サヨナラ















 解放成ったラズリルの街は、騒々しいほどの活気に満ち溢れていた。
 整備された石畳と、白亜の煉瓦造りの建物の並ぶ美しい街である。クールークの占領下であった時に暴動でもあったのか、修繕ならぬまま放置された破壊の爪痕も時折見受けられるが、人々はそんな事などお構いなしに世話しなく行き交い、喜びの笑みを交し合う。その様子はテッドの目には、まるで過去の屈辱から無理に目を逸らそうとしているかのように映った。
 補給が済むまでの数日の間、ブリュンヒルデ号はこの港に停泊を余儀なくされている。連戦に継ぐ連戦で疲弊しきっていた人々は、久々に訪れた束の間の休息を思い思いに楽しんでいた。停泊中はラズリル市街での自由行動も許可されていたから、船には戻らず、街で過ごす者も中にはいるようだった。
 尤も、軍主であるカルマ自身はこの街にあまり良い印象を持ってはいないようだ。上陸の際、解放の英雄を熱狂的に出迎えた人々に、カルマはいつもの穏やかな笑みを浮かべて見せてはいたが、船に戻った時に彼が吐き捨てた言葉を、テッドは忘れていない。
「前にこんな言葉を聞いたんだけどね。『一人を殺せば殺人者だけど、百人を殺せばそれは英雄だ』って。僕は冤罪でこの街を追放され、百人を殺した大罪により街に戻る事を許された訳だ。英雄なんて所詮、人にとって都合の良い夢想でしかないんだね。余りのくだらなさに吐き気すら覚えるよ」
 ―――だから、彼がここに来ているとは思ってもみなかったのだ。
 擦り切れかけた手袋を買い換える為に、億劫だとは思いながらもテッドはこの港町へと来ていた。さっさと用を済ませて、船へ戻ろうと雑貨屋の扉を開けた時に、視界の端を見覚えのある赤いバンダナが横切っていくのが映ったのである。
 アイツ―――、あんなところへ?
 軍主が入っていったのは、人気の少ない裏通りへと続く道のように見える。この先に目ぼしい店がないだろうことくらい、この土地は初めてのテッドにでもわかる。ならば、彼の目的は買い物ではあり得ない。一体何をするつもりなのか―――放っておこうかとも思ったが、結局は好奇心に負けて、テッドはカルマの後をつけるように裏通りに足を踏み入れた。
 だが、さほど進まぬうちに、テッドは軍主の後ろ姿に追いつく。
「―――――」
 寂れた廃屋、乱暴に杭を打ちつけられた入り口の軒下、通りに背を向けて、カルマはそこに佇んでいた。その表情は髪に隠れて見えないが、胸の辺りで組まれた両手に厳かな祈りの雰囲気を感じ取って、テッドは怪訝に思い、次いで俯く彼の視線の先を追って、ああ、と小さく呟いた。
 テッドは静かに歩み寄った。肩を並べる位置ではなく、その三歩ほど後ろに立ち止まる。
 振り返らない背中は、来訪者を拒絶するでも受け止めるでもなく、ただただ沈黙をもって迎えた。
 カルマの足元に、一匹の猫が横たわっている。生来のものであろうか、左の後ろ足がなかった。元は白かったのだろう毛並みは薄汚れて半ば茶色く変色している。閉ざされた目と、だらりと開いた口から力なく垂れ下がった舌に、この小さきものの魂は既に彼岸に発った後であることは容易に見て取れた。
「――――知り合いか?」
 猫相手に知り合いというのも変な話だとは思ったが、行き摺りの小さな死を悼むにしては余りに沈痛に思われるカルマの様子に、テッドはそう尋ねた。
 あれほどまでに嫌っているこの地を敢えて踏むのも、馴染みの友に会う為なのだと思えば納得出来る。
「………よく、餌をやってた。スノウと一緒に……」
 案の定だ。低く落とされた声に抑えきれない無念が滲み出ている。予期せぬ突然の別離がそのまま永遠のものとなった現実を前に、打ちひしがれた少年の背中は普段の彼からは想像も出来ないほどに、儚く、弱々しく見えた。
「お屋敷で飼うことは、許して貰えなかったから…せめて餌だけでもって思って…。スノウと二人で食事の余り物を持ってよく此処まで来た……。僕と……スノウが…この街を去ったあと、どうしているかとずっと心配していた。…足が不自由だから…一人で生きていくのは難しいから…誰かいい人に巡り会って、幸せに暮らしていれば良いのにと…そう、思っていたんだけど…」
 これ以上は声にならないといったように、カルマはそこで言葉を切った。痛いほどの静寂が辺りを満たし―――テッドは何も言えずに唇を噛み締める。
 猫の身体には目立った外傷は見られない。おそらく不自由な身体で満足に餌にありつく事が出来ず、飢餓に倒れたのだろう。庇護を失った小さい命は、人間の欲望と謀略に翻弄され続けたこの街で、誰にも省みられる事無く、静かにその生を閉じたのである。
 消え行く命が最後に思ったのは、自分を置いていった者達への恨み言だろうか?己の身に突然降りかかった不幸に対する嘆きだろうか?それとも生きることの苦しみから解放された喜びと安堵感だろうか?けして出るはずのない答えだとわかっていながら思いを馳せずにいられないのは、不幸にして起こった死に、彼とそして自分の命の行く末とを重ねてしまうからなのかもしれない。
 何も言わず、何も言えず―――それでもテッドは猫から目を離す事が出来なかった。消えた命の前に俯いたまま立ちすくむ少年を置いて立ち去る事も出来なかった。
 息が詰まりそうな静寂が周囲を重く包み込む中、時だけが静かに…砂のように静かに流れていく。
 どれくらいの間そうしていただろう。やがて少年は意を決したかのようにひとつ息を吐くと、冷たくなった猫の身体を抱えた。薄汚れた毛で服が汚れるのも構わずに。
「…送ってあげなくちゃね」動かない猫の背中を優しく撫でながら、カルマは言った。「誰にも看取って貰えなかったのだから、せめてお墓くらいは…」
「墓?水葬じゃないのか?」テッドは僅かに首を傾げた。死者の身体は海に還すのが一般的な慣わしとなっているこの海域の住民である少年の口から、墓という言葉が出たのが意外だったので。
 カルマは顔を上げ、此処へ来てから初めてテッドの顔を見た。碧い瞳に少しばかり戸惑ったような色が浮かんでいる。
「猫は―――泳げないから、海に流すのは可哀想かな、って思って…」
 それを聞いてテッドは妙に納得してしまった。思わず口許に浮かびかけた苦笑を誤魔化すようにかぶりを振りながら、テッドはカルマの傍らまで歩み寄り、肩に手を置いた。
「見送り―――一人だけじゃ、寂しいだろ。コイツも…」
 カルマは一瞬驚いたように息を呑み、それから海色の瞳を微かに細め…嬉しそうに―――少し寂しそうに、微笑んだ。


 街外れの、海を見渡せる丘に、二人は小さな墓を作った。
 墓標の代わりに、歪な形の石ひとつ。豪奢さなど欠片もない質素な野の花で包まれた小さな身体を守るように、そっと、その場に据えられる。
 海鳴りの音を遠く聞きながら、カルマは静かに墓の前に跪いた。石の表面にすっと指を滑らせ、囁くような声で、さよなら、と呟いた。
 少年から、やはり三歩ほど下がった後ろに、テッドは佇んでいた。大地に抱かれ眠りについた小さな命に、同情と哀惜、そして少しばかりの羨望の念を覚えながら。
 ―――誰にも看取って貰えなかったのだから、せめて見送りだけでも―――
 果ての無い大海に一人流され、苦境に立たされながらも、彼はこの小さな友の存在を忘れなかった。
 誰にも知られず消えた命を嘆き、その躯を大地へと還し、そしてまたいつか生まれ変わった魂が、再びこの世に帰って来られるよう、心からの祈りを捧げて。
 それほどに大切にされた命が、幸せでなかったはずはないと、確信めいた思いすら抱く。
 琥珀色の眼差しは、物言わぬ黒衣の背中に問い掛ける。
 カルマ。おまえは?
 誰かに看取られることも、送られることも、海に還ることすらけして叶わぬ定めを負わされて。
 それでもおまえは軍主で在る為…立ち止まらぬ為に、泣く事を己に禁じるのだろう。
 彼とて、怖くないはずはないのだ。残された時間はけして長くはない。戦いの決着はそのまま彼の命の終焉をも意味する。次にラズリルを発てば、もう此処へと戻って来る事はないかもしれない。さよならの言葉は半分は、きっとこの街へと向けられている。
 カルマも、最初からこの街が嫌いであった訳ではないだろう。ここは確かに彼の故郷であり、彼の愛した人々が暮らしていた場所だから。愛した者に囲まれて過ごした日々を幸せだと感じた頃も、かつてはあったに違いない。彼はこの墓に、幸福だった頃の記憶と彼自身の未来をも、共に葬ったのである。
 だからせめて。
 この限られた時間の中だけでも、彼に彼自身の為だけに、生きて貰いたいと思う。
「―――泣きたいなら、泣けばいいさ」
 ぶっきらぼうな呟きを耳にして、カルマは微かに身じろぎする。黒衣の背中から視線を外し、遠い海と空に挟まれた幻のような境界線を静かに見詰め、テッドは言った。
「俺は何も見てない。だから何も知らない。だから―――気が済むまで泣けばいい」
 抱え込んだ弱音も絶望も、今なら悼みの涙に流せるから。
 振り向かずとも、カルマが薄く微笑するのが気配でわかった。
「……大丈夫……大丈夫だよ………」
 ひと言ずつ、噛んで含めるように――――自身に言い聞かせるかのように繰り返すその瞳は、きっと濡れてなどいないのに違いない。
 けして立ち止まらないとの誓いを果たす為に、幾つもの嘆きを自らの胸のうちにのみ閉じ込めて、少年はまた歩き続けるのだろう。
 それでもテッドは水平線から視線を逸らそうとはしなかった。
 面を上げない彼の代わりに、この場所を、この景色を、この世界を、せめて覚えておこうとするかのように、精一杯に瞳を凝らして。






 海鳴りは低く、歌い続ける。
 原始の力を負わされながら、それでも人ならぬ者にはなれぬ小さな命を、嘲笑うかのように。癒すかのように。



 舞い降りた黄昏がその濃さを増し、街に夜の帳が下りるまで、二人は言葉もなく、風吹く丘に佇んでいた―――。
















テッド絡みだと何故か暗い話にばかりなってしまう…!!
どうにもこうにも、この二人の微妙な距離感を私自身掴みきれていないらしく、
テッドを書くときは常に全力で四苦八苦です…そして玉砕です(爆)
格好良いテッドが書けるようになりたい…!!

余談ですが、4主の「一人を殺せば〜」の下りは私が過去に実際に聞いた言葉です。
…が、出典を忘れました(爆)う〜ん、何処で聞いたんだっけかな…?





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