絶望しかなかった。
喩えどれほどに抵抗し、声を嗄らして泣き叫んでも、生ある限り逃れることの叶わぬ悪夢。目を背けても、耳を塞いでも、忘れることなど出来やしない。儚く散った命の無念。闇に木霊する呪詛の声。右手に刻まれた罪の証。
無限の回廊のように思われたこの悪夢から、解放してくれるのであれば誰でも良かった。
外界から切り離され、時も光も実体さえもない夢幻の牢獄で、それでも俺はこれでいいと思った。
これでもう苦しまずに済む。
これ以上罪を重ねずに済む。
悠久とも言える時を超えようと、人であることを捨てられない限り、紋章の呪いに打ち勝つことなど不可能なのだから。
自由と引き換えに得た安息であっても、呪いに囚われずに済むのなら、ここで生きるに勝る幸せなど存在しない。
真の紋章に蝕まれたものなら、きっと誰だってそう思うだろうと、俺はいつの間にか思い込んでいた。
だから、アイツに会った時は驚いたんだ――――。
「お断りします」
紋章の呪いを捨て、代わりにこの船で永遠の許しを得ないかという船長の誘いに対する、それがソイツの答えだった。
誘惑に対する揺らぎなど微塵も見せない。海のような碧い瞳は確固たる意志を秘めて眩しいほどに輝いていた。
これが、命あるものの瞳なのだと、俺はこの時そんな風に思った。
ヤツの答えは船長には信じ難いものだったに違いない。
「愚かな…我と共に行かぬ限り、汝は永遠に苦しむことになるのだぞ。汝を救ってやろうという我の情けを無にするつもりか?時の支配から切り離されたこの世界こそが、汝にとっての真の楽園―――違うか?」
「救いなんていうのは幻想だ。僕はここに留まるつもりはない」
「何故だ――?」
「この世界に―――僕の求めるものは存在しないから」
何だと、と船長が訝しげに呟く。俺も少なからず驚いた。紋章の呪いに苦しめられているはずのコイツが、それでもその支配から解放されること以上に望めることなどあるのだろうか。闇に呑まれないその輝き、その強さは果たしてどこからくるのだろう。
「苦しみから解放されることよりも価値のあることがあると申すか――」
「当然だ。だってここには―――」
凛とした声が、漆黒の空間を揺るがした。
「人類の至宝ともいうべき、おまんじゅうがない!!」
…俺は一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。船長も完全に絶句してしまっている。この船に乗り込んでから随分経つが、三つの顔すべてをポカンとさせて固まってる船長なんて初めて見た。
「――――――今、何と言った?」
長い沈黙の後、かなり困惑気味の声で船長が言う。全然動揺を隠せてない辺り、相当ショックだったのだろう。
だが、そんな船長の動揺などお構いなし。少年は拳を握り締めんばかりに熱い声を迸らせた。
「何度だって言うよ!!おまんじゅうのない世界なんて願い下げだ!!」
「ま、まんじゅうだと…そんなものの為に…」
「そんなものじゃない!!あなたはおまんじゅうの偉大さを知らないからそんなことが言えるんだ!!虚飾も面倒な作法も必要とせず、どこでも手軽に食べられて、しかもその味ときたらふんわりとした生地と洗練された具材とが織り成す究極のハーモニー!!あれこそ人類の生みだした文化の極みだよ。特にパムさんの作ったおまんじゅうの素晴らしさといったら…!!何とも言えず食欲をそそる香りと、あの生地のもちもちとした食感、そして噛んだ瞬間口の中にじわっと広がる餡の濃厚な甘み…。舌が火傷しそうに熱いのをふうふう言いながら食べる時のあの幸せ…ああいうのをきっと至福のひとときって言うんだ…おまんじゅうの価値がわからないなんて、この世界始まって以来の大罪だ。人類に対する冒涜だ。お天道様が許してもこの僕が許さない!!」
「いや何もそんなつもりで汝をこの船に呼んだわけでは―――」
「僕をここに留めるのであれば、この船の中に全世界におまんじゅうの素晴らしさを訴える為のテーマパークを建設することを要求する」
「こ、ここは外界とは隔離された空間ゆえ、我の許しなきものが何の負荷もなく自由に出入り出来る場所ではない―――」
「ならば話はここまでだ。僕は自分の船に帰る」
「待て!!喩え汝が望まずとも我にはその罰の力が必要――帰すわけには―――」
「いいでしょう。全ての人類の敵たるおまんじゅう不信論者!!この僕が天に代わって成敗する!!」
「俺も手伝う!!」―――と、咄嗟に叫んだのは、正義感や運命から逃げ続けていた自分に対する憤りなどではない。断じてない。
ここでコイツに逆らったら、俺まで滅ぼされそうだという恐怖の為だ……。
「て、テッド貴様!!裏切り者ーーーーー!!!!!」
船長の悲痛な叫びが聞こえるが無視無視。…すまない船長、俺もまだ命は惜しいんだ。
「天下の大悪党め、いざ参る!!」
双剣を抜き放ち、嬉々として(俺にはそう見えた)駆け出していくその背中を呆然と見遣って、俺は彼の連れらしいガタイのいいオッサンにそっと耳打ちした。
「アイツ…いつもああなのか?」
「ああ?いや、ま、ちょっと発作が出ただけだ。気にするな」
発作…あれを発作というのか…?
ある意味、紋章の呪いなんかよりずっと重篤じゃないかと思えるそれに、俺は脱力するしかなかった。
……ってか、たかだか紋章ごときでこんな所に閉じ篭ってたことが、アホらしく思えて仕方なかった…。
…あれ以来、まんじゅうの山盛り入った袋を片手に、カリョウは毎日のように俺の部屋へと押し掛けてくる。
「テッド〜♪お昼にしよ〜♪今日のメニューはスペシャル蟹入り肉まん!!」
「だーっもう!!いくらまんじゅう好きだからって毎食毎食まんじゅうばっかり食うな!!しかもそれを俺に押し付けるな!!」
「えーっ、だってパムさんのおまんじゅうはこの船に乗ってる間しか食べられないんだよ〜?今のうちに食べられるだけ食べとかないと損だよ」
「だったらおまえ一人で食えっ!!俺を巻き込むな!!」
「あ、そーゆーこと言う。おまんじゅうの敵は人類の敵。おまんじゅうに逆らうものは僕の敵…」
「わわわわわわーった!!食う!!食うからその物騒なものを仕舞えっ!!」
剣とまんじゅうとを手ににっこり微笑むカリョウを見て、俺は深く深く脱力した………。
こんなヤツに借りを作ってしまった俺も相当に可哀相だが、数百年に及ぶこの世界への復讐という悲願をまんじゅうに阻止された船長の無念を思うと、目頭が熱くなるのを押さえられない。
「人生って無情だよなぁ…」
船長は人じゃないから人生とは言わないんだっけ―――?とか。
そんな程度にはあの日々を懐かしく思えるようになった、そんな日常。
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