■手紙■







 カタン、と窓枠が鳴る音に、エストニアはデスクから顔を上げて振り向いた。
「……………」
 時刻は既に深夜の一時を過ぎている。誰かの悪戯にしては非常識な時間だ。エストニアは目を眇めたが、窓の向こうは真っ暗な闇が見えるばかりで、外の景色は窺い知れない。息を凝らして暫く窓を見詰めていたが、人の気配は感じられなかった。
 気の所為か、それとも風でも吹いたのだろうか……と思い始めたとき。窓枠の下に何かが挟まっているのに気が付いた。近付いてみると、それは白い飾り気のない封筒だった。手に取って、隅に小さく書かれた差出人の名を確認し、エストニアは思わず息を呑む。
『ポーランド』
 それは、つい先日、地図上から消滅した国の名だった。
「何故、こんなものが……?しかも、リトアニアではなくて僕のところに……」
 彼の地は今、ロシアとドイツの分割支配下に置かれており、国の象徴である彼自身の行方も杳として知れない。自由に動ける身の上という訳でもないだろうに、ロシアの厳しい監視下にあるこのモスクワへ、一体どうやって手紙など届けられたものやら。
 やはり誰かの悪戯だろうか……訝りながら、エストニアは暫く無言で手紙を見詰めていたが、やがて決心したかのように小さく溜息を吐き、封を開いた。






 ガタン。
 大きな音が響き、リトアニアの身体は壊れた人形のように床に投げ出された。
 傍らではラトビアが、蒼白な顔でガタガタと震えている。怯えきった彼の視線を全く意に介した様子もなく、ロシアはのんびりとした口調で言った。
「あれぇ?リトアニア、誰がそんなところで寝ていいって言ったのかなぁ?」
 リトアニアはゆっくりと立ち上がり、衣服についた埃を払うこともせずにロシアに向き直った。固く引き結ばれた唇からは、言い訳も反駁も漏れてこない。
「君はもうちょっと、使えると思ってたんだけど?」ロシアの声に、試すような揶揄うような響きが混じる。「何があったのか知らないけど、しっかりして貰わないと困るのは僕なんだけどなぁ」
 ラトビアの顔が、今にも泣き出しそうに歪む。リトアニアの不調は昨日今日に始まったことではない。しかも、その原因を作ったのは他でもないロシアなのだ。全てを理解した上で、ロシアはリトアニアの藻掻く様を楽しんでいる。ラトビアにも、それはわかっている。
 何か言わなくては……ラトビアの心臓は早鐘のように鳴り響いていた。今回のことはリトアニアの所為ではない。自分が悪いのだ。
 今夜は政府の要人が集う晩餐が開かれる予定となっている。その準備をしている最中、ロシアの気に入りのワイングラスのひとつを、誤って割ってしまったのはラトビアだった。
 ガシャンという硬質な音は、この時のラトビアには死刑宣告にも等しく思えた。頭の中が真っ白になって呆然と立ち尽くした時、すぐ傍らから同様の音が聞こえ、ラトビアははっと我に返る。見れば、リトアニアの足元に粉々に砕けた別のグラスの破片が散らばっていた。
 ラトビアがえっ…?と思った時。
「大きな音がしたけど、どうしたの?」
 唐突に広間の扉が開いた。入って来たロシアは、部屋の惨状を認めて目を丸くする。慌てて弁解しようとしたラトビアを制し、リトアニアは言った。
「すみませんロシアさん。俺が……うっかりして手を滑らせて……。ロシアさんの大切なグラスを、二つも………」
 ―――違うんですロシアさん。
 最初にグラスを割ってしまったのは僕なんです。リトアニアさんがこんなことをしたのは、僕を庇ったからなんです。
 心の中の自分は声を限りに叫んでいる。しかし、現実には、声は喉の奥に貼り付いたまま出て来ない。ラトビアは唇を噛んだ。
 リトアニアは、静かな視線でロシアを見ている。殴られた頬は赤く腫れ上がり、切れた唇の端には血が滲んでいる。それを拭うこともせず、リトアニアはただ真っ直ぐにロシアに向かって立っている。虚ろに開かれた深緑の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
「役に立たない子は、要らないんだけどなぁ」害意の欠片も感じられない声とは裏腹に、ロシアはリトアニアの首に手を掛けた。太い指が容赦なく喉に食い込み、リトアニアの顔が苦痛に歪む。
「最近の君のヘマの多さには、うんざりしてるんだ。もっとしっかりしてくれないと、僕の躾がなってないみたいに思われちゃうでしょ?言い付けも守れない悪い子は、消えちゃったほうがいいかもね。何かにつけて反抗的だった、君の元相棒みたいにさ」
 薄く見開かれたリトアニアの瞳が、一瞬、憎悪にも似た光を湛えて冷たく燃え上がった。
 ロシアの口許に酷薄な笑みが浮かぶ。
「ふふ、言いたいことがあるなら言いなよ。幾らでも聞いてあげるから。でも、僕に聞こえるように、ちゃんと大きな声で言ってよね」
 喉を締め上げる手にロシアは更に力を込めるが、リトアニアは許しを乞うどころか呻き声ひとつ上げない。このままでは、本当にリトアニアは殺されてしまう―――ラトビアが恐慌状態に陥りかけた時。
「ロシアさん」
 背後から掛けられた声に、ロシアは怪訝そうに首を傾げて振り返った。エストニアが落ち着いた足取りで部屋の中に入ってくる。
「こんなところにいたんですか。シェフが呼んでますよ、ロシアさん。晩餐に出す料理の味見をお願いしたいそうです。それと、注文してあったジャムが先程届きましたので、良かったらお茶にしませんか。すぐに支度させますから」
 冷酷な紫水晶の瞳がすっと細められる。まるでエストニアの内心を見透かそうとするように。リトアニアの首から手を放しはしたものの、その場を動く気配を見せないロシアに、エストニアは言葉を重ねた。
「グラスの一つや二つ、ロシアさんにとって大したものではないでしょう。この程度のことで騒ぎ立てていては、却ってロシアさんの体面に傷がつきます。少しくらいのことでは動じない余裕を、周囲に見せ付けてやっては如何ですか」
 ロシアは肩を竦め、邪気のない顔でふっと笑った。
「そうだね。グラスの替えは幾らでも利くもんね。君の言うとおりだよ、エストニア。大人気ないのは僕のほうだね。ごめんねリトアニア」
「いえ……」
 引き攣る喉を宥めて懸命に呼吸を整えながら、リトアニアは神妙に頭を下げた。その様子を見遣って、仕方ないというようにかぶりを振り、ロシアは広間の入り口へ向かって歩き出した。
 だが、エストニアの傍らを通り過ぎる瞬間。
 ロシアは僅かに足を止め、エストニアにしか聞こえない声で囁いた。
「本当、遣り方が小賢しいよね。君のそういうところ、前々から気に入らないと思ってたんだ。覚えておくといいよ。グラスだけじゃない、君たちの代わりも幾らでもいるんだってことを……ね」
 心臓を冷たい指でぎゅっと掴まれたような心地がした。エストニアは戦慄したが、それを顔に出さないように努めた。ロシアの足音が遠ざかってゆく。入り口までの距離はごく短いものでしかないはずなのに、その時間はまるで永遠のように感じられた。
 パタリと扉が閉じ、ロシアの姿が見えなくなると、リトアニアは口許を押さえ、床に膝を付いて激しく咳き込み始めた。
「リトアニアさん!!大丈夫ですか!?」
 ラトビアが慌てて駆け寄り、背中を擦ってやる。リトアニアは微かに視線を上げ、大丈夫だというように小さく頷いた。
 漸く過ぎ去ってくれた嵐に、エストニアは大きく安堵の溜息を吐いた。まだ小刻みに震えている身体を叱咤し、エストニアは言った。
「君は少し休んだほうがいい、リトアニア。肩を貸しますから、部屋に戻りましょう。ラトビア、人を呼んで、ここを片付けて貰って」
「は、はいっ!!」
 ラトビアは叫び、広間の外へと飛び出していった。後のことは彼と、他の使用人たちに任せよう。それで心配ないと言えば嘘になるが、ラトビアにはもう少ししっかりして貰わなくては困るのだ。
 今は取り敢えず、リトアニアを部屋に連れて帰ろう―――そう思って差し出した手を、しかしリトアニアはやんわりと押し戻した。
「俺は……大丈夫だから。それよりも、ラトビアを手伝ってやらないと」
「駄目です」澄ました口調で言い、エストニアは強引にリトアニアの手を掴んで立ち上がらせると、倒れないように脇を支えた。「そんな顔色でウロウロされても、却って邪魔になるだけですよ。いいから君は休んで下さい。それに、その傷の手当てもしないと」
「―――ごめん、エストニア」観念したように、リトアニアは瞳を伏せた。俯いた横顔には、疲労の色が濃く滲んでいる。リトアニアがあの日から―――幼馴染みの彼が地図の上より消えた日から、殆ど眠っていないことをエストニアは知っている。
 大切な人を守れなかった―――リトアニアを本当の意味で追い詰めているのは、ロシアではなく、彼自身の自責と後悔の念だ。
 少しばかり厳しい口調で、エストニアは言った。
「自棄にならないで下さい。ラトビアを庇うにしたって、もっと上手い方法があったはずでしょう。――気持ちはわかりますが、君はもう少し、自分自身を大切にして下さい」
 リトアニアは無言で頷いた。深緑の視線は伏せられたままで、エストニアと顔を合わせようとはしない。
 ―――君たちの代わりなんて、幾らでもいるんだよ。
 ロシアのせせら笑う声が耳の奥で木霊する。
 ええ、ロシアさん。あなたにとってはそうかもしれません。けれど、僕たちはグラスではないから、感情も思惑も役割も、誰一人として同じものは湛えられない。誰も誰かの代わりにはなれない。それを理解出来ないうちは、あなたはけして孤独から抜け出せない。誰も望んでロシアになりはしない。自らが築いた絶対零度の迷宮の中を、永遠に一人で彷徨い続ければ良い。

 エストニアは奥歯を僅かに噛み締めた。暗澹とした気持ちを押し込めて、わざと明るい声で言う。
「しっかりして下さい。君に何かあったら、ポーランドに怒られるのは僕とラトビアなんですから」
 リトアニアは、弾かれたように顔を上げた。生気の欠片もなかった顔に、初めて表情らしきものが浮かんでいる。困惑した眼差しで見上げてくる相手に、エストニアは小さく笑い掛けた。
「ポーランドは……生きています。必ず、無事でいます。彼は我侭で自分勝手で本当に困った人ですけど、でも―――君を置いて先に逝くような薄情ものじゃないことだけは確かです。それは、ずっと一緒にいた君が一番よく知ってるはずでしょう?まだ絶望するのは早いですよ」
「エストニア………」
「大丈夫……諦めなければ、きっとまた彼にも会えます。だから、その日まで―――君も、僕たちも、何としてでも生き延びなくてはいけません。どんなに情けなくたって、みっともなくたっていい。最後に立ってさえいれば僕たちの勝ちです。だから、それまでは」
 今にも泣き出しそうに歪んだ顔を隠すように、リトアニアはエストニアの肩に額を預けて俯いた。震える身体を支える手に、エストニアは力を込める。
「……心配掛けてごめん……ありがとう」
 長い沈黙の後、エストニアの手を優しく握り返し、リトアニアはぽつりと呟いた。
「いいんですよ。これぐらい何でもありませんから」
 漸く顔を上げ、微かにではあるが笑ってくれた相手を、さあ、と促して歩き出しながら、エストニアは昨晩受け取った手紙のことを思い出していた。






『なーなー、エストニア』
 挨拶も前置きも何もない手紙からは、現在彼が置かれているはずの厳しい状況を想起させるような悲壮感は、まるで感じられなかった。どんな時でも、彼は本当に彼らしい……とエストニアは苦笑した。
 だが、その先に続く文章は、とても苦笑で片付けられるような内容ではなかった。
『リトのこと、頼まれてくれん?』
 エストニアは凍り付いた。ポーランド壊滅の報せを受け取った時のリトアニアの顔を思い出す。あの時の彼は、ひと言も言葉を口にせず、取り乱しもしなかった。ただ、見ているこちらのほうが胸が苦しくなるほどに蒼白な頬の上を、一筋だけ伝った涙がエストニアの脳裏に焼き付いた。忘れたくても忘れられない、あんな悲しそうな泣き顔は見たことがない、そう思った。
 そう言えば、幼い頃―――ポーランドに振り回されていた頃のリトアニアは、とても泣き虫だったようにエストニアは記憶している。だが、ロシアの下で再会して以来、彼が涙を見せたのはこの一度きりだ。
『リト、強情だから自分のことでは絶対泣かんし。周りに心配掛けたくないとか思っとるから、本当に辛い時ほど我慢するし。リトは強いけど―――だからこそ俺、心配なんよ』
 本人は気付いていないかもしれないが、ポーランドが消息を絶って以降のリトアニアは、酷くナーバスになっているようにエストニアも感じていた。これまでもラトビアのミスを庇い、ロシアに痛めつけられることの多かった彼だが、今まで以上に最近はそういう場面に出くわすことが増えた。
 もうこれ以上誰も喪いたくない―――リトアニアの悲痛な叫びが聞こえるようだった。だが、同じ庇うにしても、エストニアなら自分も傷付かないような方法を模索する。リトアニアの遣り方はそうではない。ロシアの理不尽な暴力を避けるどころか、寧ろ望んで受けているような印象すら感じる。まるで―――自分自身を責めているかのように。
『だからなー、エストニア。リトのこと、見てやってくれん?何でもかんでも一人で背負い込むとか、馬鹿じゃね?…って言ってやってくれん?俺、泣いてるリト見るの嫌だけど、泣きもしないで一人で苦しんでるアイツ見るのはもっと嫌だし』
 便箋を掴む指が、小刻みに震えているのを、エストニアは自覚していた。
 何とも言えない苦い気持ちが、胸に込み上げてくる。
『エストニアにしか頼めんから。―――リトのこと、頼むし』
 手紙には、ポーランド自身に関することには何も触れられていない。それでも、これは間違いなく彼からのメッセージだと、エストニアは確信していた。
「………酷いですよ、ポーランド。寄りにも寄って、僕に頼むなんて……」
 俯いた唇から、ポツリと言葉が漏れた。
 僕はずっと―――君を見ているリトアニアを見ていた。見ているだけで良かった。
 彼が君を誰よりも大切に想っていることを知っていて。誰に対しても優しいリトアニアが、本当の意味で僕に心を許してくれることはないと理解していて―――それでも僕は彼が好きだった。君を想い、君に想われて、幸せそうに笑う彼を、見ているのが好きだった。
 自分がリトアニアに想いを寄せていることに、ポーランドが気付いていたかどうか、エストニアは知らない。一見何も考えていないように見えて、その実しっかり周囲を見ている彼のことだから、もしかしたら気付いていたのかもしれない。
 ポーランド。君はどんな思いで、彼を僕に託したんですか?
 痛いほどにリトアニアを想う彼の手紙は、同時に、リトアニアのことを一番よく知っているのは自分だという自負の現れでもある。ポーランドはエストニアを試すつもりなのだろうか。奪えるものなら奪ってみろと。それとも――――。
「僕では―――駄目なんですよ」
 エストニアは苦笑交じりの溜息を吐いた。
 奪える自信があるのなら、とっくの昔にそうしている。
 喩え誰がいなくなろうと、世界が滅びようと、リトアニアが想う相手は変わらないだろう。リトアニアの心を救えるのはポーランドでしか在り得ない。どれほど願っても、エストニアはポーランドの代わりにはなれないのだ。
 だから。
「……君が帰ってくるまでは、責任を持って預かります。……でも、預かるだけです」
 便箋を丁寧に畳んで封筒に仕舞い、エストニアは窓を振り返った。
 硝子に映った宵闇の向こう、その何処かにいるだろう彼に向かって、静かに呟く。
「だから―――早く帰って来て下さいね」
 当然だし!!そう言って笑う彼の声が聞こえたような気がして、エストニアは口許を微かに緩めた。
















立波前提の愛→立も好きです。包容力のある年下は正義!!
エストは一見利己的に見えて、実は一途だったりすると凄く萌える。
でも報われないのが良い(酷)


以下補足&どーでもいい呟き。
私は「いない間」はWW1終戦直後の短い独立期の出来事という解釈をしてる人なので、
国土全消滅中のWW2中は、ポーは(リト達から見て)行方不明中という設定で書いてみました。
大戦中に国外脱出したポーランド軍兵士は大半がイギリス&フランスの元に身を寄せてたそうなので、
英&仏軍と一緒になって戦力を整えつつ、いつか必ずリトを取り返してやる!…と決意するポーとか、
そんな一人楽しすギル妄想をしてひっそり滾ったなんてことは秘密ですvv





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