PHANTOM















夜を貫いた風が、漆黒の外套を翻らせた。裏地の朱が黒一色に塗り潰された世界に、血のように鮮やかな残像を残す。栗色の艶やかな髪の下の顔は、無機質な白い仮面で覆われており、表情は伺えない。だが、その佇まいには隙がなく、発する気配は何者にも侵しがたい圧倒的な威厳をはっきりと秘めている。
 同じ風にローブの裳裾をはためかせながら、乙女は琥珀の瞳で、闇色の怪人をひたと見据えた。宮殿の高みをめぐるテラスの際に追い詰められ、逃げ場のない我が身の行く末に戦慄を覚えながらも、気丈にも背筋を伸ばし、彼女は正面から闇と対峙した。
「おいで」幼子をあやすような優しげな、それでいて誰をも従わせるに足る重々しさに満ちた声で、彼は言い、その手を彼女に向けてゆっくりと差し伸べた。「何も迷うことはない。僕と共に行こう――世界は君を救わない。破滅に堕ちるのも光明を手にするのも、結局は道理でも天啓でもなく、それを望んだ人の意志だ。絶望に駆られて自分を責めることはない―――君の未来はここにある…僕の手の中に」
「そんなことは無理だと、わかっているはずだ―――」あどけなさの残る面を怯えの為に些か強張らせながら、乙女は悲痛な叫びを返した。「人の意志で手にする希望なんて、定めの奔流の前には所詮気休めでしかない。この身の奥深くにまで絡みついた呪いを断ち切る術など、もはやこの世のどこにも存在しない――。もう迷わせるのはやめてくれ―――俺にこれ以上、罪を重ねさせないでくれ!」
「哀れな」
 歌うように、怪人は囁く。仮面の上からでもはっきりとわかるほどに、彼は笑みの気配を深くした。
 乙女は世界の理の犠牲者だった。その優しさ、純粋さゆえに、非情な現実を受け入れることも拒むことも出来ず、傷つき疲れ果てた手負いの獣だった。それでも人で在り続けることを否定せず、毅然と顔を上げて立っている彼女の姿。それは、嵐の中でもけして消えることのない篝火のように気高く、見るものの胸を熱く焦がさずにはおれなかった。
「クリスティーヌ」闇よりもなお甘い誘惑に満ちた声で、夜の化身は純真な乙女を深淵に導く。「どうしてそんなにも救済を拒む?呪われた運命を抱えてなお、幸せを掴む権利が君にはあるだろう。何ゆえに、それほどまでに自分を、絶望の淵に追い込もうとする?」
「俺にとっては、おまえの手、おまえの存在こそが絶望だ」
「強がるのはおやめ」怪人は仮面に手を掛けた。天を覆っていた雲が不意に途切れ、燦然と輝く銀色の満月が、彼の姿を宵闇に鮮やかに浮かび上がらせる。仮面の下より僅かに覗いたその顔は、それ自体が作り物ではないかと思わせるような硬質の美貌。
「自分を犠牲にしてでも誰かを救いたいと思う崇高な意志は賞賛に値するが、だからと言って、世界の業を全てその身に引き受けたような気になるのはただの傲慢だよ。君ひとりが痛みに耐えているからと言って、世界から争いがなくなるか?進むべき道を模索することすらせず、ただ立ち止まっていることを贖罪とは呼ばない。苦しみを乗り越え、幸福を手にすることこそ、君の為に犠牲になってきた人々の望みだと、僕は思うけどね」
 風に揺れる前髪の隙間から覗く蒼い瞳は、闇を切り裂く稲妻のように、鋭く乙女を射抜く。魂に直に触れてくるような強い輝きから逃れるように、彼女は瞳を固く閉ざし、諦めと皮肉の綯交ぜになった声で呟いた。
「けれど、その為に再び足を踏み出すことが、間違いじゃないとどうして言える?償うことを望んでも、結局それはまた新たな悲劇を生むだけかもしれない」
「だからこそ、僕がここにいる」
 すっと伸ばされた指が、乙女の柔らかな髪に触れる。彼女ははっと身体を固くしたが、抵抗はせず、長く皇かな指が慇懃に愛撫を繰り返すままに任せた。
「言っただろう――人の運命を決めるのもまた、人の意志だと――。僕が君を守る。もう絶望の刃が、君ひとりを傷つけることのないように。君が罪の意識に苛まれて、その足を止めることのないように」
 夜は労わりと慈しみを以って、乙女を優しく包み込んでくる。静かに見下ろしてくるその顔は、再び白の仮面によって覆い尽くされていた。だが、ひとたびその下に隠された激情を知ってしまえば、仮面などもはや何の役にも立たない。冷たく無機質な障壁に阻まれてなお、強さを失わぬ蒼い眼差しに、乙女の胸は生まれたての雛鳥のように震えた。
「信じて……いいのか……?」押さえ切れぬ歓喜に上擦った声で、乙女は問うた。「俺と共に生きて欲しいと…そう、願っていいのか…?」
「御意のままに」怪人は恭しくそう告げると、白い面を乙女の花の唇に寄せた。仮面越しの口付けはひんやりと冷たく、そしてそれ以上に熱く優しかった。
「共に行こう。君の贖いと許しは僕の手の中にある」
「………その仮面は、取らないのか」
 気遣わしげな視線を向けてくる乙女に、怪人は僅かばかりの苦笑の気配を洩らし、次いで真摯な声で答えた。
「僕がこの仮面を取るのは、君が救いを手にしたときだ。君が幸福になって初めて、僕も戒めより解放される」
「そうか…ならば俺も迷いは捨てよう――喩えこの先に続く道が、どれほど苦難に満ちていようと、もう後戻りは出来ない――俺は、この手を取ってしまったのだから」
 そう言って初めて微笑を見せた乙女の身体を、そっと抱き上げてもう一度口付けを落とすと、闇と鮮血の衣を纏った怪人は、テラスより夜の中へとその身を鮮やかに翻した。




「……………(苛立たしげに、中指で冊子のページをトントンと叩き)で、これは何なんだ?カリョウ」
「劇団オベル座初公演作品『オベル座の怪人』の脚本……になる前のプロットの一部」
「何でそんなもんを俺に読ませる?ってか、そもそも何なんだ、劇団オベル座ってのは!?」
「やー、折角サロンにあれだけ広いスペースがあるんだから、新たな娯楽施設として劇場を開設しないかって投書が目安箱にあってね。皆の意見を幅広く取り入れたい懐の深い軍主としては、これは是非とも実行に移したい訳ですよ。で、その準備の一環として、上演作品のシナリオを作ったから、是非とも出演者である君に読んで貰いたいな♪って思った次第」
「ちょっと待て。出演者だなんて話、俺は引き受けた覚えはないぞ」
「今初めて話したんだもの。当然だよ」
「冗談じゃない!お断りだ!」
「生憎だけど決定権は全て僕にあるからね。この僕が出演するんだから、君も出るのが当然だろ」
「誰だっこんなヤツを軍主にしたのはっ!」
「こんなヤツが軍主だってのを知っててこの船に乗り込んできたのは誰だ?」
「うっ……(言葉に詰まった後、がっくりと肩を落とし)でも、それならそれで、何でよりにもよってヒロインなんだ?女役は女にやらせりゃいいだろ?」
「う〜ん、何でだか、それはポーラに止められたんだよねぇ…。配役を巡って『トゥシューズの中に画鋲が!』的場外乱闘が起こりかねないから、やめたほうがいいって…」
「……………(僅かに青褪め)女の嫉妬って怖ぇ」
「という訳なので、僕の独断と偏見と軍主権限によって、君をヒロイン役に抜擢致しました〜!」
「だから何で俺がヒロインなんだっ!?どう見たって逆だろ!?俺とおまえの配役!」
「……(首を傾げて)何で逆なのさ?」
「言って欲しいのか、この女顔が」
「む。人が密かに気にしてることを言うね。それじゃあ訊くけど、君のその腕力と体格で、僕を抱き上げて屋根の上でアクロバット!…な〜んて芸当が出来る?こう見えても僕、鍛えてるから結構重いよ」
「………ぐっ…!」
「出来ない?出来ないよね!?はい決定!これ以上文句言わない!」
「…………(男としてのプライドをかなり傷つけられた模様)」
「一週間後には脚本が完成する予定だから、そうしたら稽古開始。で、一ヵ月後に初回公演があるからね。あ、ちなみにチケットはもう完売してるから。上演当日は満員御礼。船中の人に君と僕とのラブロマンスを観て貰えるなんて楽しみだね♪」
「……誰か、俺をこの悪魔の手から救ってくれ…!!」




「で、他の役は誰がやるんだよ」
「えーとね…まず、ラウル役にアルド」
「……………おまえ、ライバルはさりげなく闇に葬るタイプだろ?」
「やだな〜、そんな訳ないでしょ♪それから…カルロッタ役にスノウ」
「………………おまえ、過去のしがらみなんざ全然気にしてないとか口では言っときながら、実は物凄〜〜〜〜く根に持つタイプだろ?」
「ふふふ……さあね」


 
















某祭りのお題用に執筆。締め切りに間に合わず一度は諦めかけたのですが
やはりどうしても参加したくて無理矢理作成(爆)
被害者となった某方には大変申し訳ないと思いつつも、一度やってみたかったんです劇場ネタ…。
顰蹙を買うかな―――とビクビクしていたのですが、意外にも好評だったようで吃驚しました。ありがとうございますーっ!!
…『オペラ座の怪人』を御存知ない方には微妙にわかりにくい話で申し訳有りません(汗)






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