雪鏡
















 その日、ラズリルは普段とは違った熱気に包まれていた。
 色鮮やかな帳を巡らせた洒落た形の屋台が、海に面した表通りに所狭しと犇めき合っている。褐色の肌と黒い髪を持ち、ゆったりした異国風の装束を纏った人々が、手にした鈴や太鼓を賑やかに打ち鳴らしながら、しきりに客寄せを行っている。本国からの今日一番の定期船に乗ってこの島を訪れた彼らは、定住の地を持たない流浪の隊商だった。
 ラズリルはガイエン公国の辺境に位置する。美しくはあったが交通には些か不便な地であるため、群島やミドルポートの貿易商人を除き、商売目的でここを訪れるものは少ない。大規模な隊商ともなれば尚更だった。滅多に来ない客人たちの来訪に、人々は珍しい見世物でも見るような目で我先に屋台の連なる通りへと押しかけ、街全体がまるで祭りでも催しているかのような華やかな賑わいに彩られていた。
 黄昏時、買い物客の喧騒もそろそろ終盤に差し掛かろうかという刻限、ジプシーの奏でる美しくも哀切な旋律の流れる街角に、パタパタと軽快な靴音が響いた。幼馴染みの少年の手を引いて、屋敷から表通りへと続く道を全速力で駆けてきたスノウは、半ば幕を引きかけた祭りの様子を目にして甲高い声を上げた。
「あーっもう!!折角の市だっていうのに、もう殆ど終わっちゃってるじゃないか!カルマがもたもたしてるからだよ!!」
「ご…ごめん」
 言い付かった仕事をようやく終えたところを強引に引っ張って来られて疲労困憊していたが、カルマは素直にそう答えた。遅くなったそもそもの原因も、スノウが食事時に汚してしまったテーブルクロスを洗うのに手間取った為なのだが、それも敢えて口にはしない。
 剥れた表情は長続きはせず、スノウはカルマの手を離すと通りをずんずん歩き始めた。まだ店じまいを始めていない屋台を一つ一つ、好奇心に満ちた表情で覗いて廻る。その後を着かず離れず歩きながらも、今までに見たこともない異国情緒溢れる通りの装いに、カルマも心持ち弾んだ気分になっていた。
 幸いにしてまだ半数ほどの店は残っているようだ。通りを行き交う人の数が少なくなったお陰で、小さな客人たちは、そろそろ暇を持て余し始めた商人たちに温かく迎えられることとなった。売り物の残りの果物や砂糖菓子が気前良く振舞われ、下り坂だったスノウの機嫌はたちまち上昇気流に乗った。
「凄いね。いつもの通りが全然違う場所みたいだ。見たこともない珍しいものがたくさんあるよ。変な形の楽器とか、とても綺麗な布や小物や…あ、あのタペストリーの模様、凄く凝ってると思わない?あの刺繍って何かの動物かな?何だろう?」
 貰った林檎に遠慮なく齧り付きながら、スノウは無邪気にはしゃいでいる。少しでも目を離せばふらっとどこかに行ってしまいかねない浮かれように、カルマは内心ハラハラしていたが、悪い心地はしなかった。生まれて初めて目にする異国風の市は、幼い子供二人にとっては宝の山も同然だった。
 物珍しそうにあちこちの屋台を覗いては品定めをするスノウの後ろに着いていたカルマは、ふと、立ち並ぶ露店の一角で足を止めた。
「………?」
 黒い天鵞絨の敷かれた卓の上に、細かい装飾の施された筒状のものが幾つも無造作に並べられていた。民芸品の類だとは思うが、それにしては用途がわからない。先を歩いていたスノウも、首を捻って佇んだままのカルマに気付いて戻ってきた。だが、カルマが指し示した品物の正体は彼にもさっぱり見当がつかないらしく、さぁ?と首を横に振る。
「それは、万華鏡というものじゃよ」
 疑問符を浮かべる少年二人に、露店の主人が愛想よく声を掛ける。頭に白いターバンを巻いた老人だった。耳慣れない固有名詞に、カルマは大きな瞳を戸惑い気味に瞬いて聞き返す。
「ま、まんげ…?」
「ほら、筒の天辺に穴がついとるじゃろ?そこから中を覗き込むんじゃよ」
 そう言われて、カルマは手近な筒を一つ、手に取った。掌にすっぽり収まるくらいの大きさのそれは、白く塗られた木製の筒に、銀の塗料で花らしきものが描きこまれている。恐る恐る覗き穴に目を近づけたカルマは、中に広がる不可思議な景色に思わず息を呑んだ。
 きらきら光る真珠色の小さな欠片が、幾重にも連なった空間の中で、花とも星空ともつかぬ曖昧な模様を織り上げていた。筒を回せば、欠片はしゃらしゃらと軽い音を立ててその形を変え、また新たな模様を作り上げる。その小さな世界は確かにカルマの手の上に存在するのに、どれほどに目を凝らしても果ての見えない無限の回廊でもあった。
「筒の中に鏡を貼って、貝殻の破片や小石なんかを入れてあるんじゃよ。綺麗なもんじゃろ?まるで雪の結晶のようで」
 仕掛けを聞けば何のことはない、ただの玩具だとわかる。だが、店主が何気なく洩らしたひと言がカルマの心に引っ掛かった。
「………雪?」
 聞いたことのない言葉ではなかった。
「ああ、知らんか。この辺りでは降らんじゃろうから仕方ないかのう」
「僕知ってるよ。北のほうの言葉で、スノウ、っていうんだよね」
 隣で金の髪の幼馴染みが得意そうに胸を張る。…雪。それは北方で冬の到来を告げるものだとカルマは同じ名を持つ幼馴染みより聞いていた。勿論実物を見たことはなかったが。
「ほほう、よく知っとるのう。本物の雪を見たことあるかね、坊や?」
「ないけど…。ラズリルは暖かいから冬になっても雪は降らないんだよ。おじいさんは見たことあるの?」
「あるとも。ハルモニアに行商に行ったときにな。そりゃあ綺麗なもんじゃよ。白くてふわふわして…まるで御伽噺に出てくる妖精の羽のようでな。音もなく地面に降り、大地を白く埋め尽くす。次の春を迎えるまで、大地をその腕に抱いて眠りに就かせるんじゃ。大地が新たな命を生み出す力を、その身に蓄えるまで、そっと…な」
「ふうん、そうなんだ。僕も見てみたいなぁ…。ねえねえおじいさん、僕の名前、スノウっていうんだよ」
「ほう、そりゃまた、ええ名前を付けて貰ったのう」
 慈しむように目を細めた老人に、スノウは満足げな笑みを返した。
 雪……スノウ。
 遠き異国の地に降るというそれを、カルマは幼馴染みの語ってくれた物語の中でしか知らなかったが、その美しさと儚さは、彼とどことなく通じるものがあるような気がしていた。眠りに就く大地をそっとその腕に抱き締めて慈しむ優しさは、自分を明るい世界に導いてくれた白い手に、どこか似ているような…そんな気がしていた。
 万華鏡を手にしたまま俯いているカルマに、老人は穏やかな声を掛ける。
「どうするね、坊や。土産に一つ買っていかんかね?」
「でも…高いんでしょう?」
「ふむ…まあ、200ポッチといったところかね」
「200…」
 カルマは溜息を吐いた。そもそも仕事をしていたところを何の予告もなく引っ張って来られたのだ。そんな大金の持ち合わせがあるはずもない。尤も、喩えそうでなくとも、カルマの身分で躊躇なく支払える額というわけではなかったのだが。
 喩え模倣であっても、雪の気配に触れさせてくれたその玩具に未練を感じないわけではなかったが、カルマは首を横に振ると、筒をそっと元の場所に戻した。
 と。
「欲しいの、カルマ?いいよ、買ってあげるよ」
「え?」
「それくらいのお金なら、僕持ってるもの。遠慮しなくていいんだよ」
 事もなげにそう答えるスノウに、カルマは慌てた。使用人である自分の為に、スノウに小遣いを使わせたとあっては、またどんな咎めを伯から受けるとも知れない。そうでなくとも、自分の仕えるべき存在であるはずの彼から施しを受けることに対して、罪悪感を拭いきれないカルマである。
 首を振って固辞したが、スノウは一向に頓着せず、店主に硬貨を渡すと白い筒を受け取った。
「そんな…よかったのに」
 スノウが笑顔で差し出した掌の中で、斜陽を映して光る白い玩具を見て、カルマは居た堪れなさと申し訳なさに俯いた。
「僕が買ってあげたいと思ったんだから、君は気にしなくていいんだよ。だって、カルマが物を欲しがるなんて珍しいし」
「けど、そんな……」
「もう、折角買ったんだから遠慮しない!ほら」
 手を取られて、半ば強引に握らされる。勢いに気圧されて、されるがままに呆然とそれを握り締めてから、カルマはゆっくりと手を開いた。微かな温もりに包まれて、雪を宿した白い万華鏡は、黄昏の中静かにその存在を主張していた。
 夕日に透かして、もう一度筒の中を覗きこむ。狭い中に広がる無限の回廊。くるくる廻せば世界も変わる。封じ込められた雪の模様は、そのどれもが一瞬のもので、次の瞬間には別の表情に変化を遂げる。その儚さも多様さも、傍らの幼馴染みに似ているとカルマは思った。
「カルマ、そろそろ帰ろう。夕食に遅れるよ」
 顔を上げれば、先を歩いていたスノウが、笑顔で振り返ってこちらに手を差し伸べていた。礼を言うのをすっかり失念していたことにカルマは気付き、慌てて傍に駆け寄ると、その手をしっかりと握り締める。
「ありがとう…スノウ」
 はにかんだ声で告げると、スノウは花が綻ぶように笑って、繋いだ手にそっと力を込めた。




 暮れ方の海を染め上げるのは、あの時と同じ茜色。遠き日を思わせる柔らかな斜陽を受けて、栗色の髪の少年は追憶の中のそれよりも、ずっと素直で穏やかな顔で笑った。
「それ、まだ持ってたんだね」
 スノウが言うと、カルマは右の掌を目の前に翳した。そこには白と銀で染め上げられた美しい玩具が、夕日の照り返しを受けて静かに輝いている。
「スノウが、くれたものだから…」
 涼やかな声を、潮風が攫う。
 異国の幻が残した、雪を宿した世界の欠片。
 誰かの手の中でくるくる廻る度、曖昧に姿を変えるそれ。きらきら光る真珠色の輝きは、あの頃と何ひとつ変わってなどいないのに。少し角度を変えるだけで、世界は全く別のものになってしまう。昨日見た景色にどれほど思いを馳せても、それを再び目にすることは適わない。擦れ違い、遠ざかり、もがき続け、そしてまた違う一歩を大地に刻み、新たな世界を形作る。
 そう、それはまるで――――。
「立場が変わろうと、背負うものが変わろうと、それもやはり、僕たちには違いないから―――」
 きらきら揺れる結晶は、僕たち自身を写す鏡のようで。
「だから、君との思い出を捨てることなんて、僕には出来なかったんだよ」
 吹き抜ける風に金の髪を揺らし、同じ顔で微笑んだスノウは、カルマの手の中からそっと、万華鏡を取り上げた。
「過去に戻ることは出来ないけど、また新たな絆を作り上げることは出来る。今日見た景色が昨日のものと違っても、それを受け入れるだけの勇気を、今は僕も持つことが出来たから」
 世界の縮図を見詰める青灰色の瞳には、消えゆく雪の儚さはなく、静かに胸に降り積もった決意を確かめるように、柔らかな輝きを瞼の裏に閉じ込める。
「過去の罪や痛みや後悔を、捨てるのでも忘れるのでもなく、確かに僕の一部なのだとこの胸に刻み込んで――新しい世界を歩いていくよ。今度こそ、自分自身の足で君の隣に立つ為に―――」
「うん」
 誓約を、海色の瞳は穏やかな肯定で祝福する。
「喩えどれほどに世界が変わっても、僕はスノウの傍にいるよ」




 定めの奔流の中でも潰えなかった二つの輝きをその身に受けて、世界はまた、廻り始めた。

 















久し振りのお子様話。先日、本当に掌サイズの万華鏡を貰ったのでネタに使ってみました。
纏まりのない話になってしまったのが悔やまれますが…仲良しな二人は書いてて大変楽しかったですvv
「スノウと4主のらびゅい話が読みたい」と言っていた、主スノ同志の英里さんへ。
ラブラブと言えるかどうかは謎ですが…謹んで進呈。お誕生日おめでとうございます。





戻る?

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送