星月夜















 この船で不寝番の任についたのは今夜が初めてだった。
 昼間の見張りは主にニコが担当しているけれど(というか、あれだけの長い時間をこの見張り台でたった一人で過ごしていられるというのが信じられない。僕にはとても無理だ)、夜間の見張りは男性の乗組員全員での当番制になっている(ジュエルやポーラ、ウェンデルのように自ら進んで不寝番を引き受ける女性も中にはいるけど)。軍主である彼自身もその役回りの中に組み込まれているというのだから驚きだ。尤も彼が守られるだけの立場に殉じていられる人間だとも思えないのも確かだったから、驚きはしても意外だとは思わなかった。人を率いる立場になっても、こういうところは昔と少しも変わっていない。
 そんな彼だけど、実は僕がこの任に着く事に関しては少し渋ったらしい。僕が今までこういった役割を経験したことがないのを知っているだけに、余計な心配をしてしまうんだろう。訓練生時代にラズリルを離れての長期演習に参加した時も、僕だけはオーナーの息子という理由で不寝番の任を免除されていたから。
 あの時の僕はそれを当然のものとして受け取ってしまっていたけど、今なら自分がどれほどに恵まれた立場にいて、しかもそれに甘えていたかがよくわかる。あの時と今とでは事情がまったく違う事はカルマもわかっているんだろうけど、それでも僕に対して気を遣ってしまう癖が抜けないのはやはり長年に渡って染み付いた習慣というものなのだろうか。そう思うと何だか申し訳ないような気になってくる。
 結局、軍主である彼ですらやっている事なのに、下っ端の僕がお役御免という訳にもいかないだろうということで、僕にも無事に(?)この任務は回ってきた。
 夕刻、見張り台に登ろうとする僕を心配そうに見送った彼の顔が忘れられない。たった一晩、寝ずの番をするだけなのに、過保護なところは相変わらずだ。尤も、自分がこれほどまでに彼に大切にされていたのだと気付いたのは今の立場になってからなのだから、なんとも皮肉なものだと思う。
 よく晴れてはいたが、風の強い夜だった。船の一際高いところにある見張り台は、当然のことながら吹き付ける風をまともに受ける。
 足場の枠組みはしっかりしているので、激しく揺れたりすることはなかったが、手摺りのほうは残念ながら隙間だらけで、風除けの役割は期待出来そうになかった。
 一年を通じて気候の穏やかなこの地域は、夜になってもさほど気温は下がらない。それでも陽光を含まない夜の風は、長い時間を掛けて少しずつ、僕の体温を奪っていく。たかが一晩…と高を括って薄着のままここへ来てしまったことをちょっと後悔する。せめてマントぐらいは持って来ておくべきだった。
 今から取りに戻ろうか、でも持ち場を離れるのは…と逡巡した時に、見張り台の下方から物音がするのに気付いた。継いで軋むような振動が伝わってきて、誰かがこの見張り台に登ってこようとしているのだとわかる。身を乗り出して下を覗き込めば、案の定毛布を抱えたカルマが風に煽られながら上がってくるところだった。
「どうしたんだい?こんな時間に来るなんて」
 手を伸ばして、狭い見張り台の中に引っ張りあげてやる。カルマはふうと一息つくと、風に掻き乱されて顔に掛かった髪を払った。
「差し入れ。スノウ毛布持って行かなかったでしょ。今夜は風が強いから寒いと思って」
 僕が風除けになるようなものを持ち込んでいなかったことに彼が気付いていたとは思わなかったので素直に驚いた。余程注意力が鋭いのか、それとも相手が僕だから余計なところにまで気を回してしまっているのかどうかまではわからなかったけど、取り敢えず今はその厚意が有り難い。
「わざわざ届けに来てくれたのか。ありがとう」
 毛布を受け取ってそういうと、カルマは嬉しそうに微笑んだ。だが、用件を済ませてそのまま梯子を降りて行くかと思いきや、狭い見張り台の中に座り込んでしまう。
「どうしたの?部屋に戻らないのかい?」
 そう訊くとカルマは立ったままの僕を見上げて、少し困ったような表情をした。
「登って来たら疲れちゃった。此処で少し休ませてよ」
「………」
 嘘だということはすぐにわかった。昼間、訓練所であれだけ激しい剣さばきを披露しておきながら息一つ切らしていなかった彼が、たかだか見張り台の梯子を登ったくらいで歩けないほど疲れるはずはない。結局は過保護なんだな…と嘆息しつつもそれを咎める気にはなれなかったのは、やはり僕も彼が此処に来てくれたことを嬉しいと思っていたからなのかもしれない。
 受け取った毛布を広げると、かなりの大きさがあった。人ふたりは余裕で包み込めそうなそのサイズに、僕は苦笑を禁じえない。どうやらカルマは最初から此処に居座るつもりだったらしい。
やれやれと軽く肩を竦め、僕はそれで自分の身体を包むと、余った部分を彼の上におっ被せた。
「わっ!!?」
 突然頭の上から降ってきた物体に、カルマは短く悲鳴を上げてじたばたともがく。ようやく毛布の中から顔を出す事に成功した彼は、何するんだよと言いたげな表情で軽く此方を睨んだ。僕は気付かない振りをして、彼と背中合わせの格好になるように座り込み、もう一度、自分達の身体の上に毛布をしっかりと掛け直した。
 風は相変わらず強かったけれど、毛布の中は二人分の体温ですぐにいっぱいになる。背中越しに伝わって来る彼の鼓動に、酷く安心した気持ちになって…けれどもそれが何故か切なくて、僕は小さく吐息を洩らした。
 と、ふいにカルマが言った。
「スノウは覚えてる?昔こうやって、二人で星を見た時のこと」
「…え?」
「ほら、スノウが流れ星が見たいって我侭言って。子供はもう寝る時間です!!って叱られたのに諦められなくてさ。こっそり毛布を納屋に持ち込んで、二人でそれに包まりながら、窓の外の星空をじっと見てて…けど結局は途中で寝ちゃって。朝、探しに来た女中に二人して大目玉喰らったこと、あったよね」
「そ、そうだったっけ?」
 思わず惚けた反応を返してしまったけど、本当は鮮明に覚えていた。過去の自分の我侭振りを蒸し返されるのはどうにも決まりが悪い。
 遠い昔、フィンガーフート家の狭い箱庭だけが世界だった日々。あの頃の僕はこの世に怖い物など何一つないと信じ込んでいた、無知で傲慢な子供で。そしてカルマはそんな僕に呆れながらも、いつも進んで僕の我侭に付き合ってくれていた。
 とても恥ずかしくて、情けなくて…けれど楽しくて、幸福だった世界。
「こうしてると、あの頃に戻ったみたいな気がするね…」
 吹きすさぶ風の咆哮に掻き消されそうな声で、カルマは呟いた。
 過去にどれだけ思いを馳せようと、流れ落ちた時間が戻るはずもないのだけれど。背中に感じる温もりは、僕の記憶を簡単に思い出の場所へと還す。
 見上げた空には、あの時と同じ満天の星。ほら、手を伸ばせば掴めそうなほどに。
 ―――けれど、幾ら背伸びをしても、捉えるどころか触れることすら叶わないと…思い知らされたのはいつからだっただろう―――。そう、それはまるで、君の背中のように―――。
 小さな、弟のような存在だった君は、僕にとっては守るべき存在だった。この世界で君を守れるのは僕しかいない。そんな子供じみた使命感すら抱いた。
 だけどそれは、君を救うことによって得る優越感に縋りたいだけだったのかもしれない。いつも僕の後ろにいると信じて疑わなかった小さな背中は、気がつけば僕を追い越して、時折こちらを振り向きつつも遥か前を走っていた。
 そしていつかは振り向いてくれることさえなくなった背中は、僕をたった一人置き去りにして消えてしまうのではないかとの不安を拭い切れず、僕は殊更君の前で尊大な態度を取り続ける事で、目の前の現実を否定しようとした。自分が君よりも上の立場であるという事を周囲と自分とに示し続けていかなければ、僕は自分の弱さから自分を守ることが出来なかったんだ。
 けれど僕の弱さは結局、追い続けていた星空を自らの手で遠ざけた。
 僕に甘い夢を見せ続けてきた、箱庭の世界を代償にして―――。




 どれほどに望んでも、失われた日々は戻らない。
 夢の楽園は儚く消え去り、僕の世界は急速に―――影すら残さず変わってしまった。
 そんな中、僕は奇跡のように、失った星空に再び巡り会えたのだけれど。それは安堵感と同時に、届かないものに手を伸ばす事への愚かしさを、この目にまざまざと見せつけたのだった。
 君を大切だと―――守りたい存在だと思う気持ちそのものに偽りはなかった。だけど、自分自身の感情すら満足に制御することが出来ず、純粋だった決意をいつしか歪んだ依存に摩り替えながら君と接してきた僕に、今更そんな思いを抱く資格があるのかどうか―――僕には自信がない。
 他ならぬこの手で君の帰る場所を奪ってしまった罪を、僕は一生背負っていかなくてはならないのだから。
 僕達はもう子供ではない。
 どれほど渇望しても、あの頃に戻る事は出来ないのだ―――。




「でも…」
 応えない僕の気持ちを、それでも余すことなく汲み取ったかのように、カルマは言葉を続ける。
「僕は今のこの時も、幸せだと思うよ」
 思わず振り向いた僕に、背中越しに軽く視線を合わせてみせながら、カルマは僕のよく知っている穏やかな微笑を浮かべる。
「ここはラズリルじゃないし、僕達はもう騎士団員じゃないけれど、それでも今のこの時を君と共に歩める事が、僕には嬉しいんだ」
 君をあれほどに傷付けた僕なのに、どうして君は僕にそんな穏やかな笑顔を向けられるのだろう。
 僕は君を信じる事が出来なかったのに、どうして君はこんな僕を最後まで信じ続けようとしたのだろう。
 僕が努力しても出来なかった事を君が易々とこなしてしまう様は昔からよく目にしてきて、その度に嫉妬と理不尽な怒りとを胸に滾らせてきたけど…今ならわかるような気がする。僕が何故、君に敵わなかったのかを。悔しいとさえ思わず。
 そしてそんな君を、今ならありのままに認め、受け入れる事が出来るような気がする。
 喩え、あの箱庭の楽園に戻る事など出来なくとも。
「僕も、君とまたこうして一緒にいられる事が、本当に嬉しいよ―――」
 これが偽りない、今の僕の正直な告白。君は嬉しそうに頷いて、また前を向く。
 僕もちょっと笑って、また前に向き直ったけど―――背中に掛かる重みがふいに増したような気がして、慌てて後ろに声を掛けた。
「ちょ…!!ちょっとカルマ、こんな所で寝ちゃダメだよ!!」
「ん、大丈夫……少しだけ…だから…」
 眠気の所為で掠れた声で応えたかと思うと、カルマはすぐに軽い寝息を立て始める。大丈夫とか言われても、見付かったら叱られるのは僕なんだけどな…などと思いながらも、僕は自分の背に掛かる重みと、伝わってくる温もりとを離れがたく感じていた。
 星空のように遠い背中、どんなに手を伸ばしても届かないと思っていたものが、今は確かな形をもってここに存在する不思議。
 もしかして、届かないと思い込んでいただけで、本当はすぐ近くにあったのかもしれないもの。




 こうして、僕に無防備に背中を預けてくれる君の、ひとときの安らぎを守ることなら、今の僕にも許されるかもしれないと。
 今にも降って来そうな満天の星空を見上げて、僕は密かに思いを馳せた―――。
















結局うちの二人はお互いに依存しあう関係から抜け出せないのかもしれません。
が、多分本人達は幸せなので、ま、いっかと(笑)
というか、書き始めた時は擦れ違いのまま終わらせて切ない締め括りにしようかと考えていたのですが
書き進めていくうちに何故かほのぼのハッピーエンド路線に勝手に移行しました…あれ?(笑)





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