■冷えたこの手を■







 午後の執務室の静寂を、リトアニアの走らせるペンの音が埋めてゆく。
 机の上に積みあがった大量の書類と、彼は朝から取っ組み合いを続けていた。
 バルトの三人が集えばそれなりに暖かく活気のあるこの部屋も、一人になれば薄寒さと物寂しさが、やたらとその存在を主張する。だが、それらを感じる余裕もないほど、今のリトアニアは切羽詰まっていた。新しい資料の束を確認する手間ももどかしく、リトアニアは視線を手元に置いたまま手探りで次の書類を手繰り寄せようとした。その時。
「リートーアーニーアー♪」
 突如、のんびりとした声とともに、大柄な身体がずしりとリトアニアの肩に圧し掛かってきた。
「ぅわっっとっ……ろっ、ろろろろロシアさんっっ!?」
「うふふ、暇だから遊びに来ちゃった♪」
 背後からがっしりと抱き締められた拍子に、リトアニアの指は取ろうとしていた書類の一山を弾いて崩してしまった。床にバラバラと散らばってしまった書類にげんなりとした気分になる。余計な仕事を増やしてしまった、今は一分一秒たりとも無駄にしたくはないのに。
「ねえ、何してるの?」
「………明日の会議で使う資料の作成ですが」
「へえ〜、大変だね〜」
 リトアニアは深く嘆息した。まるで他人事のような言われようだが、そもそもこの仕事をリトアニアたちのところに持ち込んだ当人はロシアなのだ。
 明日の朝までに、会議出席者全員分の資料を纏めといてね、出来なかったらコルするから♪……と、花のような笑顔で執務室を埋め尽くさんばかりの大量の書類を押し付けられた時には、危うく三人揃って失神するところだった。しかし、当然ながら拒否する訳にもいかず、しかもいざ仕事を始めてみると、渡された資料には肝心の記載が抜けていたり、正確性を疑われるような記述が多かったりで、結局内容の殆どを新たに調べ直す破目となった。エストニアとラトビアは文献探しの為に書庫に籠らねばならなくなり、絶体絶命の状況の中を、それでも一人執務室に残されたリトアニアは懸命に足掻いていたのである。
 それなのに。必死に奮い立たせようとする気力を、進んで萎えさせようとするかのようなこの妨害行為。ただの無邪気な悪戯なのかわざとなのか、この人の場合はその両方ともが理由のような気がしてならない。
 だが。
「あれ?リトアニア、もしかして君、熱があるんじゃない?」
 ロシアの大きな手が、リトアニアの前髪を掻き分けて額に触れてくる。
 リトアニアは曖昧に笑った。確かに、今日は朝から少し熱っぽさを感じてはいたのだ。
 しかし、動けないほどではないし、何よりこの仕事量で休む訳にもいかない。努めて何でもないように振舞っていたお陰で、バルトの同胞たちには気付かれなかったようだが、流石にここまで密着されてしまうと隠すのにも限界がある。
「大丈夫ですよ。仕事に支障が出るほどではありませんから」
 そう言うと、ロシアはリトアニアの火照った首筋に頬を寄せた。
「早く、リトアニアの熱が下がりますように」
 触れられた箇所が、ひんやりと心地良い。司る土地の気候をそのまま自身の身体に映したかのように、ロシアの体温は低い。子供のそれのようにふっくらとした頬も、大きな手も、柔らかく温かそうな見た目に反して、触れれば陶器のような冷たさを感じさせた。
 振り払おうという気にはなれず(喩え思ったとしても実行は出来ないが)、リトアニアはされるがまま俯いて目を閉じた。ロシアの冷気がじわりと身体に滲み込んでくる。―――寂しさを全身で訴えかけてくるかのように。
 そのまま暫くじっとしていたが、幾ら経っても一向にロシアはリトアニアを解放する気配がない。流石にいつまでもこうしている訳にもいかず、リトアニアは肩越しに覗き込んでくる相手の顔を恐る恐る振り返った。
「……あの……そろそろこの手を放して貰えませんか、ロシアさん。俺、仕事に戻らないと……」
「え〜、そんなのいいよ。後でやりなよ。まだ熱下がってないでしょ」
 明日までって期限付けたのはあなたですよねロシアさん。とは言いたくても言えず、リトアニアはひっそりと肩を落とす。夜中までには終わるかなぁ……と薄々考えていたところだったが、これはどうやら三人とも徹夜は免れなさそうだ。もしかしたら、食事をする時間すら危ういかもしれない。再び深い溜息が漏れた時。
「僕ね、リトアニアのことが大好きなんだ」
 耳元で囁かれた言葉に、動きが止まる。
 視線を合わせたロシアの顔は、にこにことあどけない笑みを浮かべていた。
「だから―――君はずっとここにいてね」
 鮮やかな紫水晶の瞳の奥に、名状しがたい光が揺らめいている。
「でないと僕……君の大切な幼馴染みに、何をするかわからないよ……?」
 脅迫は、小さな子供が菓子を強請るような口振りで呟かれた。
 リトアニアを確実に捕らえられる枷の作り方を、ロシアは正確に理解している。
 背筋がぞくりと粟立つのを感じて、リトアニアは静かにロシアから視線を逸らす。
 開かれた唇は滑らかに動き、澱みなく言葉を吐き出した。
「わかっています。俺はここにいますよ。ロシアさん」
 酷く機械的な口調だったが、それでもロシアは満足したように瞳を細めた。
「ふふっ、良かった。僕たち、ずっと一緒だね」
 そう言って、抱き締める腕に力を込めたロシアに、リトアニアはそれ以上何も言わなかった。冷気はもう感じない。ロシアの身体は、リトアニアの体温を吸い込んでほんのりと温もりを帯びている。それが悲しいのか嬉しいのか、リトアニアにはわからなかった。
 視線を落とすと、机の上に置かれたままの自分の骨ばった指が見えた。長い逡巡を繰り返してから、リトアニアはそっと、ロシアの手の上に自分の手を重ねた。








 俺はここに―――あなたの傍にいます。
 もし、心からそう言えたなら。
 もしくは、そんな言葉すら思い浮かばないほど、あなたを嫌いになれていたら。
 俺はどれほど楽だっただろう。
 あなたを傍で見るようになって、初めてわかったことが幾つもある。
 繊細で傷付きやすい心を持っていること。
 理不尽な暴力や孤独に、長い間耐え続けてきたこと。
 誰よりも多く、自らの血を流してきたこと。
 そして、本当は優しい人だということも。
 どれも―――ただ敵対する隣国としてしかあなたを見ていなかった頃には、けして知りえなかったことだ。
 愛を、そして人を信じることを知らぬままに、大人になってしまった……大人にならざるを得なかった、哀しい人。
 あなたの本当の望みは何なのか―――今の俺には何となくわかる。
 そして恐らく、あなた自身がそれに気付いていないことも。
 気付く前から、無意識に諦めてしまっていることも。
 手の内に捉え、鎖に繋いで、『所有物』とする―――こうする以外にあなたは、想いを寄せた相手の目を、自分に向けさせるすべを知らなかったのだろう。
 だから、聞くものの背筋を凍らせる脅迫も、けして悪意や計算高さから生まれるものではなく、あなたにとってはただ、欲しいものを傍に置いておく為に必要な手段の一つであるに過ぎない。
 恐れられても、嫌われても、それでも傍にいて欲しいから。
 恐れられるより、嫌われるより、一人になることのほうが怖いから。
 あなたの影に怯え、恐怖に縛られている―――俺が何故そんなふりを続けているのか、わかりますか、ロシアさん?
 ―――そうしなければ、あなたは俺を信じてはくれないからです。
 利害や損得勘定抜きで、ただ愛しいという気持ちだけで成り立つ、そんな関係が存在するのだと知っていれば……あなたの世界は今とは全く違うものになっていたのでしょうに。
 奪って手に入れようとしなくても、心を少し開くだけで、あなたを受け入れてくれる存在も確かにこの世界にあるのだと―――あなたに伝えることが出来たなら。
 あなた以外の全てを捨てる覚悟がない俺に、あなたを闇の深淵から連れ出すことは叶わない。俺はあなたの光にはなれない。
 俺は既に選んでしまっている。何よりも大切な、俺の愛しい幼馴染み。
 俺が全てを委ねられる相手は―――ただ一人だけ。
 すみません。ロシアさん。
 あなたを抱き締める腕を持たない俺を……許して下さい。
 いつかは、あなたの傍から去ってゆくだろう俺を。
 ああ、でも。きっと信じては貰えないのだろうけれど。
 俺は今、けして恐怖ゆえにではなく、自分の意志で、あなたの傍にいるのです。
 抱き締めることは出来なくても、あなたのこの冷たい手を―――ほんのひと時だけでも、俺の掌で温めてあげられるのなら。






 俺はあなたの『一番』にも『家族』にもなれないけれど。
 こんな俺でも、一つだけ―――願うことを許して貰えるのであれば。






 いつか。暖かな陽射しに満ちた世界で。
 あなたと『友達』になれたらいいと―――そう思う。













立波前提で露立。この二人は擦れ違い両片想い的な関係が好きです。
支配することでしか欲しいものを手に入れられない露っ様と、
露っ様のことを心配しつつも、距離を計りかねているリト……って感じ。
リトが一番大切に思っているのはやっぱりポーで、独立後は勿論ポーの所に帰るんだけど、
偶に、ひまわりの花束片手に露っ様の家に行って、茶飲み友達やってたら良いなぁ……と、ひっそり思ってます。





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