凪の日















 嵐のような日々の合間に、ふいに訪れる凪は酷く優しい。




 麗らかな昼下がり。
 黄昏が舞い降りる刻限にはまだ早いが、陽射しは既に射るような強いそれから、柔らかいものへと移り変わりを見せている。
 一日で最も穏やかな時間が静かに流れていた。
 細波と海鳥の声を心地よく耳にしながら、青に包まれた世界を眺める。時折吹き抜ける弱々しい風が、遠慮がちに髪に絡んではまた、何事も無かったかのように去ってゆく。
 ささやかな風のように頼りなげな足音が自分のすぐ後ろで止まったのを、カルマは夢の中にでもいるような気持ちで聞いていた。
「少し…訊いてもいいかな?」
 足音の主はやはり自分の想像していたとおりの人で。しかし、相手との距離を計っているかのようなおずおずとした話し方は、これまであまり耳にした覚えのない類のものであった。
 カルマはゆっくりと後ろを振り返った。途方に暮れた迷子の子犬のような瞳で、スノウはこちらを見詰めている。
 震える唇で、彼は恐る恐る言葉を紡ぎ出した。
「どうして君は僕を………助けたりしたんだ?」
 唐突な。そう、随分と唐突な問いだった。だがきっと当の本人にとっては唐突でも何でもなく、おそらくはこの船に乗ったその瞬間より、心に抱き続けてきた思いに違いない。
 過去の栄光という仮面を失った彼の素顔には、かつての毅然とした貴公子の面影は残っておらず、不安と諦めの入り混じった瞳は、裁きを待つ咎人のそれに似て、カルマの胸を切なく刺した。
 尤も、彼にそれを捨てさせたのは他ならぬ自分であったのだけれど。
「スノウは…死にたかったの?」
 感情を抑えた声で、淡々と、カルマはスノウに問いを返す。スノウは一瞬目を見開くと、すぐに何かを考え込むような表情になり―――そして長い睫に彩られた瞳を伏せ、俯いた。
「――――わからない……そうかもしれない……」
 呟かれた言葉は力なく、細波にすら掻き消されてしまいそうで。
 自分の選択は彼にとっては苦痛でしかなかったのかもしれないと、哀しく思ったりもするのだけれど。
 それでも、これだけは譲れないと誓ったから、カルマは迷いのない声で告げる。
「君を殺さなかったのは、僕のエゴだよ」
 スノウは何かに弾かれたようにカルマを見た。その顔には明らかに戸惑いの色が浮かんでいる。
 けれど、喩え何度決断を強いられたとしても、自分の選ぶ答えは一つしかないと知っているから。
 自分勝手な望みでしかないと理解はしているけれど、どうか彼には受け止めて欲しいと思う。
「喩え、君が人生に絶望していても。死を望んでいたとしても。
生きることは苦痛でしかないと思うようになっていたとしても。
それでも僕は、君に――――生きていて欲しいと思ったから。
死こそが、君を苦しみという呪縛から解放する唯一の手段なのかもしれないと思いながらも、それでも君がこの世界から消えてしまう事には耐えられなくて、無理矢理繋ぎとめた」
 そう、僕はきっと、優しい人間なんかじゃない。
 これから先の君の未来に、どんな困難があるかなんて考えようともせず、ただ失いたくないとの思いだけで、君を死の淵から救い上げた―――君が本当は何を望んでいたのか知ろうともせず。
「カルマ―――――――」
「だから…本当なら、僕は君に謝らなくてはならないのかもしれない」
 柔らかい陽射しの中。凪の日に、二人の間を遮るものは風すらもなく。
 ぶつかり合う二対の瞳が互いの姿を映して、微かに揺らいだ。
「でも、そんなの悔しいから僕は絶対に謝らない。
 その代わりに、もっと違う言葉を君に言うよ」
「え………?」
 瞬きを繰り返す青灰色の瞳の中、黒衣の少年は穏やかに、しかし鮮やかに微笑んだ。
「ありがとう」




 生きていてくれて、ありがとう。
 帰って来てくれて、ありがとう。




 スノウは涙を堪えるかのように顔を歪ませると、再び俯いてしまう。その肩が微かに震えているのがわかった。
「ずるい…ずるいよ、君は……。そんな事を言われてしまったら……
…生きたいと思うほか、なくなるじゃないか―――――」
 苦しみしかない生だと君は思うかもしれないけど。
 僕の傲慢な願いはまた、君に辛い思いをさせてしまうかもしれないけど。
 もしそうなったならその時は、僕を憎んでくれても構わないから…。
「スノウがそう思ってくれるのなら、僕は幾らでもずるくなれるよ」
 これも罪だというのなら、僕は喜んで罰を受けよう。
 けれど、喩え贖いの業火にこの身の全てを焼き尽くされたとしても、後悔はしないと今は言える。




 祈るように目を閉じて、俯いたままのスノウの腕をそっと両手で掴んで引き寄せる。
 スノウは無言でカルマの肩に顔を伏せた。震えるような吐息がカルマの首筋に触れる。
 泣きじゃくる幼子をあやすかのように、カルマは痩せたスノウの身体を優しく抱き締めた。




 大切な……大切な人だから。
 どうか、生きて―――幸せになって欲しい。






 そう遠くない未来に、君を置いて逝ってしまわねばならない僕の最後の我侭を。
 どうか君よ…聞き届けてくれますか―――?













「未来絵図」の後書きにも書きましたが、この時はまだ誰もグッドエンディングの存在を知りませんから
4様がかなり悲劇のヒーローちっくになってます(苦笑)
当サイトの設定では、命を削られなくなるのはエルイールでの最終決戦の後なので
スノウが仲間になった後も、色々と紋章絡みの波瀾は起こっていると思われます(苦笑)
ごめんね、二人とも。鬼な作者で(笑)



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