考えるより先に身体が動いた。 今考えれば恐ろしく無茶な事をしたと思う。幾ら海で泳ぐことにも慣れているとは言っても、それはあくまで波の穏やかな日の遊泳か、もしくは騎士団の訓練でのこと。潮の流れの早い、しかも岸からどれほど離れているかすらわからない外海に、身一つで飛び込むのは初めての経験だった。 助けが来なかったら、僕はきっとそのまま命を落としていただろう。戦乱の終結を見ることもなく。 でも…そんなことはわかっていたけど…それでも僕はあのまま見過ごす事は出来なかったんだ。 奈落に通じているんじゃないかと思えるほどに昏く深い碧の嵐、その狭間に一瞬浮かんだ翡翠色。 初夏の風を思わせる鮮やかな緑は、僕に最も優しい時間をくれた人の、確かに生きた証だったから。 あの緑が、一人暗闇の中へ沈んでいくのを見るのは、僕には耐えられなかったんだ――― |
…あれはそう、もう10年ほど前のことになるだろうか。 僕はいつものように、屋敷の裏庭で薪割りをしていた。 そこへ――――、 「カルマーー!!」 弾むような声が後ろから聞こえた。振り向くとスノウが嬉しそうな笑みを浮かべて、こちらへ駆け寄って来るのが見えた。 その、スノウが纏っている衣服を目にして、僕は思わず言葉を無くした。 スノウは「自分の名前に因んだ色だから」と言って普段は白い服を着ている事が多かった(以前に得意そうに教えてくれたんだけどスノウというのは北方の言葉で『雪』というものを意味するらしい。白くてふわふわして、とても綺麗な物なんだと、スノウは僕に語ってくれた。彼が本物の雪を見たことがあるのかどうかは知らないけれど)。でも、今日彼が身に着けていたのは、袖口や胸元に豪奢な刺繍を施された、鮮やかな緑色の服だったのだ。 僕が目を丸くしているのに気付いたんだろう、スノウはちょっと気取った調子でくるりと回ってみせると小首を傾げてにっこり笑った。 「どうかなカルマ?似合う?」 「…どうなさったんですか、スノウ様。その服は?」 「明日、中央(ガイエン本国のことだ)から偉い方が来るんだって。それでウチで歓迎のパーティをやるんだけど、それに僕も出なさいって父様に言われたんだ。これはその為の服。父様が特別な日だからって、特別に作ってくれたんだよ。ついさっき仕立て屋から届いたばかりのを、ちょっとだけ着せて貰ったんだ」 つまり、伯爵様はとうとうスノウを社交の場へ出す決意をしたという事だろう。まだ十になるかならないかのスノウには少し早過ぎるのではないかという声も当時はあったようだが(勿論これは後でわかったことだけど)、とにかくスノウはフィンガーフート家の跡取りとして、新たな一歩を踏み出す事になった訳だ。その意味を充分にわかっているのかどうかはともかく、スノウ自身は来るべき特別な日の為に御めかし出来ることが単純に嬉しいらしい。 「とてもよくお似合いです、スノウ様」 僕はやっとの思いでそれだけ言った。…というよりもそれしか言えなかった。 陽射しの中、鮮やかな緑色を纏ったスノウが、余りにも眩しく見えたから。 僕は本物を見たことはなかったけど、翡翠という宝石はきっとこんな色をしているのだろう。 美しく、上品なその色合いは、スノウのくすんだ金髪と青灰色の瞳によく似合っていた。 「2人だけの時にはスノウ様って呼ばない約束だろ?でもカルマがそう言ってくれて良かった」 スノウの表情はころころ変わる。様付けで呼ばれたことに一瞬は剥れてみせるが、次の瞬間には弾けそうな笑みを浮かべて、僕の手を引っ張った。 「す、スノウ様…じゃなかったスノウ、何処へ!?」 「薪割りなんか後でもいいよ。それよりも街へ行こう!!皆にもこの服を見せてあげたいんだ!!」 きっと屋敷へ戻れば、出来立ての上等な服はすぐに取り上げられてしまうのだろう。だが、普段滅多に着る事の出来ない服、特別な証は少しでも長く身に着けておきたいものだ。大切な服を本番前に汚されでもしたら大変だと思っているであろう女中の気持ちは、しかし残念ながら彼には届いていないと見える。スノウはこのまま街へ繰り出すつもりらしい。 「でも、きっとお館様がお探しなさるよ。大事な服が汚れたりしたら大変だし」 「すぐに帰って来ればいいよ。折角着せて貰ったのに、すぐに着替えちゃうなんて勿体無いじゃないか」 スノウが一度こう言い出したら梃子でも動かせないのはよく知っている。 先の思いやられる展開に、抑えきれない溜息を漏らしながらも僕は言った。 「わかったよ…お供致します。スノウ坊ちゃま」 街へ出てからというもの、スノウは絶えずはしゃぎ続けていた。擦れ違う人々に得意気に服を見せ、「お似合いですね」という声でも掛かろうものなら、上気した頬にさも満足そうな笑みを浮かべた。その余りにわかりやすい態度に、流石の僕も苦笑いを堪えきれなかったけど…でも、翡翠色の服を纏って華やかに笑うスノウは本当に綺麗だったから、そんな彼と並んで歩けるのが…ちょっと誇らしくもあったんだ。 だけど調子に乗り過ぎて、時間が経つのを忘れたのがいけない。気が付くと、いつの間にか太陽は遥か水平線の彼方に半ば沈みかけていた。 「スノウ、流石にこれ以上遅くなるのはマズイよ。叱られるよ」 「そうだね、わかった。もう帰ろう」 夢中になって歩き続けたからだろう。僕らはお屋敷から随分と離れた場所…港のほうまで来てしまっていた。 表通りをぐるっと周って行ったのでは、子供の足だと屋敷に着く頃には日が暮れるだろう。 「近道しよう」 スノウが通ろうと行ったのは、僕も全く足を踏み入れた事のなかった裏通りだった。 確かにここを巧く突っ切れれば、表通りを行くよりは遥かに早く屋敷まで辿り着くだろう。だけど裏通りは細い道が幾つも複雑に絡み合っていて酷くわかり難い構造になっていると聞いた事がある。それに最近では金品目当てで通行人を襲う強盗や人攫いの類も度々出没しているらしい。ラズリルはこの周辺の海域の中では比較的治安の良い場所ではあったけれども、日の光の当たらない場所には、まだまだこういった危険が数多く存在した。 だが、今のスノウには姿の見えない強盗や人攫いよりも、お館様の雷のほうが怖かったようだ。 「大丈夫、太陽が出ているうちに急いで通れば怖くないよ。ちゃんと僕の後について来るんだよ」 スノウはそう言って、ずんずん歩を進めて行ってしまう。見失っては大変だから、僕も慌てて後を追った。 裏通りは聞いていたとおり、酷く複雑で、慣れない子供二人は、すぐに道に迷った。 見慣れない場所に、先ほどまでの強気はあっさり挫けたらしい。スノウはの足はすぐに速度を失い、大きな青灰色の瞳には不安の火が色濃く灯った。 僕はスノウの手を握り、方向感覚だけを頼りに屋敷へ向かって歩き続けた。 が、幾らも進まないうちにだ。 目の前に、見るからに怪しい人影が何人も現れ、こちらへと向かってきた。 どうやらもう一つの…強盗や人攫いがいるという話も本当だったらしい。 こちらは子供二人。しかもそのうち一人は明らかに身なりの良い格好をしている。領主の息子だと知っていたのかどうかはわからないが、どこぞの金持ちのお坊ちゃまだと思われたのは間違いないだろう。金蔓は逃がすなとばかりに、人攫い共は足音も高く迫ってくる。スノウがひっと息をのむ声が聞こえた。 「スノウ、こっちだ!!」 僕はスノウの手を一層強く握り締め、脇の小道へと飛び込んだ。多勢に無勢、オマケに年の差も体格差もありすぎる。とにかくここは逃げるしかなかった。細い路地を幾つも曲がり、壊れかけた垣根を掻い潜り、夢中になって駆け抜けた。 途中、スノウは小さくあっと言って、そのまま転んでしまった。繋いだはずだった手は、いつの間にか離れてしまっていた。 僕は慌ててスノウに駆け寄り、抱き起こした。そしてその手を、今度こそ離すまいと強く掴んで、また駆けた。 地の利は向こうのほうがあるはずなんだけど、こちらのほうが小回りが利いた所為か、それともたまたま運が良かったのかどうやら追っ手を撒くことに成功したらしい。何処をどう走ったのかすら覚えてはいなかったけど、気が付いたら僕達は裏通りを抜けて、屋敷の近くまで来ていた。助かった、と思うと、途端に安堵感に全身の力が抜ける。 スノウが小さく悲鳴をあげたのはそんな時だった。 「…!!どうしたの!?」 「………服が………」 見ると、美しい緑色の上着の、袖口と脇の辺りが無残に破けていた。きっと先ほど転んだ所為だろう。 辺りはすっかり暗くなってしまっていたのでよくはわからないが、きっとそれ以外のところも酷く汚れているはずだ。 スノウは呆然として、台無しになった刺繍飾りを見つめていた。その大きな瞳から涙がポロポロ零れる。 「どうしよう…どうしようカルマ…僕……。この服……」 どうすれば良いのかわからないといったふうに、スノウは泣き続けた。無理もない。我侭を言って着せて貰った大切な服がまさかこんな事になるだなんて思いもしなかっただろうから。大切なパーティはもう明日。このまま帰れば間違いなく、スノウはお館様に大目玉をくらう事になるだろう。仕方のないことかもしれないけれど、やっぱりこのまま放ってはおけなかった。 だって、僕が強く止めていれば、スノウは街へ出たりしなかったかもしれないから。 僕が強引にでも表通りを行くことを主張していれば、スノウは危険な裏通りへ足を踏み入れたりしなかったかもしれないから。 深呼吸とともに決心を固めて、僕はスノウに言った。 「上着脱いで」 「…え?」 「いいから脱いで」 スノウはきょとんとしたけど、すぐに言われたとおりに上着を脱いで、簡素なブラウス姿になった。 僕は上着をスノウから受け取ると、僕には少し大きいそれを、肩に羽織った。 「君はこのまま先に帰って。僕は後から行くから」 「…ええっ!?」 「君はこの上着を着たまま外へ出たりなんかしてない。仕立て屋から届いたばかりの服を見て綺麗だなぁと思った僕が、ちょっと着てみたくなって、こっそり持ち出したんだ。そして汚してしまった」 「で…でも…」 「……僕が…あの時スノウの手を離したから…」 そう。あの時。 僕がずっとスノウの手を握ったままだったら…繋いだ手を離したりしていなければ、スノウは転ばなかったかもしれないのだ。 僕は離しちゃいけなかったんだ。この手を。喩え何があっても。 「僕は大丈夫だから。早く行って。このままじゃ本当に二人とも叱られるよ」 「わ、わかった…」 スノウは気圧されたように頷くとくるっと振り返り、屋敷に向かって駆け出して行った。 一人残された僕は、肩に掛かった緑の上着の前を、そっと掻き合わせた。そこにはまだスノウの温もりが残っていた。 「スノウ…」 初夏の風を思わせる鮮やかな緑は、陽射しの中にあってこそ映える。 夜の中一人立ち尽くす僕を、銀色の満月が静かに見つめていた。 その後、屋敷へ戻った僕は、当然の事ながらお館様にこっぴどく叱られ、その晩は夕食抜きを言い渡された。 緑の上着は取り上げられ、すぐさまお屋敷の針子全員に緊急召集が掛けられた。嵐のような一夜が明け、翌日、何事もなかったかのように繕われた緑の上着を着て、スノウは無事パーティに出席する事が出来た。 その日一日、部屋から出る事を許されなかった僕には、スノウの晴れ舞台を目にする事は叶わなかったけれど。 パーティの翌々日。 僕はいつものように、屋敷の裏庭で薪割りをしていた。 そこへ――――、 「カルマーー!!」 弾むような声が後ろから聞こえた。振り向くとスノウが嬉しそうな笑みを浮かべて、こちらへ駆け寄って来るのが見えた。 その、スノウが纏っている衣服を目にして、僕は思わず言葉を無くした。 「スノウ…その服…」 目を丸くする僕に向かって、スノウははにかんだ笑みを見せた。 スノウが着ていたのは、上質ではあったが飾りなどは最低限に留められた、いわば普段着用のブラウスだった。 だが、僕が驚いたのはその色だ。いつも白い服を好んで身に着けていたスノウが着ていたそれは、陽射しに映える鮮やかな翡翠色。パーティに出るからと言って得意そうに見せに来た、あの特別の服と同じ色だったのだ。 「昨日、父様と一緒に街へ出たときに見つけてね、この服。ねだって買って貰ったんだ。カルマが、似合うって言ってくれたから。この色」 スノウはそう言って華やかに笑った。 ああ、やっぱり。やっぱり君は。 言葉もなく立ち尽くす僕の前で、この世にただ一つの宝石は眩しいほどに純粋に輝いた。 何も持たない僕だけど。それでも君の笑顔を守れるのなら。 穢れを知らない青灰色の瞳に、僕も精一杯の笑顔を向けた。 そして、今。 翡翠の上着はあの時のように、僕の肩に掛かっている。 フィルによって綺麗に繕われたそれには、しかしもうスノウの温もりは残ってはいなかった。 フィンガーフート家ではなく、今はオベルの巨大船の中にある僕の部屋。薄暗い中にたった一人。息を潜めるように。 周りに誰もいない今だけは、少しだけ、彼と自分の為に泣いても許されるだろう。 翡翠の上着を纏って、君が似合うと言ってくれたからと微笑んだ彼は、やはりあの色を身に纏ったまま、僕に憎しみの視線を向けたのだ。 『僕は、君のそのいい奴ぶったところが大嫌いだよ―――!!』 スノウ、スノウ。何処にいるの? 望んでなんかいなかったのに。いつの間にか狂わされた運命。 もう二度とこの手を離すまいと誓ったのに、僕の隣に今、君はいない。 抱え込んだ膝に顔を伏せ、自分の肩ごと、上着をキツく握り締めた。 大丈夫。信じてる。信じてる。まだ手遅れじゃない。 もう二度と笑いかけて貰えることはないかもしれないけれど、 きっと君は今も、この海の何処かで生きていると信じてる。 喩え許して貰えなくても構わない。 君が笑顔で生きていける場所を、僕は必ず取り戻すから―――!! だから、今は少しだけ……もう少しだけ。 このまま泣いていてもいいですか―――――? |
…何だか、書けば書くほどに、ウチの4様は怪しいっつーか、
寧ろ危ない方向に突き進んでいってるような気が致します(爆)
こやつのスノウを見る目にはきっとフィルターが何十にも掛かっているに違いない…管理人と同じで(笑)
それにしても、また子供ネタですよ!!ホント好きだな私も(苦笑)
ほ、ほら、思う存分子供時代ネタを捏造出来るのはラプソが発売される前の
今がラストチャンスかもしれないし訳ですし!!(意味もなく力説)
戻る?
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||