■夜明け前■







 ふらつく足元を叱咤し、朦朧とする意識を頭を振って繋ぎ止め、ポーランドはクローゼットの中からスーツケースを引っ張り出した。やや乱暴に開いたそれに、ややどころではない乱雑さで、旅の荷物を詰め込んでいく。リトアニアがこの光景を見れば「もー、ちゃんと畳まないとスーツが皺になるでしょ」と、小言のひとつも飛んでくるのは確実だろう。そして、呆れながらも散らかった部屋をきちんと片付けて、旅の準備もこちらが手を出す隙などないくらい、完璧に整えてくれるだろう。だが、その彼がいないとなれば、全てを自分でやるより他はない。
「ああもう気分最悪だし。ここまで凄いのぶちかませるとか、これ一種の才能じゃね?アメリカクオリティマジ凄くね?」
 脈動に合わせてズキズキと疼くこめかみを押さえながら毒づく声にも、やはりいつもの張りがない。だがどんなに辛くとも、出発を取りやめることも誰かに代わって貰うことも出来ない。何しろ、これから行く先は他でもない、世界各地で猛威を振るう風邪を撒き散らした張本人のお膝元なのだから。
 国の化身として悠久を生きることを宿命付けられた身でも、基本的な身体の作り自体は人間と殆ど変わりはない。食事も酸素も必要とするし、気候の変化に体力が追いつかなければ風邪もひくし、転んで擦り剥けば怪我だってする。こういった個人の身体に限局される不調であれば、人間と同じように医学の恩恵に与ることも出来るし、時間が経てば回復する一過性のものである場合が殆どだから、それほど心配する必要はない。
 だが、国勢を反映しての体調不良となれば、話は大きく違ってくる。
 災害や経済不況、戦争による国土の荒廃―――そういったものによって引き起こされる不調には、幾ら優れた薬を大量に用いようと効果はない。不調の原因そのものを除かない限り、回復の兆しが見えることはないのだ。
 現在、ポーランドを苦しめているのは紛れもなく後者で、更に言えば不調を抱えているのもポーランドだけではない。アメリカの株価暴落を発端とする未曾有の大不況に、今や世界は飲み込まれようとしていた。
 そのアメリカでこれから、各国に対する謝罪と今後の対策を話し合う為の会議が開かれる。しかし、気だるさを押して渡米の準備を整えるポーランドの脳裏を占めていたのは、会議への期待でも切羽詰った自国の金融体勢に対する憂慮でもなかった。
(リト……大丈夫なん……?)
 孤独の静寂に包まれた部屋で、ポーランドは栗色の髪の幼馴染みを思った。彼とはもう数年来、顔を合わせていない。声すら聞いていない。リトアニアは今、遠く海を隔てたアメリカの空の下にいる。
 彼の家の経済は、この性質の悪い風邪が世界に蔓延する以前から破綻しかけていた。外貨を稼ぐ為に異国の地へと旅立った彼を、ポーランドが思わなかった日は一日とてない。何度も電話をしようと考えた。堰を切った情動のままにダイヤルを回し掛けては、我に返って思い止まり―――そんなことの繰り返しばかりで、結局、ただの一度も掛けることが出来なかった
(だって、今更―――何言えばいいんよ……?)
 長きに亘る列強の支配より脱し、やっとの思いで独立を勝ち取った今、これ以上他国に踏み躙られぬ為には、少しでも領土を拡大して力を得ることが必要だった。だが、勢いに任せて繰り出した刃によって傷付いたのは、一番守りたい存在であるはずの親友だった。リトアニアの心臓とも言うべき街は今、他ならぬポーランドの手の中にある。
 無論、死ぬほど後悔した。されど、一度奪い取ったものをポーランドの意志ひとつで簡単に返せるほど、現在の情勢は単純でもなければ甘くもない。情を捨て切れないなら力など求めるべきではなかったのだと、自分の覚悟の足りなさを思い知らされて、手をこまねいているうちに何年も経ってしまった。
 会いたくても、仕出かしたことの大きさを思えば、言葉を掛けるのは躊躇われた。リトアニアが自分に向ける眼差しが、どのように変化してしまったのかと想像すると恐ろしかった。激しい自己嫌悪と、許して貰えるはずもないという諦念が、ポーランドから本来の積極性を失わせていた。
 しかし、世界はここへ来て、思わぬ形でポーランドに味方する。
 アメリカから国際会議開催の報せを受け取った時、ポーランドが真っ先に思ったのは、かの地にいる親友の面影だった。会えるかもしれない―――迷いを打ち砕いた期待が、ポーランドを突き動かした。一旦動き始めてしまえば、もう止めることは出来なかった。
 親友に戻れなくても構わない。ただ「会いたい」という思いだけが、全てを凌駕してポーランドの中で燃えていた。





 議長席に腰を下ろした金髪の青年から、いつもの覇気はまるで感じられなかった。
 それほど顔を合わせる機会の多い相手ではないが、小憎らしいほどの威勢の良さと、大国としての自負に溢れた表情は、一度見ればそうそう忘れられるものではない。その彼が、自分より遥かに国際的地位の低い国からまで罵声を浴びせられ、何も言い返せずにいる姿は、滑稽を通り越して悲哀ですらあった。
 額に押し当てた氷嚢(気休めにしかならないが、それでもないよりはマシだ)の下から、ポーランドはアメリカを一瞥した。熱は一向に下がる気配を見せず、もはや発言する気力も体力も底を尽き掛けていたが、それを差し引いても、この地を訪れる理由を自分にくれた彼を責める気にはなれなかった。お前がもっとしっかりしてくれていれば―――という憤りは、別の事情から生まれてくるものである。
 今日の会議には、これまで名さえ知らなかったような辺境からまで、多くの国が招かれている。だが、手渡された資料にあった参加国リストの中に、バルト三国の名は記されていなかった。
 ポーランドはそっと視線を動かし、グレーのコートに身を包んだ大柄な背中を睨み付けた。大勢の国がひしめく中にあっても、頭一つ抜きん出たその姿は酷く目立つ。
 もし視線で人を射殺すことが出来るのなら、この時のポーランドのそれは確実に彼に致命傷を負わせていただろう。北の魔物と恐れられるこの国は、ポーランドの旧知であるあの三国を、虎視眈々と狙い続けている。そして厄介なことに彼は今、政治体制の違いによって、この不況によるダメージを殆ど受けていない唯一の国となってしまっている。彼が自分の目的を果たす為に、何らかの形でアメリカに圧力を掛けたことは疑いようもなく、またそれを阻止出来るだけの力を持った国も、この場には一人として存在しないのだ。
(けど、諦めるのはまだ早いんよ―――)
 エストニアとラトビアは恐らく、自国から出られない状態にあるのだろう。しかし、リトアニアは今この地にいる。会議の出席国にはなれないとしても、アメリカが側近として彼をこの会場に伴っている可能性は低くはないと、ポーランドはそう踏んでいた。
(リトに会うまでは俺、絶対ヨーロッパには戻らんし)
 アメリカが必死に弁明する声を、徐々に意識の外へと追いやって、ポーランドは膝の上に乗せた手を固く握り締めた。






 リトアニアに会うのなら、彼の雇い主となっているアメリカに、居場所を聞くのが一番手っ取り早い。会議の後、アメリカの控え室にポーランドが足を運んだのはそういう理由だった。
「―――!!」
 だが、アメリカの許に辿り着くより前にポーランドが見たのは、グレーのコートの大男に手首を掴まれ、引き摺られるようにして連れて行かれるリトアニアの後姿だった。廊下の突き当たりの角を曲がり、二人の影は一瞬にして視界から消える。使用人を連れ去られたにも関わらずアメリカが出て来ないところを見るに、彼はロシアの行動を黙認するつもりなのだろう。考えうる限りで最悪の事態となってしまったことを悟り、ポーランドの膝が震えた。
「遅かったしっ……!!」
 無我夢中で、ポーランドは駆けた。熱に浮かされた身体の何処にそんな力があったのか、自分でもわからない。ただ、行かせてなるものかと、それだけを考えていた。
 大柄なロシアが緩やかとは言い難い速度で歩いてゆく為、追い掛けるポーランドは、コンパスの差で必然的に小走りになった。それでも追い付くどころか距離を縮めることすら叶わず、会議場の一角にある閉鎖フロアへ入っていくロシアとリトアニアを、ポーランドは歯軋りしながら見送るしかなかった。
 フロアの入り口には、明らかにSPと思われる厳しい顔付きの男が立っている。恐らくここは、今回の会議におけるロシアのプライベートエリアなのだろう。ロシアは孤独を嫌う以上に、他者からの不用意な干渉を嫌う。非常時を除きこの中に許可なく立ち入ることは、喩えホスト国であるアメリカであろうと許されない。
 ここまでか…と諦めかけた時、強烈な既視感に襲われポーランドは立ち竦んだ。この光景には覚えがある。
(あれ…?これって………?)
 ―――ポーランド…!!そんなのやだよ…ねえ起きて、ポーランド……!!
 別れの手向けとばかりに舞い踊る粉雪の中、必死に自分の名を呼び続ける親友の声―――。それは忘れたくても忘れられない記憶。抵抗虚しく遠く東へと連れ去られてゆく彼を、自分は地べたに這い蹲ったまま見送ることしか出来なかった。ただ、別れが悲しいものとならぬよう、心優しい彼が自分を案じて泣くことのないよう、精一杯の虚勢で突き放すことしか出来なかったのだ。
 思い出したその瞬間に、心にカッと火が点いた。
 無力な自分が嫌いだった。守ってやると約束した、その誓いを果たせなかったが為に、親友の背中に残された代償をポーランドは知っている。あの傷痕を初めて目にした時の、魂を冷たい手で握られたような感覚は忘れられない。
 ―――あんな思いをするのは、一度だけで充分だ。
「ただ見てるだけで、何も出来んくて。それで後悔するとか、そんなん俺……もう絶対に絶対にごめんだし!!」
 身体が燃えるように熱い。きっと風邪だけの所為じゃない。
 このままここで燃え尽きたって、後悔に苛まれながら生きるよりは何倍もマシだ。息を詰めて真っ直ぐに顔を上げ、ポーランドは氷の牢獄へと向けて足を踏み出した。






「おや?」
 後方から響いてくる怒号と乱れた足音を聞きとがめて、ロシアは足を止めた。振り向いた彼の紫水晶の瞳に映ったものは、屈強なSP二人に両脇から羽交い絞めにされながら、尚もこちらへ駆けて来ようとする小柄な青年の姿だった。
 傍らのリトアニアが驚きに立ち尽くす。これは夢だろうか。無情な現実からの逃避を願う自分の弱い心が、ありもしない幻を見せているのだろうか。眼前の出来事に認識が追いつかぬままに僅かに開かれた唇から、呆然とした声が転がり落ちた。
「ポー……ランド………?」
「―――リト!!」
 懐かしい声に名を呼ばれ、リトアニアは息を呑んだ。夢ではない。嬉しさと驚きと、それから―――言い様のない感情が背筋を駆け上がってくるのを感じて、リトアニアは身体を震わせた。
「やあポーランド。僕に会いに来てくれたの?」
 にこにこと底の見えない笑みを浮かべて近付いたロシアを、敵愾心を隠そうともせず、ポーランドは真っ向から睨みあげる。SPに手足を拘束されていなければ、間違いなく掴みかかっていただろう。
「酷い風邪をひいたって聞いてたけど、思ったより元気そうで安心したよ。この分なら、あと二、三発くらい恐慌がきても、全然大丈夫そうだね」
「―――お前に心配されるほど落ちぶれとらんし。つか、俺不死鳥だし。けど、生憎お前の顔見たら、どんな元気な時でも一瞬で気分最悪になれる体質なんよ俺」
「ご挨拶だなぁ。そんなことを言う為に、わざわざここまで僕を追い掛けてきたの?残念だけど、僕は忙しいんだよ。お客さんが来てくれるのは嬉しいけど、騒がしくされるのは嫌いだし、他人の都合で予定を狂わされるのはもっと嫌いなんだよね」
「お前の予定なんか俺にはどうでもいいし。用があるんは―――」
 ポーランドの視線がロシアの脇を通り抜けて、背後の人物へと注がれる。だが、ロシアはそれを遮るようにポーランドの正面に立ち塞がった。視界を覆い隠した巨体に、ポーランドは苦々しげな舌打ちを寄越す。
「ポーランド。君は自分が何をしたかわかってるの?ここはアメリカ君の家だけど、僕たちが今いるこのフロアはロシア領なんだよ。僕がアメリカに滞在している間だけだけどね」
「借り物の城の中でふんぞり返ってるだけの奴なんか、怖くも何ともないし」
「やっぱり君、自分の立場がわかってないのかなぁ?ここはロシア領なんだから、僕の許可なくここへ踏み込んでくるってことは、僕に対する侵略行為も同然なんだよ。国境を侵した相手を黙って見逃すなんて、ロシアにそんなサービスないし。ここでは僕が法律なんだから、犯罪者を僕の一存でどう処分しようとも、誰にも文句は言われないんだよね」
 陶器のような冷たい掌に頬を撫でられ、脊髄が悲鳴を上げた。食い縛った歯の隙間から堪え切れずに漏れた声に、ロシアの瞳が満足げに細められた。
「悪い子には、お仕置きが必要だよね」
 嘯く唇が酷薄な笑みを描く。大きな手に襟元を締め上げられて、ポーランドは喘いだが、ロシアを見据える眼差しの鋭さは変わらない。ロシアは小さく溜息を吐き、肩を竦めた。
「それにしてもさ、君って本当に無神経だよねぇポーランド。人の家を手当たり次第土足で踏み荒らすのが君の礼儀?よく思い出してみるといいよ。リトアニアが帰る家を失くしちゃったのって、一体誰の所為だったっけ?」
 ポーランドの顔からすっと血の気が引く。怒りと緊張で強張った身体が小刻みに震え出すのが、掴んだ服越しに伝わってきた。相手の動揺を見逃さず、ロシアは更に畳み掛ける。
「君、リトアニアに会いに来たの?あんな酷いことをしておいて、それでよく会いに来ようなんて気になれるね。僕がリトアニアの立場なら、君の顔なんてもう二度と見たくないと思うだろうなぁ。友達を裏切って、自分だけ利益を得ようなんて、許されることじゃないもんね。まあ、そんな卑怯な真似までしておいて結局はこのザマなんだから、今更どんな言い訳を並べたところで、笑い話にすらならないけどね」
 青褪めた唇がわなないた。何かを言いかけたそれは、しかし何の音も紡がぬまま引き結ばれる。顔を上げていることが出来ず、痛みを堪えたような表情でポーランドは俯いた。
 そうだ。リトが俺を許すはずがない。そんなことわかりきっていたはずなのに、それでも会いたいなどという一方的で自分勝手な願いを、どうして彼に押し付けられるなどと思ったのだろう。何百年と続いてきた彼との関係、麦畑の中で分かち合った思いに甘えて、喩えどんな状況になろうと彼に拒まれることなどあり得ないと―――無意識のうちにそんな幻想を抱いてしまっていたのかもしれない。自分の甘さに腹が立つ。自分は疾うに、彼の親友である資格を失ってしまっているというのに。
 潮が満ちるように絶望が押し寄せてくる。ガックリと項垂れたポーランドの耳元に、ロシアはいっそ優しげな声音で囁きかけた。
「可哀想なポーランド。君はもう、要らないんだよ。ま、自業自得だけどね」
「――――ロシアさん」
 張り詰めた空気を破ったのは、リトアニアの静かな一声だった。
 何?と、首だけ捩って振り返ったロシアに、リトアニアは淡々と告げる。
「罰なら、代わりに俺が受けます。ポーランドを―――解放して下さい」
 耳を打った言葉の意味を理解するまでに、呼吸ひとつ分の時間が必要だった。ポーランドは信じられないといったように瞳を見開いた。
「リト………!?」
「駄目だよリトアニア。これは立派に国際問題だよ。何度も他国への侵略を繰り返すような危険な国を、野放しにしておくわけにはいかないでしょ?それに、僕の管轄下で起きた不祥事を見逃したりしたら、僕の信用にも関わるしね」
「責任は全て俺が取ります。ポーランドと……話をさせて下さい。こんな乱暴な真似は、もう二度としないと約束させます。だから―――今回だけはどうか……お願いします」
 深々と頭を下げたリトアニアを見遣って、ロシアは僅かに眉を顰めた。だが、すぐに元のにこやかな笑顔に戻り、彼は殊更勿体ぶった緩やかな所作でポーランドの傍から離れた。
「仕方ないなぁ。君がそこまで言うなら、今回の彼の無法は不問にしてあげるよ。君って本当にお人好しだよね、リトアニア。自分を裏切って傷付けた相手を庇うなんてさ。君のところの首都、まだ彼に取られたままなんでしょ?」
「いいんです」
 気負った様子もなく、リトアニアは穏やかに微笑んで答えた。
「俺には、ずっと前からポーランドルールが適用されてますから」
 早鐘のように脈打つ鼓動を、ポーランドは何処か他人事のように感じていた。一度治まり掛けた震えが、再び細波のように全身に広がってくる―――先程とは全く質の違う情動によって。
 億劫そうに壁に凭れ掛かって腕を組み、ロシアはふうんと鼻を鳴らした。
「何のことだか僕にはさっぱりわからないけど、まあいいや。僕は優しいから、感動の再会に水をさすなんて野暮なことはしないであげる。けどさ、まさかとは思うけど君、このまま彼と一緒に逃げようだなんて思ってないよね?一応言っておくけど、そんなことしても無駄だよ?僕んちのスタッフは優秀な上に働きものだからね、君が喩え何処へ行こうとも、世界の果てまでだって追い掛けて探し出してみせるから」
「心配しなくても、俺は逃げたりしませんよ」
 絡みつくようなロシアの視線に怯むことなく、リトアニアはゆっくりとした足取りでポーランドのほうへと歩き出した。その場所へと辿り着く前に、リトアニアは一度足を止め、冷淡な光を湛えた紫水晶の瞳を振り返った。
「喩えこの身の自由を奪われようと、国としての存在意義を否定されようと―――俺は、けしてあなたのものにはならないということを、証明してみせますから」
 ロシアは一瞬きょとんとし、次いで、弾けるように笑い出した。
「面白いことを言うね、リトアニア。益々気に入ったよ。その強がりがいつまで続くか見ものだねぇ。ああ、楽しみだなぁ。君が自我も矜持も何もかも投げ捨てて、僕に泣き縋って許しを請う日が来るのがね」
「期待なさりたいんならご自由にどうぞ。お応えするつもりはありませんが」
 静かに、だが毅然と言い放った横顔が、ポーランドの心にこれ以上ないほど鮮烈に焼き付いた。ロシアが顎をしゃくると同時に、手足を押さえ込んでいた無骨な手が放れて行く。ポーランドは駆け出そうとしたが、足は言うことを聞かなかった。全身から力が抜け、糸が切れた人形のようにその場に崩折れた小柄な身体を、大きく温かな手が抱き止めた。
 包み込んでくるリトアニアの体温。彼の匂い。久し振りの感触に何かを思う間もなく、涙の堰は呆気なく決壊を起こした。胸にしがみ付き、声を殺して泣くポーランドの背中を、骨ばった指が何度も何度も優しく撫でた。
 潤んだ瞳を凝らして見上げたリトアニアの顔は、少し疲れたような気配を滲ませていたものの、どこまでも優しく穏やかな笑みを浮かべていた。深緑の瞳に涙の痕はない。幼かったあの頃、何かある度にすぐにメソメソ泣いていた彼を、宥めたり賺したりしていたのはポーランドのほうだったのに。いつの間に彼はこんなに大きく、強くなってしまったのだろう。ずるい、とポーランドは思った。自分はまだ、麦畑の中にいた頃の幸福感を捨てきれずにいるのに。リトアニアはどんどん大人になって、自分の知らないこんな顔を持っていたりする。ずっと隣を歩いてきたつもりだったのに。言い様のない焦燥感に駆られ、ポーランドはリトアニアの服の裾をぎゅっと掴んだ。
 ―――置いて行かないで。一人にしないで。
「なあ……帰って来るん?……リト帰って来るん……?」
 うわ言のように呟きながら、何故自分はこんなことを言っているんだろう…とポーランドは考えた。彼から帰る場所を奪ったのは自分なのに。言わなくてはならないことは、もっと他にあるはずなのに。
 雲の上にいるかのように、全身の感覚が覚束ない。待ち望んだ温もりに包まれて、身体の中が空っぽになってしまったかのようだ。
「うん…帰るよ。必ず帰るから。だから……待ってて、ポーランド」
 耳元で繰り返される子守歌のように優しい声が、心に深く沁みこんで来る。ずっと一人で抱え込んでいた不安や絶望感が、春の陽射しを受けた雪のように少しずつ融け出してゆくのを、ポーランドは感じていた。
 リトのアホ。ちょっとくらい怒ればいいのに、こんな簡単に許すとか、お前マジお人好しすぎるし。そんなんだからロシアに付け込まれるんよ。やっぱお前、俺がおらんと駄目じゃね?な、な、そう思わん?
 ポーランドは薄く唇を開いたが、思いの丈は頭の中をぐるぐると不安定に回るだけで、言葉として出て来てくれなかった。意識が徐々に靄に閉ざされてゆく。情けないし、と自嘲しながらも、どこか満ち足りた気持ちでポーランドは目を閉じた。






 夢を見た。
 長く長く伸びた細い真っ直ぐな道を、ポーランドは親友と手を繋いで歩いていた。
 周囲は金色の波のうねる一面の麦畑だったが、その中を歩く二人は、素朴ながらも温かみのある民族衣装ではなく、くたびれかけた軍服を纏っていた。
 辿った道を逆に歩いてみても、もう過去には戻れない。それがわかっているから、ポーランドは振り返らなかった。そして、同じように重ねられる歩幅と、繋いだ手から伝わってくる温もりに、隣を歩くリトアニアも同じ気持ちであることを確信していた。
 どこまでも続くと思われた道は、やがて二股に分かれた分岐点に差し掛かった。それは全く覚えのない光景にも関わらず、左の道はワルシャワ、そして右はヴィリニュスへと続いていることをポーランドは知っていた。
 分かれ目で、二人は躊躇いなく繋いでいた手を放す。互いの顔を見合わせ、小さく手を振りあうと、そのまま歩調を緩めることなくそれぞれの道を進んでゆく。ポーランドは左へ、リトアニアは右へ。
 時は流れ、けして戻りはしない。互いの存在だけをその瞳に映して、麦畑の中で笑いあっていれば良い時代は終わったのだ。分かたれた二つの国が再び連合王国として繁栄を築くことは、もう、ない。
 それでも。目まぐるしく移ろいゆく幾つもの時代を経ても。まだ自分たちがこうして生きて存在しているのなら、それにはきっと意味があるのだ。
 手を放しても、これは永訣ではない。同じ場所に留まり続けることは出来なくても、同じ時代を共に生きることは出来る。過去の幸福が戻って来ないのなら、新たな幸福の形を探せば良い。未来を拒んで立ち止まりさえしなければ、道はきっとまたどこかで交わるに違いない。そしてその時には、この手はまた自然に繋がれることだろう。
 頭上には雲ひとつない青空が広がっている。これからどれだけの月日が流れても、この空だけはきっと変わらず、自分たちを見ていてくれるだろう。同じ空を今、彼も同じ思いで見ているのかもしれない、そう考えると自然に心が上向いた。
 次にこの手が繋がれる日が来たら。彼と並んで歩ける日が来たら。
 ―――今度こそ俺、誰も傷付けないやり方でリトを守ってみせるんだし!!
 思い描いた夢を引き寄せるように、ポーランドは蒼穹に向けて大きく手を広げた。






 座り心地の悪い軍用機の後部座席で、隣に座るロシアに悟られぬように、リトアニアは視線だけを窓の外へとそっと投げた。
 冷たい硝子の向こうにはアメリカの夜景が広がっている。故郷である北の大地より遥かに活気に満ち溢れたこの地の景色も、今のリトアニアの目には妙に物悲しく、無機質なものに感じられた。別れの感傷がそうさせるのかもしれない。リトアニアは小さく溜息を吐いて、この街の何処かで静かに眠っているだろう金の髪の幼馴染みを思った。
 帰国の時間は刻々と迫っていたが、意識を失ってしまったポーランドをその場に捨て置くわけにもいかず。取り敢えず目を覚ますまでの間、彼の身柄をアメリカに保護して貰えるように頼んだのはリトアニアだが、当然ながらロシアが良い顔をするはずなどなかった。
 アメリカ君に借りを作れって言うのかい?嫌だよ、僕が何の為にわざわざ海を越えてこんな所まで来たと思ってるの?―――肩を揺らして笑った顔は、彼を知らぬものが見れば穏やかな印象を受けただろうが、その瞳の奥に昏く渦巻く激情をリトアニアは既に身を以って知っている。
 胸に蟠った感情を吐き出すように、リトアニアは再び溜息を吐いた。眼下を物憂げに俯瞰するその頬には大きな絆創膏が貼られ、口許にはかさぶたになりきらぬ血塊がこびり付いている。だが、そんなことは大した問題ではない。差し当たってのポーランドの安全を確保する為なら、この程度の傷など安いものだ。エストニアやラトビアに心配を掛けてしまうことを考えると、心は少し痛んだけれど。
 明日からまた苦難の日々が始まる。現時点ではまだリトアニアの独立は保たれているが、著しく国力の衰えた今の状態で、ロシアの影響下から離れるのは容易なことではない。涙さえも凍らせる無慈悲な冬の足音が、すぐ傍まで迫っているようだった。
 訪れる既視感に、リトアニアは目を細めた。雪原に倒れ伏した親友の身体を抱き起こすことすら叶わず、圧倒的な力で引き剥がされたときの絶望感。徐々に視界から遠ざかってゆく彼の姿に、あの時の自分はただ泣き叫ぶことしか出来なかった。
 だが、今度は違う。為すすべなく連れ去られるのではなく、俺は俺の意志であの凍れる国へと行く。無力な俺だけど、それでも彼の為に出来ることはあるのだと、武器を手に取り誰かを傷付けるだけが戦いではないのだと、それらを教えてくれたのもあの別離の後に訪れた冬の時代だった。
 耐えることしか出来ないというのなら、何があっても耐え抜いてみせよう。その先に訪れるものが果たして春の時代なのか、今はまだわからないけれど。それでも帰る場所があり、待っていてくれる親友がいる限り、俺は希望を捨てたりしない。
 もうあの頃に戻れなくても。未来を共に歩むことは出来るから。
 だから……今は放れてしまった手も、いつかまた繋がる日がきっと来る。その時に、彼の隣を歩けることを、誇れる自分で在れるように。
 足元に広がる大地には無数の命がひしめいている。大陸を抜け、海を越えた先にはまた別の大地が存在し、数え切れないほどの国と人とが、やはり時代に翻弄されながらそれぞれの生を歩んでいる。全ての存在を圧倒的な力で押し流してゆく世界の中で、誰もが幸せになりたいと願い、明日への道を求めて懸命に藻掻いている。自分たちの抱く精一杯の願いですら、世界の前では取るに足りないちっぽけなものでしかない。
 ―――だから、こんなちっぽけな願いくらい、叶えられないはずはないのだ。
「何を見ているの?」
 茫洋とした声に、リトアニアは反射的に息を詰め、視線を隣へと流した。こちらを見詰めてくるロシアの顔は、暗がりに遮られて表情が読めない。新雪を思わせる白銀の髪も、残照を映しこんだような紫水晶の瞳も、今は夜の帳に包まれ、今日と明日の狭間をただ静かに漂っている。
 誰の上にも等しく夜は訪れる。誰もが迫り来る明日に不安と期待を馳せ、闇の中で息を潜めながら、果てなき時の心音に耳を傾けている。理不尽を絵に描いたような存在である目の前のこの人でさえも例外ではないのだと気付いて、リトアニアは薄く笑い、穏やかな声で呟いた。






「いいえ、これから見付けるんです―――夜の終わりを」



















リトは出稼ぎ時代、ポーランドに首都取られてたってことで、立波喧嘩中〜仲直り話。
「Malda」と多少設定がかぶっちゃってますが、一応別物として読んで頂けますと幸いです。
私の中では立波はヘタレ攻め×男前受けが基本なのですが、
今回は、「いつも強気だけど偶に気弱になるポー」と
「いつもはヘタレだけど偶に格好良いリトアニア」を書いてみたくて頑張りました。
……頑張っただけで、ちゃんと形になったかどうかはこれまた別の問題。








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