ないね」
 背後の旅人は、柔らかな口調で辛辣な台詞を吐く。彼が間違ったことを言っているとは思わないから、ゼファも釈明をするつもりはない。
「身勝手なのも、卑怯なのも知っています。それでも…俺は行きたいんです」
 同盟軍には、かつてゼファが率いていた旧解放軍に属していたものが大勢いる。それらをひっくるめた寄せ集めの兵をかの少年が纏めていられるのは、彼がこの軍の象徴として祭り上げられるに都合の良い存在であるからに過ぎない。傍らに控える軍師の腐心に拠る部分も大きいだろうが、それでも――かの白狼を喪ってもなお崩れぬ皇国と渡り合うには、彼はまだ力不足だった。そんな中に、トランの英雄の異名を持つ(望んで得た名ではないにしろ)自分が入っていけばどういうことになるか。客将の立場を明確にしておいたにしても、かつて自分に忠誠を誓っていたものたちの心情を察するのは難くない。
 …自分の存在が、新たな火種となる可能性は大いにある――そうとわかっていて、それでも尚、ゼファは湧き上がる衝動を抑えることが出来なかった。
「自覚のない彼の甘さと、理解していながら踏み込もうとする俺の甘さ…どちらがより罪深いかなどとは、考えるまでもなくわかっている。笑ってくれて構いません」
「それだけじゃない。僕たちの所有する力は本来、どこの勢力にも属してはならないものだ。人を超える力を、人の争いの場に持ち込んではならない。そうでなくても、紋章はそれ自体、ただその場にあるだけで新たな争いを招く門となる。流されなくてもいいはずの血が、流される結果となる…こんなこと今更僕に言われなくたって、君は知っていると思うけど」
 容赦のない言葉を紡ぎながらも、そこに咎めるような印象はなかった。ただ凛と真っ直ぐに響いてくる声が、未だ迷いを抱いて沈んでいた心に、木漏れ日のように差し込んだ。
 ゼファは決意を噛み締めるように瞼を閉じた。それから徐に顔を上げ、徐々に藍を薄れさせてゆく空を見上げた。揺るぎない光を湛えた黒曜の瞳は朝焼けを映し、凍てつく風の中に鮮やかに煌いた。
「これしきのことで崩れるのなら、所詮はその程度のものだったということです。喩え俺が行かなかったとしても、結果は同じでしょう。俺は失望しに行くのではない。彼なら成し遂げてくれると信じたからこそ――見届けようと決めたんです」
 短い静寂の後、諭すような声がそっと届いた。
「……どんな結果になったとしても、君は辛い思いをすることになる……それでも、いいんだね?」
 自分の選択が間違っていたのだと、思い知らされる時が来るかもしれない。彼が希望を捨てることなく、その道を踏破しきれば、何故彼に出来たことが自分には出来なかったのかと、後悔の念に苛まれることになるだろう。自分に新たな可能性を示してくれたかの少年を、妬ましく思う日が、来るのかもしれない。けれど。
「後悔しない…とは言い切れません。でも、目を逸らすことだけはしないと、そうテッドに誓いました。喩え間違いではなかったのだとしても、俺の選択が彼を死に追いやったことは事実です。だけど、運命だから仕方がないと諦めるのではなく、俺がこの手で招いた結果として、この罪ごと彼の命を背負っていきたいんです――もう二度と、こんな悲劇を繰り返さないように。それが出来るだけの強さを、人は持っているのだということを確かめる為に、俺は―――もう一度戦いたいんです」
 ……背後の青年が薄く微笑む気配を、ゼファははっきりと肌に感じた。振り返らずとも、優しげに細められた碧い瞳を、ゼファはありありと脳裏に浮かべることが出来た。
「そこまで言うのなら、僕はもう、何も言わない……行っておいで」
 きっと青年にも自分がどんな顔をしているか見えているのだろう……そんな風に考えながら、ゼファは胸のうちだけで、はい、と呟いた。聞こえてなどいなくてもいい。思いは届いているはずだから。
 このまま立ち去ろうかと考えて、ふと胸に生じた疑問に、ゼファは踏み出しかけた足を止めた。
「あなたは、どうしてここに?」
 旅人が洩らした苦笑めいた溜息が、しんとした空気を揺らした。
「約束を、果たして貰う為にね」
「―――約束?」
「馬には乗れるようになったのかな、坊や?」
 揶揄うような口調に、ゼファの思考は一瞬にして過去へと引き戻された。まさか、あの時の―――!?
「……あんな、他愛無いひと言を、覚えてたんですね」
「一日たりとも忘れたことはなかったよ。まさか君が、あの時の子だったとは思いもしなかったけど」
「いつ、気が付いたんですか?」
「君と別れて、暫くしてから。グレッグミンスターに行くって言ってた君の言葉が、何となく引っ掛かってね。気になったから、僕ももう一度、この街を訪れて――それで気付いた。その時には、君は既にここを離れた後だったけどね」
 優しい声と、記憶の淵より見詰めてくる碧い輝きに、ゼファの心は時を越え七つの少年に還る。幸せは約束されたものだと信じていた、愚かで純粋なあの頃に還る。
 あれから…なんてたくさんのものを失くしてきたことだろう。
 けれど、哀しみを乗り越えた先に、自分の意志と力で辿り着いた場所がある。あの頃には知らなかったことを知っている。
 今なら自分も躊躇いなくこう口にするだろう。あの輝きを、海のようだ…と。
 親友が最後に残してくれた、希望の色だ、と。
 運命などという言葉で、片付けるつもりは元よりない。けれど…けれどきっと。この出会いだけは、偶然ではない。
 堪えきれずに振り向いた視線の先で、記憶の中と同じ瞳は、あの時と変わらぬ姿で微笑んだ。
「今度こそ君の意志で、君の選んだ未来を確かめておいで。どんなに辛くても、最後まで逃げずに。そして――必ずここに帰っておいで。約束はそのときまで、待っていてあげるから」
 君の進む道に、幸多かれ――と。祈りのように囁かれた言葉に、胸が熱くなる。
 彼は…カルマは、最初から自分を止めようなどとは考えていなかったのかもしれない。恐らく、この道を選ぶことで、再び傷つくことになるだろうゼファの身を案じながらも、その決意を揺るぎないものにする為に――立ち向かう覚悟を胸に刻ませる為に。そして、帰ってくる場所と、待っているものが在るのだと、教える為に。そっと…背中を押しに来てくれたのだろうと、そう考えてしまう自分は傲慢だろうか。
 思い上がりでもいい。誰に愚かだと嗤われても構わない…きっと、カルマだけは許してくれるだろう。
 ふわりと胸に染み入るように広がった、甘えにも似た心地を面映く感じながらも、ゼファは真っ直ぐにカルマを見据えた。
「約束は守ります…必ず」
 告げる言葉は、それだけで充分だ。
 小さく一礼して、歩み去ろうとしたそのときに。
「君の目」
 何の脈絡もなく、唐突に掛けられた言葉に、思わずゼファは動きを止める。軽い驚愕に見開かれた瞳を示して、カルマは穏やかに微笑った。
「ずっと黒だと思っていたんだけど。光に透けると、青く見えるんだね」


 ――おまえの目、ぱっと見は黒いけど、光の中だと青く見えるんだな…綺麗だ。


 亡き親友の声が、耳の奥で木霊する。
 光の下で、自分の瞳を見ることなどなかったから、自分でもずっと気付かなかった。だから、宝物を見つけたようなきらきらとした表情で、それを教えてくれた親友の声を、ゼファは今でもよく覚えている。テッドだけが気付いてくれた、それは二人のささやかながらも取って置きの秘密だった。
 とても綺麗だよ、と。今は琥珀の向こうの海が囁く。
「だからこれからも、顔を上げて、光に向かって進むといい」







 運命などという言葉で、片付けるつもりは元よりないけれど。
 けれど…けれどきっと。この出会いだけは、偶然ではないと。
 今だけでもいい。それくらいは信じても許されるだろう。


 

 冬枯れの街道をひとり歩く。
 遠い彼方に、まだ見ぬ夜明けが待っていると信じて。
 吹きすさぶ風に外套を靡かせながら、ゼファは朝陽に染まる空を見上げた。
 ―――罪と希望と、そして。
 大切な人が教えてくれた取って置きの秘密とを、その胸に抱きながら。














ヨン坊再会編です。構想だけは3ヶ月くらい前からあったんですが…やっと書けた。
当サイトの話の時間軸的には「彼方よりの〜」の約1年後になります。
ゼファの話はここからデュナン統一戦争編に入ります。2時代の坊と4主ですよ!!妄想炸裂!!(笑)




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