ダ・カーポ















 白亜の街の中に取り残されたその場所は、主の帰りを待つ者もなく。




 崩れかけた門柱、荒れ果てた庭。かつての栄光を偲ばせるものは儚い幻と消え失せ。伸び放題の蔓薔薇の絡まった門扉を、スノウは静かに押し開けた。
「…………」
 穏やかな陽射しに浮かび上がるその場所は、記憶の中に深く刻まれたそれとは似ても似つかず、変わり果てたその姿に、哀惜の念は尽きる事がない。
 此処から始まったすべて。それはまた、此処へ帰り行く。
「ただいま」
 震える声で、スノウは言った。出迎えてくれるものなど、誰一人いないと知りながら。
 親友の背中を、カルマは祈るような気持ちで見守っていた。スノウは此処へ帰って来たのではなく、別れを告げに来たのである。寂れたこの屋敷は、数日後には取り壊される事が決まっていた。街を見捨てた統治者の所有物に情けをかける人のいるはずもなく。スノウに決定権は与えられず、代わりに街外れの小さな家に住まう事を許された。―――今日、此処へ来たのは彼なりのけじめ。全てに区切りをつけ、新たな道を歩む為の、旅立ちの儀式のようなものだとカルマは思っていた。
 スノウと同様に、此処はカルマにとっても思い出の地でもある。自分が今まで過ごしてきた時間の大半は、この夢と消えた楽園の中に存在した。どれほど時が過ぎようとも、永遠に変わる事のない聖域のようなものだと信じていたこの場所は、しかし気紛れな運命の流れの前には、抗いようもなく無力だった。
 門扉に手を掛けた姿勢のまま、スノウは動かない。最後の場所へと足を踏み入れるのを躊躇う気持ちがカルマには手に取るようにわかる。やはり一緒に行ったほうが………そう思って声を掛けようとしたが、一瞬早く、スノウは此方を振り返った。
「じゃあ、行って来るから」
「スノウ………」
 寂しげな光を湛えた青灰色の瞳に、胸が締め付けられるのを感じて、カルマは思わず手を伸ばして、スノウの頬にそっと触れる。スノウはカルマの手を優しく取ると、不安げに揺れる海色の瞳を真っ直ぐに見詰め返した。
「大丈夫、だから……一人で行きたいんだ。……待ってて、くれるよね?」
 幼子に言い聞かせるように、優しくゆっくりと諭すスノウに、カルマは唇を噛み締めたが、結局何も言わずに頷いた。
 スノウは穏やかに微笑んでカルマの手を離すと、決意を込めて、敷地の中へと足を踏み入れた。




(帰って来たんだ―――)
 この地を捨てた主の代わりとなって、人々の憎悪をその身に浴びたのだろう。明らかに人の手によるものと思われる破壊の痕跡を目の当たりにして、スノウの胸は酷く痛んだ。自分の犯した罪故だと知りながらも、どうしようもなく身体が震えるのを抑えられない。だが、感傷に浸るのも今日で最後なのだと自分に言い聞かせる。
 痛みに捕らわれて立ち止まるのではなく、甘受してそこからまた立ち上がる為に。その為のこの場所なのだと己の胸に刻む込む。
(もう一度全てをやり直す為に―――)
 一足毎に募る寂寥感を、振り払うように歩き続ける。
 と。
 何気なく向けた視線の先に映ったものに、スノウは思わず足を止めた。
 蝶番の外れかけた扉の向こうから、僅かに覗いたそれは―――。
「―――――――」
 壊れかけた扉を無理矢理押し開けて、スノウは部屋の中へと足を踏み入れる。
 崩れた漆喰の隙間から差し込む陽光の中に浮かび上がったのは………一台の古ぼけたグランドピアノだった。
「無事だったのか……!?」
 うっすらと埃を被り、かつて見た鮮やかな艶は失われていたものの、どこも破損していない様子にスノウは安堵を覚えた。
 重厚な雰囲気さえ感じさせるそのピアノは、スノウが生まれる前から此処にあったものである。かつての自分を知る者に再会を果たしたかの如き懐かしさが込み上げてきて、スノウは薄汚れた表面に構わず指を滑らせた。
「待っててくれたのかい…?」
 物心ついたときから其処にあった故か、スノウは幼い時より、ごく当たり前にピアノに触れてきた。伯の雇った音楽教師に指導を受けていた時期もあったが、もしそんな事がなかったとしても、やはり自分はピアノを弾いたのだろうと思う。亡き母がとても愛していた音色だと聞かされた時に、肖像画でしか知らないその人との目に見えぬ絆を感じた気がして嬉しくなったのを覚えている。
 そして、自分がピアノを奏でる度に、傍で食入るように聴いてくれた、優しい幼馴染みの面影が浮かび、思わず熱くなった目頭をスノウはそっと指で覆う。
 自分達の築き上げてきた証の片鱗が、確かに此処には存在した。
「―――今日で最後だからね―――」
 傍らにいてくれた者の面影を忘れまいとするかのように、丁寧に埃を払ったあと、スノウは徐に蓋に手を掛けて、思い出へと繋がる扉を開け放った―――――。




(遅いな、スノウ………)
 親友の姿が屋敷の中に消えてから早や一刻。新たな道を歩む決意をした彼の勇気を信じていない訳ではないけれど、少なからず辛い思いをするだろう事がわかっている場所へ、一人で行かせてしまった心苦しさは拭いようもない。彼がけして弱いだけの人ではないということはわかってはいるものの、辛い時に傍で支えてやる事の出来なかった自分を知っているだけに、彼の望みとは言え、ただ待つだけの身に酷く苛立ちを感じずにはおれなかった。やはり一緒に行けば良かったと、後悔の渦に思考を捕らわれかけた時だ。何処かで聴いたことのあるような、懐かしい旋律が耳を掠めたのは。
「―――この音色は………?」
 遠い過去から響いてくるような―――優しくも悲しげな調べに誘われるかのように、カルマは歩き出していた。所々崩れかけた壁の隙間を潜り抜けるようにして届いてくる音色に導かれ、躊躇うことなく荒れ果てた屋敷へと足を踏み入れる。久し振りに目にしたその場所、変わり果てた中にも残る面影の欠片を目にする度に、カルマの思考は、知らず過去への階段を軽やかに駆け上がっていた。
(この廊下)
 厨房や書斎へと続くこの道を、いったい何度往復したことだろう。
(この角を曲がった先に、スノウの部屋があって…)
 目を瞑ったままでも迷わず辿り着けるほどに歩いた此処は、自分にとっては世界へと通じる道そのものだった。
(あの柱には丈比べの傷。その脇の窓からは裏庭がよく見渡せて。その先の扉の向こうは大広間。古びた柱時計と暖炉があった)
 次々と溢れ出す記憶に塗り替えられて、朽ちた屋敷は鮮やかに時を遡る。
 実際には、あれからほんの数ヶ月しか経っていないというのに。終焉とはなんと唐突で残酷なものなのだろう。
 旋律は途切れる事なく猶も思い出を語り続ける。ひとつ、ふたつ。角を曲がった先の部屋。壊れた蝶番の向こうに広がる光景にカルマは思わず息を呑んだ。
 燃えるような緋色の絨毯、煌々と明かりを煌かせるシャンデリア。眩しいほどに美しいその部屋の中央には黒光りするグランドピアノ。
 哀愁と懐古に満ちた物悲しい旋律を紡ぎ出していたのは―――艶やかな翡翠色の礼服を身に纏ったスノウだった。
「………!!」
 溢れ出る楽の音の見せる夢であろうか。疾うに失われたはずの楽園の、在りし日の姿がまさにそこにあった。
 奏でられる旋律は澱みなく、あの頃と少しも変わりない。鍵盤の上を長い指が皇かに動くたび、爪弾き出される柔らかな音階は、流れ落ちた時間を難なくすり抜けて、消えた過去の幻を此処へ鮮やかなまでに甦らせる。
 そう、此処は君のいるべき場所のはずだった。
 穢れたものなど何一つない、音と光に祝福された世界こそが。
 僕達はいったい何処で、その道を違えたというのだろう―――。


 最後の音が空気に溶けて消えた後も、カルマはその場から動く事が出来なかった。
顔を上げたスノウの視線が佇んだままのカルマを捉える。青灰色の瞳が驚きに見開かれた。
「カルマ…」
 椅子から立ち上がって、スノウはカルマの傍まで歩み寄る。
「どうしたの?」
 正面に立ち、真っ直ぐに自分の顔を覗き込んでくるスノウの服は、やはり翡翠色の礼服ではなく、どこにでもある簡素なシャツとズボンで。
 溢れる音と光の中に輝いて見えた部屋は、いつの間にか崩れかけたそれへと姿を変えていた。
 ―――カルマの胸を虚ろな空白が満たす。幻の時間は終わったのだ。
 声すら発しない自分を怪訝に思ったのだろうか?スノウは心配そうな表情を浮かべて、大丈夫?と尋ねた。
「………大丈夫って…何が?」
「だって、君………」
 瞳に困惑したような色を浮かべながらも、スノウは躊躇うことなく、カルマの手に触れた。
「……泣いてるよ、カルマ」
「え……?」
 驚きに瞬いて、それで初めてカルマは自分の頬を伝うものに気がついた。慌てて拭ってみても、一度流れ出した涙は堰を切ったかのように止まらず。
 泣くつもりなんてなかったのに。スノウの顔をまともに見ることが出来ず、カルマは両手で顔を覆って俯いた。
「…ごめんなさい…ごめんなさい…スノウ…」
「…なんで、君が謝るの…?」
 困惑した表情のままで、それでも両肩に置かれた優しい手の温もりに、堪えきれず嗚咽が漏れる。
 紡がれた旋律、ピアノに向かう君の背中が――あの頃に帰りたいと叫んでいるようで。
 君の幸せを奪った罪を、眼前に突きつけられたようで。
 それでも僕を責めない君の優しさが胸に痛くて―――。
 僕の所為なのに…君が全てを無くしたのは僕の所為なのに―――!!
「…ごめん…なさ…」
「カルマ…」
 罪も罰も、贖いも許しも―――全てを包み込むように、スノウはカルマの身体を優しく抱き締める。
「大丈夫だよ、カルマ…。僕は…僕達は、大丈夫だから…」
 耳元で己自身にまでも言い聞かせるかのように、大丈夫だと繰り返す彼の言葉が愛しくて。
 溜め込んだ思いを全て吐き出すかのように、カルマはスノウの胸に縋り付き、声を殺して泣いた――。



 差し込む陽射しは、いつしか柔らかな黄昏色へとその姿を変えている。
 カルマは別れを惜しむかのように、ピアノにそっと触れた。赤く泣き腫らした目を伏せ、小さく、ありがとうと呟く。
 ありがとう。楽しかった日々。僕はけして忘れない。
 そんな彼の様子を見守っていたスノウは、ふっと微笑むと、白い鍵盤に指を掛けた。
「もう一度だけ、最初から弾こうか」
「え?」
「ダ・カーポだよ」
 果てない未来を見詰める瞳で、スノウは言った「最初に戻る、という意味さ」
 失ったものは戻らなくとも、もう一度最初から始めることは出来るから。
「何もない今なら、一から築いていけばいい」
 きっと同じ曲を弾いても、あの頃とは違う音色を奏でられるよ、と。
 青灰色の瞳に穏やかな光を湛えて、スノウは笑った。




 優しい決意を込めた旋律が、黄昏色の空に流れて溶ける。
 それはきっと―――まだ見ぬ未来への序曲。
















「スノウってピアノ弾けそうだよね…!!」と友人と話していて出来た話。
うん、ヤツは芸術系には強そうだ。楽器とかもひととおりこなせると良い、でも一番似合うのは
きっとグランドピアノだ。でもって4主はきっと傍で微動だにせずに聴き入っているに違いないよ…!!
等々、妄想色々詰め込んで書いてみました(笑)
妄想を優先させるあまり、ラプソの設定は軽く無視で す…(爆)
それにしてもウチの4主はスノウの前だとよく泣くなぁ…。





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