Nursery rhymes















 透明な既視感があった。
 胸に散らばった記憶の断片は曖昧にすぎて、懐古の役には立たないが、それでも焦点の合わない視界の中、不意に面影を結ぶことはある。
 脳裏を掠めたのは小さな後ろ姿。交わした言葉は真昼の月のように、淡く霞んで朧げであったが、指が白くなるほどに握り締められた小さな拳が、微かに震えていたのを覚えている。長い睫の先に真珠を宿した、二つの碧い海を覚えている。
 昏い幻の中、日溜まりのようにそこだけが眩しい。



 最初に見付けたのはアルドだった。
 雲一つないよく晴れた日。群島は短い冬の終わりを迎えようとしていた。一年を通じて四季の移り変わりが然程さやかではないここにも、やはり芽吹きの季節は確実に訪れる。石切りが原を渡る風は南方より吹いており、吸い込めば萌え出ずる草木の匂いがした。しかし日差しはまだ幾分頼りなく、心地良い陽気には今一歩及ばない。
 茂みになり切らぬ若い灌木が数本、肩を寄せ合うその根元に、一羽のハトが蹲っていた。
 近付いても動こうとしないそれは、初めは落鳥しているのかと思われた。だが、アルドが手を伸ばして抱き上げると、鳥は短い首をめぐらせて来訪者達を見回し、くぐもった声で鳴いた。生きたハトをこれほど間近で見たのは初めての経験である。スノウは目を丸くして、この小さい生き物を眺めた。
「どうして動かないのかな」
 カルマが首を傾げて言った。鳥の身体を丹念に調べていたアルドが、その疑問に答える。
「怪我をしているんですよ。ほら、ここ」
 アルドは鳥の右翼をそっと広げさせると、その付け根近くを指し示した。そこには折れた矢尻とおぼしきものが突き刺さっている。滲み出た血は泥と一緒になってこびり付き、柔らかな羽毛を汚していた。
「酷い………
 鳥の傷口から注意深く矢尻を抜き取ってやりながら、カルマは喉に絡むような声で呻いた。アルドの指が、傍らに落ちていたものを拾い上げる。折れた矢だった。
 唇を噛み締めるようにして、アルドもカルマと同じ呟きを口にする。そのアルドの背に負われた矢筒を見て、今度はスノウが首を傾げた。
「君も狩猟をするのに、撃たれた鳥を見てそう思うのかい?」
「このハトは狩猟のために撃たれたんじゃありませんよ。矢を見ればわかります」
 アルドの口調は静かだったが、その声は僅かに震えていた。
「作りが粗雑すぎる。芯の弱い、脆い木を使っているし、矢羽の貼り方も乱雑です。矢と矢尻の大きさも釣り合ってない。傷の具合からいって多分、弓勢の弱い小型の弓です。携帯に便利な。少なくとも狩猟を生業としている人に、このような弓を使うものはいません。人が食べる為…生きる為に撃ったものだったら、僕だってこんな気持ちにはならない。この鳥は明らかに、人の一時の戯れで傷付けられたんです」
 怒気ではなく、寧ろ悲しみを含んだ声でアルドは言った。人がこの小さきものにおこなった仕打ちは、心優しき狩人の胸を痛ませずにはおれない。大地に生きるものの掟がどれだけ厳格で神聖かを、彼は理屈ではなくその肌で知っていた。
「…どうしてこんな酷いことが出来るんでしょう。この世界に生きる命はすべてが、生きる意味とそれぞれにしか為し得ない役割とを持って平等に生まれてきます。生きる為に戦うことは自然の流れの一部だけど、こんなふうに無益に他者を踏み躙ることは違う。どんなに小さな鳥や動物だって、皆何かを担って生きている。人が気紛れに傷付けたり殺めたりしていいものでは絶対にないんです」
「いつだって、犠牲になるのは弱いものなんだ。何処へ行っても、それは変わらない…
 カルマは独り言のように掠れた声で呟く。スノウは何故だか居た堪れない気持ちになって軽く俯いた。
 瞼の裏で何かはっきりしないものが、薄ぼんやりとした像を結びそうになる。形のわからないそれが酷くもどかしい。スノウは顔を上げ、確かめるように、傷ついたハトにそっと手を伸ばした。人以外の生き物に触れた記憶は十九年間生きてきた今までに数えるほどしかない。初めて掌で直に感じた翼あるものの身体は温かく、命の在り処を訴えるように脈動している。スノウは小さく吐息をついた―――驚きの為に。
 こんなに小さな身体にも、魂はちゃんと息づいている。触れられていることが気になるのか、鳥は再び弱々しい声で鳴いた。その喉の疼きまでが指先を通してはっきりと伝わってくる。
「でも、見付けられて良かった。このまま動けずにいたらきっとこの子、他のけものに襲われていただろうから」
「何にせよ、放っておくわけにはいかないよね…
 その場にいた全員の視線が、残った一人に注がれた。

 腕を組み、不機嫌そうな表情ながらも事の一部始終を見ていたテッドは、いきなり皆の注目が自分に集まったのを知っても驚いた様子は見せなかった。人を薬箱か何かだと思いやがって、と悪態をつきながらも、水の紋章を宿した左手は躊躇うことなく翼あるものの上に翳される。青みを帯びた温かな光が溢れたかと思うと、無残な傷痕は跡形もなく消えていた。
 安堵の空気がその場を満たした。花の蕾が綻ぶように。だがそれはすぐに、怪訝な表情に取って変わられる。
………動かないね?」
 傷は治ったというのに、ハトはやはり身じろぎひとつせず、アルドの腕に抱かれている。容態を診るようにテッドはハトの身体に手を添えていたが、やがて口を開いた。
「多分、体力が落ちているんだろう。ロクに食べちゃいなかっただろうし、今の季節にこんな格好で長い間地面の上にいたんじゃ身体だって冷える。暖かい場所に連れて行ってちゃんと食べさせてやりさえすれば、一日か二日で回復する」
 口調はそっけないが、テッドの視線は鳥から離れない。顔に出さずとも案じていると察するのは難くなかった。
 最後まで面倒をみるのであれば、船に連れ帰ってやるしかない。ならばアルドこそ適任だと誰もが思った。そのことは本人も承知していて笑顔で頷きかけたのだが、それよりも早く、口を開いたものがいた。
「あの………良ければ、僕にやらせて貰えないかな…?」
「スノウ?」
 思い掛けないことを言い出した幼馴染みに、カルマは碧い目を瞠った。記憶を辿る限りでは、スノウはこれまで生き物の世話など経験したことはないはずである。それどころか、そういった物への関心は寧ろ薄いほうだろうと思っていたのだが。
 だが、スノウは青灰色の瞳に僅かに戸惑いの色を見せつつも言った。
「やってみたいんだ……ダメかな?」
 先ほど手に触れたハトの温もりがスノウに何かを思い出させようとしていた。それはきっと目を伏せたくなるような、胸に痛い記憶なのだと何処かでわかっていたが、スノウは逃げていてはいけないような気がした。心配そうな瞳で自分を見上げてくる少年の顔に、何かのヴィジョンが重なる。わからなくてはいけないことが、きっと自分にはある―――
「スノウ君に任せましょう、カルマさん。きっと大丈夫ですよ」
 黙って二人の遣り取りを見ていたアルドが、穏やかに笑った。テッドはあからさまに疑わしげな視線を向けてはいるが、敢えて何か言うつもりもないらしい。些か不安は残るものの、スノウの眼差しが真剣なのを見て取り、カルマも頷いた。
「わかった。君に任せるよ、スノウ」
 スノウの表情が明るくなる。アルドは小さな鳥の身体をスノウにそっと手渡した。
「頼みます。しっかり面倒みてあげて下さいね。わからないことがあったら遠慮なく言って下さい。相談に乗れると思いますから」
 誰よりも命の重さを尊ぶアルドが信頼して任せてくれたことがスノウには嬉しかった。息づく命をしっかりと胸に抱え、スノウは長身の青年を見上げた。
「ありがとう。頑張るよ」
 手の中の鳥は、少し力を込めれば壊れてしまいそうなほどに華奢だった。けれども、伝わってくる仄かな温もりはスノウに否応なく命というものを意識させる。この世界が人だけのものではないことくらいスノウも知っている。だが、手で触れてみなければわからないものも確かに存在するのだ。
 一行は船に向かって歩き出した。足取りも軽く草原を横切っていく四人の間を、新緑の風が吹き抜けていく。前を歩く幼馴染みの背を目で追いながら、スノウはそれまで焦点の合わなかった記憶が霧が晴れるかのように徐々に浮かび上がってきたのを感じた。遠き日の思い出を辿るその耳に、小鳥の淡いさえずりが甦った。



 透明な既視感があった。
 人は万能ではない故に、留め置かねばならぬものですら気付かぬうちに無くしてしまうことも数多あるが、無論それとは逆に、疾うに手放したと思っていたものが、何かの拍子に心の深淵から掘り起こされてしまうことも珍しくはない。
 未完成の合わせ絵は、御伽噺の一節のように曖昧で実体を感じさせなかったが、胸の淵に埋没していた心臓の部分を拾い上げてしまえば、あとの破片はまるで導かれたかのように独りでに在るべき場所へと還っていく。ようやく形を現したそれは―――黄色いカナリアの姿をしていた。
―――
まだ騎士団に入る前の、少年だった頃の話。
 フィンガーフート伯は息子である彼の為に一羽のカナリアを買い与えたことがあった。優美な細工の籠に入れられた美しい鳥は、涼やかなさえずりと愛くるしい姿で好奇心旺盛な少年の心をたちまち魅了した。暇さえあさば籠の中を覗き込み、奏でられる歌声に耳を傾ける。スノウはこの美しい鳥を愛した。しかしどれほど観賞に値するものであったとしても、生き物である以上は世話をしなくてはならない。スノウはそれが億劫で、肝心な部分は敢えて見て見ぬ振りをしていた。否、そもそも最初から考えようとすらしていなかったのかもしれない。
 捕らわれの歌姫の世話をしていたのは専ら小間使いの少年である。餌や水遣り、籠の掃除―――スノウが顔を顰めたくなるような作業を、この少年は不平ひとつ言わず、寧ろ楽しんでいるかのようにこなしていた。
 スノウが珍しい玩具でも見るような視線でカナリアを見ていたのに対し、この少年が籠の中へ向ける眼差しは優しさと慈しみに満ちていた。やがて、玩具に飽いたスノウはカナリアの存在を気に留めなくなった。忘れたわけではないものの、そこにあるのが当たり前のもの、部屋の風景の一部としてしか認識しなくなっていた。見捨てられたことすら知らずさえずり続ける哀れな小鳥を、栗色の髪の少年だけが変わらぬ瞳で見詰めていた―――



「大丈夫、スノウ?」
 軍議を終えて戻ってきた少年が扉を開けてひょっこり顔を出す。スノウは振り返って微笑んだ。
「うん、今のところ問題ないよ。よく食べてる。アルドもこの様子なら心配ないだろうって」
 部屋の中へ入ってくると、カルマはスノウの手元を覗き込んだ。急ごしらえの木箱はトーブが作ってくれたものだ。仕立屋のフィルから分けて貰った余り布が敷かれたそこには例の拾われたハトがいて、盛んに何かを啄んでいる。乾燥させたトウモロコシだった。
 フンギに言って貰ってきたんだ、というスノウに頷きを返して、何気なく壁際に目をやったカルマは、そこに置いてあった物を目にして一瞬固まった。一抱えほどもありそうな麻袋が遠慮会釈なく陣取っている。中身は何か訊ねるまでもない。苦笑と溜息とが同時に零れた。
「スノウ、幾らお腹空かせてるからって、あんなにたくさんは食べきれないよ」
「え!?あ…そ、そうなのか…?」
「あんまり食べ過ぎると人間だって体調を崩すでしょう?それに身体が重くなり過ぎると外敵に襲われたときに逃げることが出来なくなる。世話をする時は鳥にとって大切なことは何かを考えてあげなきゃね。僕達と同じように生きている命なんだから」
「そうか…そうだよね……
 落胆の表情を浮かべて、スノウは箱の中の鳥を見詰めた。
「僕は………やっぱり何もわかってなかったんだね」
「スノウ……?」
 俯いてしまった幼馴染みを案ずるように、カルマはスノウの傍らに腰を下ろした。
「生きる意味と、それぞれにしか為し得ない役割…アルドはそう言っていたよね」
「うん……
「それじゃあ…僕があの時手にしていたものは何だったんだろう…?僕の為のものだって信じて疑わなかったのに」
 痛みを堪えるような声が唇の隙間から漏れ出でてくる。カルマにはその正体はわからなかったが、彼がこの小さな鳥を通して何かを掴み、同時に何かを失ったのだということは悟った。
 追憶の彼方、スノウは今、彼にしか見えない景色を目にしている。
「……後悔、してるの?」
 悔やんでいる、というのが一番しっくりくる表現だとカルマは思った。何に対しての後悔かは窺い知る由もなかったが。
「そうだね…後悔かもしれないね…
 スノウの返事は曖昧で、彼もまだはっきりとは答えが見付けられないのだろうということはわかった。フィンガーフート家という狭い世界から突如放り出された彼にとって、海と大地はとてつもなく広く、知らないことばかりが溢れ返っている。当然だと思い込んでいたことが当然のように覆される体験は、自分にもやはり覚えのあるものだったから。時々、カルマは彼がこの急激な変化に耐えられるのかどうか心配になる。
 だが、そんなときの彼が多くを語りたがらないのもまた知っていたから、カルマは敢えて先へと踏み込もうとはせず、その横顔を見詰めるに留める。
 きっとこの先は自分などには立ち入れぬ領域なのだから。
 ランプの照り返しを受けて、長い睫が端正な顔に深い影を落としている。瞳を伏せたまま、スノウは暫く何かを考え込むかのように押し黙っていたが、やがてふっと表情を崩すと立ち上がった。
「餌だけじゃなくて、水も必要だよね。貰ってくるから、その間見ててやって」
「スノウ、それなら僕が…
「いいんだ。君はここで待ってて」
 ぎこちない微笑を僅かに唇に浮かべて、スノウは扉の向こうへと姿を消した。残されたカルマは吐息をつくと、視線を木箱の中へと注ぐ。鳥はまだ無心に餌を啄み続けている。静寂の下りた室内にコツコツと言う音だけが響いた。



 透明な既視感があった。
 当たり前だと信じ込んでいたものであればあるほど、喪失の時は突然に訪れる。
 あの日も丁度こんな、よく晴れた日だった。穏やかな日差しと丘を渡る爽やかな風とを招きいれようとして部屋の窓を開け放していたスノウは、それを閉めるのを忘れたまま、うっかりと外出してしまったのである。
 カルマが気付いた時は既に手遅れだった。
 そよ風に誘われるかのように、戯れに迷い込んだ予期せぬ来訪者が、捕らわれの歌姫を一瞬にして手の届かぬ所へと連れ去ったのである。駆けつけたカルマが目にしたのは、無残に壊された鳥籠と部屋中に散らばった花弁のような羽毛、そして動かなくなったカナリアを悠然と見下ろしている一匹の大きな野良猫だった。
 亡骸はカルマの手によって、裏庭の片隅にひっそりと葬られた。墓標は木切れを立てただけの簡素なものだったが、野の草花を丁寧に飾り付け、潤んだ瞳で一心に祈りを捧げていた姿を、今は瞼の裏に鮮明に思い出すことが出来た。
 力なく落とされた肩は、その時のスノウには理解のし難いものだった。スノウは小鳥を愛していたが、それはお気に入りのチェスの駒に向ける視線とそう大差はなかったのである。スノウにとっては父と自分以外の存在は欲せずとも与えられるものであり、壊れても失っても代替の利くものであった。カナリアはラズリルにおいては特に珍しい鳥でもなく、失ったからといってさして痛手となる訳でもない。勿論惜しいという気持ちはあるが、それでも友人がここまで落ち込む理由がスノウにはわからなかった。好いていた鳥がいなくなってしまったことを残念がっているのだろうくらいにしか考えず、なんとか元気付けてやりたいとの一心から、次は両手の指を全部使っても数えられないくらいたくさんの鳥を買って貰おうと口にした。
 だが、少年は頷きもせず微笑みもせず、青水晶のような瞳に哀しみを湛えたまま、こう言ったのである。
―――
鳥の翼はなんのためにあるのだと思う―――
 彼はそれだけしか言葉にしなかったが、俯いた肩や、噛み締められた唇、白くなるほど握り締められた小さな手に、拒絶されたような居心地の悪さを感じて、スノウはそれ以上彼の傍に留まっていられず、逃げるようにその場を去った。
 従順な幼馴染みの初めてとも言える反抗に、いたく自尊心を傷付けられ憤慨し、その日は寝台に入るまで、とうとう彼とはひと言も口を利かなかった。横になってからも、目を閉じれば彼の哀しげな声が耳の中を幾度となく木霊し、なかなか寝付くことが出来なかった。
 翌朝、赤く目を腫らしたスノウに、伯爵は当然のように新しい小鳥を買ってやろうと言ったのである。しかし、スノウは少し考えた後、結局首を横に振った――
 カルマも、翌日にはまた元の彼に戻って、普段と変わらぬ態度でスノウに接した。時折、庭の小さな墓に野の花を手向けていることは知ってはいたが、目まぐるしい日々の中でそれは些末に過ぎなかったから、いつしかスノウは気にも留めなくなっていた。数年の月日が過ぎ、彼がラズリルの裏通りで足の不自由な猫を見付けて世話を始めた時には、猫が欲しいのなら他に良い猫は幾らでもいるだろうになどと考えたものだ。
 だが、こうして傷つき疲れ果て、全てを失った自分にさえも、彼が変わらず差し伸べてくれた手の温もりを知った今なら、あの時の彼の涙の訳も少しはわかるような気がしていた。無力で卑小な存在でしかない自分を、それでも世界でたった一人のスノウだから―――と言った彼の笑顔を目にした時に、何ものにも代え難いという言葉の本当の意味を、スノウは初めて理解したのである。
 そしてもう一つ―――今になってわかったことがある。彼は―――あの小鳥に自分自身の姿を重ねていたのではないだろうか。
 華美なれど冷たい籠の中、自由を知らず自由の意味も知らず。役に立たなくなればまるで壊れた部品のように捨てられ、取り替えられる―――あの頃のスノウには疑問にさえ感じられなかった不文律を、少年は痛いほどに噛み締め―――それ故にあの小鳥を誰よりも哀れみ、慈しんでいたのではないのだろうか。
 籠の中のカナリアの存在を受容していたのと同じように、自分はずっと、蒼穹を駆ける為の彼自身の翼を当たり前のように犠牲にし続けていたのではないだろうか。
 傷ついたハトを見付けた時に脳裏に日溜まりのように浮かんだ既視感は、指先に触れた小さな鼓動を通して、埋没していた記憶の欠片から在るべき姿を取り戻していた。無言のうちに圧し掛かってくるその重みが罪悪感だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
 差し伸べられた彼の手が果たして許しであったのかどうか、スノウにはわからなかった。彼の笑顔と涙を胸のうちに思い描きながら、祈るように瞳を閉じる。薄闇の迷路の中、まだ出口は見えない。



 別れの日はやはり、雲一つない快晴だった。
 石切りが原を渡る風は草木の香りを一層に含み、綻び始めた花の蕾は大地のそこかしこをささやかに彩っていた。新しい季節の訪れを告げるように、ヒバリの鳴き声が蒼穹に響き渡る。良かったねぇいい天気で、と笑顔でこちらを振り返るアルドの隣で、不承不承連れて来られたテッドが、しかしそれでも満更ではなさそうな表情で穏やかな日差しに目を細める。
 腕の中のハトの背をいとおしそうに撫でるスノウに、カルマはそっと声を掛けた。
「スノウ、本当にいいの?」
 スノウは青灰色の瞳に名残惜しそうな光を浮かべながらも、頷いた。
「ああ、これでいいんだ」
 カルマは正直なところ、スノウがこのハトを手放すのを嫌がるのではないかと懸念していたのである。共にいた二日の間にハトは緩やかにその警戒心を解き、最後にはスノウの手から直に餌を啄むまでになっていた。そうなれば愛着が湧くのも当然で、この幼馴染みが今までに見たこともないような優しい視線で木箱の中を見詰めていたのをカルマは知っている。離れがたく思うのも無理はなかった。
 だがしかし、ハトがその体力を充分に回復させたことを知ると、スノウは躊躇うことなく、元の野に帰してやろうと言ったのである―――
「鳥の翼がなんのためにあるか―――僕は僕なりに考えたからね」
 まるで独り言のように呟かれた言葉に、カルマの目が大きく見開かれる。穏やかな風を頬に受けて遥か天空を見上げる青年の横顔は、まるで凪の海のように静かな面差しを湛えていた。
 アルドが、祝砲の代わり、とばかりに矢を番えた弓を高々と掲げる。キリリ、と弦を引き絞る音が、今は神聖なもののように厳かに耳を打った。放たれた矢が鋭く天を穿つのに合わせたように、しなやかに伸ばされた腕から、翼あるものは飛び立っていく。たっぷり頭上を三度ほど旋廻したかと思うと、急に向きを変え、北へと向かう風に乗った。自由を謳歌する小さな命は、どこまでも晴れ渡った空の中に、蒼く滲んで―――やがて見えなくなった。
「…良かったね」
 カルマの声に、スノウは少しばかり切なげに微笑んだ。傍らではアルドが嬉しそうにしきりにテッドに話し掛けては煙たがられている。その遣り取りを微笑ましく目で追っていたカルマの耳に、不意にそよ風のような囁きが届いた。
「君も、自由になりたかったのかい…?」
 驚いて見上げた視線の先で、青灰色の瞳は果てのない空を映して静かに揺れていた。呟かれた言葉に、親友が翼あるものを通して見ていた追憶の正体を知って、カルマの脳裏にも鮮やかにあの頃の風景が甦ってきた。籠の中のカナリアと、それを見詰めていた幼い自分。
―――もう、自由になってもいいんだよ―――
 風に紛れて消えてしまいそうな声には、痛いほどの自責の念が込められていた。空を知らぬまま潰えた小鳥の無念を慮れなかった傲慢な子供の面影はそこにはない。彼の心を痛めているのは、過去の苦い思いだけではないのだろう。遥かな高みへと飛び立つことの出来た翼を、自分の手を取らせたばかりに、再び元の大地へと縫い留めることとなってしまったのではないかという罪悪感が、きっと彼にあのような言葉を呟かせたのだ。
 痛みを知った青年の横顔は憂いを湛えて大人びていたけれど、そこに見え隠れする不器用な感情は、やはり自分の知る彼と少しも変わっておらず、カルマはそっと嘆息する。
 馬鹿だよね、君は…。やっぱり何もわかっていない。
 呆れるほどに鈍いくせに一度手にした痛みには臆病なくらいに敏感で。愚かなほどに真っ直ぐで、寂しがりやで意地っ張りで優しくて。
 そんな君だから、放っておけない―――。そう考えてしまう自分はやはり見えない鎖に囚われているのかもしれない。だが、それが縛めなどではないということも、カルマ自身が一番よく知っていた。
「僕は、ずっと昔から自由だったよ」
 スノウは弾かれたようにこちらを振り返った。青灰色の瞳の中に、はにかむように笑う自分が映る。今も昔もスノウの前でだけはこうありたいと望む、偽りのない笑顔の自分がここにいる。
「帰る場所があることを知っているから、飛ぼうと思える。前に進むことを恐れず、どこまでだって飛んで行ける」
「………そうか」
「うん」
 まるで鏡を見ているかのように、同じ笑顔が返ってきたことが嬉しくて、カルマはスノウの肩に、そっと自分の手を置いた。
 迷いの全てが消えたわけではない。生そのものが終わらぬ限り、人としての歩みを止めぬ限り、多分自分達はこの先も幾度となく過ちを繰り返し、後悔し、身を切る思いに苛まれるのだろう。だが、どれほど長く冷たい冬の中に在ろうと、春は必ず巡って来る。明けぬ夜がないように、春は必ず巡って来るのだ。
 優しい風が緑の草原を吹き抜けていく。穏やかな日差しに包まれて、ヒバリ達は自慢の喉を競い合うように盛んにさえずっていた。新たな季節に思いを馳せて見上げた眼差しの先、空はどこまでも高く、どこまでも蒼い―――。

 
















スノ&4アンソロジー没原稿です。
プロットを考えた段階ではほのぼのだったのに、いざ書いてみたら恐ろしく暗い話になった…(汗)
4主とスノウの過去話の捏造は、相変わらず大変楽しいですvv
テッドをあまり喋らせられなかったのが残念…。
タイトルをどうしようか散々悩んだのですが、結局は連想ゲームになりました(笑)
(籠の中の鳥→かごめかごめ→童歌→マザーグース=ナーサリーライム)





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