■光あれ■







 小鹿のような軽やかな足取りで、少女は緑鮮やかな丘の小道を走っていた。 
 むせ返るほどの草木の匂いを孕んだ風も、照りつける真夏の陽射しも、そのしなやかな足を止める障害にはならない。踝に届くほどに長いスカートの裾が汚れるのにも構わず、立ち並ぶ木々と繁みとの間を、花から花へと移ろう蝶のように渡ってゆく。幾つか目に覗きこんだ繁みの中に、漸く見知った金色の髪を認め、少女は安堵の笑みを漏らした。
「こんな所にいたのですね、我が祖国。探しましたよ」
 尖った枝葉が衣服や手足を傷つけるのも構わず、少女は繁みに踏み込み、蹲っていた少年の傍らに腰を下ろした。少年は俯いた顔を僅かに上げたが、癖のないさらりとした髪に覆い隠されたそれは、少女の視界には入らなかった。だが、見えずとも彼がどのような表情をしているのか、少女には手に取るようにわかる。それくらいのことは容易に汲み取れるほどの歳月を、少女は少年と共に歩んできていた。
「かくれんぼですか。懐かしいですね。子供の頃、よくこうして遊んで頂いたのを思い出します」
 木々の葉の囲いの中から、少女は頭上にぽっかりと開けた空を見上げた。雲ひとつなく良く晴れ渡った蒼を眺めていると、傍らの少年と麦畑の中を走り回って過ごした頃が、まるでつい昨日の出来事であるかのように思い出された。
「明日……なんよな」
 ずっと押し黙っていた少年が、ぽつりと呟いた。その声に内包された不安と自責の響きは、普段の彼の、快活を通り越して時に尊大にも思えるその態度からは、まるで想像も出来ぬものだった。
「――――ごめんな、ヤドヴィガ」
 涙混じりの言葉に、少女は己が身に降りかかってきた出来事が、紛れもない現実であることを改めて思い知らされた。
 ヤドヴィガは明日、隣国リトアニアの大公との婚約を定めた調印式に臨むことになっている。ヤドヴィガにとって、それは次期ポーランド女王として約束された未来への最初の一歩であると同時に、子供時代の自分との決別を意味していた。この国の未来は明日を境に、彼女の細い肩へと預けられることになる。
 婚姻を軸とした隣国との同盟は、この国の平和と更なる繁栄を願って定められたことだった。だが、そこにヤドヴィガ自身の意志と感情は反映されていない。彼女はこの同盟の為に、以前より恋慕ってきた想い人との婚約を破棄せざるを得なくなったのだ。
「俺……ヤドヴィガには幸せになって欲しかったんよ…。なのに……俺、何も出来んかったし…」
 ―――知らん人怖いし!!何されるかわからんし!!
 ―――それでヤドヴィガが泣くようなことになるんは、俺絶対嫌だし!!
 隣国との同盟に一番反対していたのは、他ならぬこの少年だということを、ヤドヴィガは司教より聞かされていた。今は自分よりも幼くすら見えるこの少年は、ヤドヴィガがほんの子供だった頃から、今と全く変わらぬ姿を保っていた。物心つくかつかないかの頃から、彼は常に自分の傍に居て、その成長を見守り続けてくれていた。手の付けられないお転婆で、王女らしく畏まっていることが大の苦手だった自分を王宮の外に連れ出して、美しい森や麦畑の中で様々な遊びを教えてくれたのは、兄のような年頃に見える彼だった。本来ならば誰よりも国家の安寧と将来を願わねばならない立場であるはずの彼が、それよりも自分の身を案じてくれたのだと知った時の気持ちを、ヤドヴィガは生涯忘れられないだろうと思う。
「……フェリクス」
 二人だけでいるときには呼ぶことを許されていた、それでも互いの立場を慮って久しく口にしなかったその名を、ヤドヴィガは呼んだ。弾かれたように振り向いた少年の、涙に濡れた頬を、ヤドヴィガは細い指でぎゅっと抓んだ。
「ふわっ!?いたたた、何するし!!」
「私がいつ、幸せでないなどと言いましたか?」
 驚いたように瞳を見開いたフェリクスの頬から手を放し、ヤドヴィガは彼の、陽光を束ねたような金の髪を優しく梳いた。
「充分すぎるくらいに、私は幸せですよ。私の愛する祖国は、これほどまでに私を思ってくれる。あなたの民の一人として、これ以上の幸せは他にないでしょう?それにねフェリクス、私は嬉しいのですよ。あなたが幸せになる、そのお手伝いが出来ることが」
「―――俺の…幸せ?」
 国の化身である少年は、よくわからないといったような顔で瞬いた。
「そう…リトアニアにも、国である方がいらっしゃるそうですね。あなたと同じ年頃の少年であると伺っています。きっと、あなたの良いお友達になって下さいますよ」
「そんな知らんヤツのことなんかより、ヤドヴィガのほうが大事だし」
「フェリクス」
 幼子を窘めるような優しく、そして少しの悲しみを含んだ声で、若き王女は言った。
「我が祖国。我らはあなたの民として、あなたの下に生まれ、あなたと共に歩めることを誇りに思っています。ですが……残念ながら、私たちに与えられる時間は同じではありません。我らにとっては長い一生、けれど、あなたにとってはそう遠くない未来―――私たちはあなたを置いて行かなくてはならない定めにあるのですから」
 国である彼と、人である自分。
 この地に生きるものが、祖国を想う気持ちをなくさない限り。ただの一人でも、それを覚えている限り。フェリクスは彼らと共に生き続ける。この国に生まれた全ての命を見守りながら、自分などには想像も出来ぬような永い時を、ずっとずっと。
 彼が独りになることはないだろう。彼が民を愛するように、民もまた彼を想っている。親から子へ、子から孫へと、連綿と命を繋ぎながら彼の傍らに寄り添っている。―――だからこそ彼は、その全てが自分を置いて旅立つその時まで、見送らねばならなくなる。
 それがどれほど辛く悲しいことか。フェリクスを想えば想うほどに、ヤドヴィガは祈らずにはいられなかった。
 どうか彼の隣に、彼と同じだけの時を、同じ歩幅で歩いてくれる―――そんな存在がいてくれるようにと。
「あなたが感じた喜び、苦しみ、悲しみ…その全てを共有してくれる。あなたの歩んだ道を誰よりも理解して、辛い時にはいつでもあなたを支えてくれる。あなたがそんなお友達を見付けてくれたら良いなって、私はずっとそう思っていたのですよ」
 ―――あなたの我が儘も気紛れも強がりも。全てを受け止めて包み込んでくれる存在を。
 人であるこの身に、そうなることが叶わぬなら。せめて祈らずにはいられない。
 私がいなくなったその後も。あなたが泣かずに済むように。
 ヤドヴィガの手を、フェリクスは自分の両手で握り締めた。幼い子供が母親の手に縋るような仕草に、ヤドヴィガは彼がずっと抱え続けてきたのだろう不安と寂しさを感じた。いつも強気で、まるで怖いものなどないかのような不遜な物言いの目立つ彼だが、それが繊細で臆病な自分を隠すための仮面だということをヤドヴィガはよく知っていた。
「国と国が友達になるとか、そんなん聞いたことないし」
「大丈夫。私たち人間と同じように、あなたたちも心を持っているのですから。人と人とが想いを通じ合えるように、国と国とがそうすることだって、きっと出来るはずですよ」
 神が、国と呼ばれる存在に人と同じ心を与えたことに、何か理由があるのだとしたら。
 どうかこの為であって欲しいと。ヤドヴィガは切に願った。
 悠久にも等しい時を生き、数多の命を見送りながら、それでも彼らが幸せになる為の。
「…さあ、そろそろ王宮に戻りましょう。明日の準備をしなくてはならないのに、あなたがいなくては何も出来ないと、皆が困り果てていましたよ」
 気丈な王女に促され、フェリクスは頷いて立ち上がった。目尻に残る涙を手の甲で乱暴に拭うと、彼はいつもの人を小ばかにしたかのような笑みを浮かべ、勢いよく繁みの外へと飛び出した。
「どっちが王宮まで速いか競争な!俺が勝ったらヤドヴィガのパルシュキは俺のものだし〜♪」
 言うなり金の髪を翻して駆けてゆく少年を、ヤドヴィガは苦笑交じりの視線で見遣った。
 幼いころから何度となく、あの背を追い掛けて走った。目映いばかりの陽射しの中、緑の息吹の中、王宮に戻るまでの束の間許された、夢のような時間だった。それもきっと、これが最後になるのだろう。
 ああ、だけど。だからこそ、あなたは。
「ヤドヴィガ遅いしー!何やっとるん!?」
 その先行きに数多の光と幸福を、と。痛いほどにそう祈りながら、ヤドヴィガはこちらを振り向いて笑う少年へと、大きく手を振り返した。



















不意にポーとヤド様のお話が降りてきたので、勢いのままに書き殴ってみました。
クレヴォの合同の前日ってことでひとつ。
あ、ヤド様の性格は捏造満載です(苦笑)








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