■手折らじの花■







 焦りの募る胸中を嘲笑うかのように、秋の黄昏は次第にその色を深めてゆく。
 花の唇を真一文字に引き結び、衣服の裾を無造作にたくし上げ、ハンガリーは羊歯の繁みの中に注意深く踏み込んだ。下草がむき出しの脛に触れ、既に何本もの血の筋を滲ませているそこに、また新たな傷を刻んでいく。上質のシルクで出来た萌黄のワンピースはそこかしこに引っ掛け痕を作り、染み付いた泥と草の汁とが芸術性の欠片もない模様を生地の上に描き出していた。だが、そんな些事には全く目もくれず、彼女はしなやかな腕を伸ばし、潅木の小枝を一心不乱に掻き分け続けた。
「―――ダメだわ…やっぱりない……」
 僅かに色付き始めた木々の中に目的の色を見付けられず、ハンガリーは落胆の溜息を吐いた。わかっている。既に何度も探した場所だ。だが、見落としていた可能性だって否定しきれない。何かの拍子に偶然転がり出てくることだってあるかもしれない。諦めたらそこで終わり―――迷いを払うようにかぶりを振って、ハンガリーは再び繁みに向き直った。
「絶対に見付けなきゃ―――オーストリアさんが私の為に選んでくれたものなんだから」
 ハンガリーが失くしたのは、薄桃色の花を模した髪飾りだった。昨年の誕生日にオーストリアから貰ったものだ。「街で偶然見付けて―――あなたに似合うと思いましたので」そう言って可愛らしく包まれた小箱を差し出した彼の、いつもどおりに取り澄ました顔が、しかしほんの僅かに上気しているのをハンガリーは見逃さなかった。プライドが高く、落ち着いた物腰を崩さない彼だが、シャイで臆病な一面も持ち合わせていることをハンガリーはよく知っている。方向音痴の彼に、出先で目的以外の買い物が出来るだけの余裕があるとは思えなかった。恐らくは供を連れて(多分ドイツ辺りを付き合わせて)、わざわざ買いに行ったに違いない。気恥ずかしさに頬を染めながら、女性物のアクセサリーを検分する彼の姿を想像すると、嬉しさと微笑ましさに胸の辺りがむず痒いような気持ちになった。
 以来、ハンガリーは私用でオーストリアに会うときは、必ずこの髪飾りを着けて行くようになった。彼は特に何も言わなかったが、榛色の髪の上で揺れる花を見る度に、青水晶の瞳が嬉しそうに細められることにハンガリーは気付いている。彼は自分で思っている以上にわかりやすい人なのだ。
 今日も、ハンガリーはオーストリアの開いたお茶会に招かれていた。ここ暫くはお互いに仕事が忙しく、顔を合わせるのは久々であったので、ハンガリーはいつも以上に気合いを入れて粧し込んだ。オーストリアの評判も良く「よく似合っていますよ」との言葉に上機嫌で帰路についたその途中で、髪飾りがなくなっていることに気付いたのだった。
 国境付近の森を通るまでは確かにあったのだ。森に入る直前に擦れ違った初老の婦人に「可愛らしいですね」と髪飾りを褒められたのだから。森を抜けて幾らも行かないところで、偶々吹き抜けた風に乱された髪を直そうとしてなくなっていることに気付いたのだから、落としたとすればこの森の中としか考えられない。
 森とは言ってもそれほど深くはなく、中央を貫くように通された道は、それなりに人の行き来もあるためによく整備されている。すぐに見付かるだろう……との楽観的な思いを、しかしハンガリーは時間の経過とともに改めざるを得なくなった。
 どんなにゆっくり歩いても10分足らずほどで抜けられる森の小道の、端から端までを何度も往復してみたのだが、髪飾りはどこにも落ちていなかった。森の入り口から髪飾りを失くしたことに気付いた地点まではほぼまっすぐな一本道で、あの婦人以外の人とは擦れ違っていないのだから、誰かに拾われたとは考えにくい。風に吹かれて道の脇の繁みの中に転がり込んでしまったのかもしれない――――そう思って繁みの中を探し始めてから、既にどれくらいの時間が経ったことか。目的は果たせないまま陽は無情にも暮れ始めている。完全に夜になってしまえば探すのは難しい。だが、諦められない理由がハンガリーにはあった。明日はオーストリアと一緒に街へ行く約束をしているのだ。
「どうして―――どうしてないの…?どこにいったの…?」
 苛立った手付きで、ハンガリーは鬱蒼と繁る小枝を薙いだ。反動で戻ってきた枝の中の一本が、彼女の目の近くを掠める。幸い傷は付かなかったが、驚きと衝撃でハンガリーは思わず後方に仰け反った。咄嗟に踏み出した足が木の根を踏みつけ、バランスを取りきれずにハンガリーはよろめいた。
「おっと」
 倒れこんだ身体は、咄嗟に後方から伸びて来た逞しい腕に抱き留められた。慌てて首を捻って振り返れば、人を小ばかにしたような笑みを含んだ紅蓮の瞳が肩越しに見え、彼女は息を呑む。
「プロイセン……!?」
「…ったく、ドジ踏んでんじゃねぇよ。カッコ悪ィ」
「ほっといてよ」
 顔を合わせるや否やの悪態に、ハンガリーは礼を言うのも忘れて彼の腕を振り解いてその中から抜け出した。プロイセンは特に気を悪くした様子もなく、値踏みするような視線でハンガリーの様相を頭から爪先までジロジロと眺めた。
「な〜に似合わねーカッコしてんだよ。泥だらけでオマケにボロボロじゃねーか。どーせ裾でも踏んづけてすっ転んだんだろ?だっせーなぁ」
 にやりと片側のみ口角を吊り上げた相手の顔を見て、ハンガリーは苛立たしげに唇を噛んだ。嫌なヤツに会ってしまった、最悪だ。彼は古くからの顔馴染みではあったが、残念ながらその仲は間違っても友好的とは言えない。長い歴史の中、同じ陣営に属した経験も皆無ではなかったが、どちらかと言えば、顔を合わせる度に喧嘩ばかりを繰り返しているような間柄だった。
 普段の彼女なら、こんな子供じみた挑発など気にも留めなかっただろう。事実、これまでの二人の経歴を思えば、この程度の言い合いは喧嘩のうちにも入らないレベルだ。だが、聞き飽きるほどに耳慣れてしまった彼のその憎まれ口が、今日ばかりはいやに勘に触った。
「あんたには関係ないでしょ。邪魔だからもう行ってちょうだい」
「…んな露骨に邪険にすんなよ可愛くねーな。ま、今更猫被ったところで、もう本性はバレバレだけどな」
 せせら笑いを浮かべたプロイセンの視線が、ふとハンガリーの榛色の髪の上を流れて止まった。
「おっ?おまえ、今日は花つけてねーのか?これじゃますます男だか女だかわかんねーな」
 意地悪気に言い放つと同時に、プロイセンは後ろ足に重心を掛け、いつでもその場を飛び退れるよう身構えた。これまでの経験から言えば、十中八九、この後にはハンガリーお得意のフライパン攻撃が飛んでくるはずだ。さもなくば肘鉄か、はたまた回し蹴りか。―――だが、彼女の反応は、プロイセンが予測したそのどれからも大きく掛け離れていた。
「……………」
「―――――へっ?」
 皇かな弧を描いた頬をすっと一筋伝った涙に、プロイセンは一瞬呆気に取られ、事態を飲み込むや否や心底慌てる破目になった。
 男勝りで直情的なハンガリーの気性を、彼はよく知っている。どのような言葉を使えば彼女が怒り、どの程度の反撃が返ってくるのかも。それを避けられるかどうかは彼女との遣り取りにおいてプロイセンが常に念頭に置いていることだったか、まさか手を上げられる前に泣かれてしまうとは全く考えてもいなかったのだ。
「ちょ…!!お、おい…泣くなよ……」
 おろおろと彼女の両肩に手を伸ばしかけては思い止まり、落ち着きなく胸元を弄り(恐らくはハンカチでも探したのだろうが、生憎手持ちになかったようだ)、プロイセンは困ったような顔でハンガリーから目を逸らすと頭を掻いた。こんなヤツの前で情けない―――と思いながらも、悔しさと自己嫌悪に彼女も涙を止めることは出来なかった。酷い顔をしている自覚はあったが、ここで俯いてしまったら更に惨めな気持ちになるだけのような気がして、嗚咽を必死に噛み殺しながら、彼女は潤んだ瞳で目の前の男を睨み付けた。
 会話が途切れてしまえば、あとは気まずい沈黙に身を委ねるしかない。黄昏時の寂寥感も相俟って、息苦しさを感じるほどだった。
「―――で、どんなんだよ?」
 唐突に沈黙を破った声に、ハンガリーは無言で瞬いた。意味がわからないといった様子の彼女の顔を、ちらりと窺うように一瞥し、プロイセンは、だから、と続けた。
「落としたんだろ?髪飾り。ここで」
 粗野で短気ではあったが、元来彼は察しの悪いほうではない。だが、涙の余韻で混乱気味のハンガリーの思考は、彼の言ったことの意味を咄嗟に判じかねた。プロイセンは大袈裟に溜息を吐くと、身体ごと彼女のほうへ向き直った。
「ほら、さっさとしねーと陽が暮れちまうぞ。どんなもんかわかんねーと探しようがねーだろが」
 手伝ってやると、そう言われているのだと漸く理解してハンガリーは目を瞠った。何か企んでいるのかという疑念も湧き上がったが、眼前の彼の浮かべた思いのほか真面目な表情に、ハンガリーは急いで頭の中を切り替えた。もしもう少し周囲が明るかったら、彼女はプロイセンのその白皙の頬が、僅かに紅く染まっていたことに気付いたかもしれない。
「えっと……薄いピンクのこれくらいの大きさの花が二つ並んでて…真珠の飾りがあしらってあって……裏に銀色のピンが付いてるわ」
「ピンクで……銀色のピンねぇ……」
 ハンガリーの言葉を反芻しながら、何気なく木々の梢を見上げたプロイセンの視線が、ある一点でピタリと止まった。
「……あれかよ」
 紅蓮の瞳がすっと細められる。しかし、それは獲物を狙う猛禽の鋭さというよりは、隠してあったお菓子を見付け出した子供のような楽しげな雰囲気を纏っていた。呆気に取られるハンガリーに構わず、彼は一本の楡の樹へと近付くと、勢いをつけて登り始めた。
「ちょっと!何やってるのよあんた!?」
「いーからいーから。まあ黙って見とけ」
 困惑に満ちたハンガリーの問い掛けは適当に受け流し、プロイセンは躊躇いなく尚も上へと登り続ける。その姿は瞬く間に梢の中へと掻き消えた。一人残されたハンガリーは、ガサガサと葉擦れの音を立てる梢を、訳もわからずただ見詰めているしかない。説明を求めようかともう一度口を開きかけたところで、弾んだ声が上から降ってきた。
「ビンゴ!!」
「えっ?」
 瞬間、俄かに樹上が騒がしくなった。重なり合った枝が激しく揺れ、プロイセンの慌てた声が響く。
「ぎゃ!!…わ…ちょ、ちょっと待て……わかった、悪かった!!だから…ちょ、落ち着けっておま……ぐわっ!?」
 大きな音と共に、ハンガリーの目の前に銀髪の青年が勢い良く落ちてきた。…ってぇ、と顔を顰めながら、したたかに打ち付けたらしい腰を擦っていた彼だが、ハンガリーが傍に駆け寄るといつもの傲慢なほどに勝気な表情に戻り、手に持ったものを得意げに差し出した。
「ほらよ。これだろ?」
 茜色の夕映えに染まったそれは、間違いなくハンガリーが失くした髪飾りだった。彼女は信じられないといったように瞳を見開いて呟いた。
「………どうして……樹の上なんかに……?」
「花の盛りをとっくに過ぎた時季に、こんな派手な色が森ン中落ちてたら目立つだろうが。おまけにきらきら光る銀色のピン付きときたら、それこそ持ってって下さいって言ってるようなもんだろ?小鳥さんにさ」
「―――鳥の巣なんて…あそこにあった?」
 ハンガリーは先ほどプロイセンが登っていった梢をもう一度見上げた。慎重に目を凝らして探してみたが、幾重にも張り巡らされた枝葉以外は何も見えない。
「よく気付いたわね」
「ま、俺と小鳥さんの心は海よりも深く繋がっているからな。言わば俺たちは運命共同体、小鳥さんの考えてることで、俺にわからないことなんかないぜ」
「その割りには喧嘩して追い出されてたみたいだけど?」
「るせーな。偶々小鳥さんの機嫌が悪かったんだよ」
 ふわり、と掌の上に乗せられた花を、ハンガリーは大事そうに両手で包み込んだ。と、差し出された格好になったプロイセンの左手の甲が偶然視界に入った。そこに紅いものが滲んでいるのに気付き、彼女は声を引き攣らせる。
「ちょ……あんた怪我してるじゃない!」
「ああ?ンなもん大したことねーよ。舐めときゃ治る」
 伸ばされたハンガリーの手を払いのけ、プロイセンはゆっくりと立ち上がった。
 ハンガリーは手の中の花をそっと胸元に抱えた。美しいそれは、繊細な作りであるだけに酷く脆く、少しばかり衝撃を加えただけで簡単に壊れてしまうようなものだった。あれだけ高いところから落ちたなら、弾みで握りつぶしたり放り出したりしてしまっても可笑しくはないものを。彼は見事に守り抜いてくれた―――自身の身体に傷を負ってまで。
「―――ごめんなさい」
 自分がこれまで、彼に一度も礼を言っていなかったことに思い至り、ハンガリーは消え入りそうな声で呟いた。申し訳なさで彼の顔をまともに見られず、俯いたところで急に寒気を感じて、彼女は小さくくしゃみをした。
 雪の季節にはまだ遠いものの、それでも冷え込みは夜毎に厳しさを増してゆく。切羽詰っていた為に今まで感じなかったのだが、改めて状況を認識すると、余所行きの薄手のワンピース一枚きりの身に、暮れ方の寒さはかなり堪えた。
「…ったく、そんな薄着でいつまでもウロウロしてるからだぜ」
 唐突に肩の上にばさりと何かを掛けられて、ハンガリーは反射的に顔を上げた。プロイセンの羽織っていたジャケットだ―――と気付いたときには、彼は森の出口に向かって大股で歩み去っていくところだった。薄手のシャツ姿の背中がズンズン遠ざかってゆくのを見送りかけて我に返り、ハンガリーは慌てて彼に呼び掛けた。
「待って。これじゃあんたが寒いじゃない」
「こんくらいで風邪ひくよーなヤワな鍛え方はしてねっつーの」
 プロイセンは足を止め、首だけを捻ってこちらを振り返った。
「……もう失くすんじゃねーぞ。その度にいちいちそんな風にしおらしくされたんじゃ、こっちのペースまで狂っちまうからよ」
 一瞬跳ね上がりかけた鼓動には気付かぬ振りをして、じゃあな、と、軽薄そうに片手を振りながら去ってゆく後姿を、ハンガリーは今度こそ黙って見送った。
 着せ掛けられた黒い上着には、まだ持ち主の体温が残っている。襟元を掻き合わせようとして、ハンガリーはそれの、ずり落ちて来そうなほどの大きさを意識した。どちらかと言えば細身の体躯の彼だが、それでもその上着は肩幅も丈もハンガリーの身体には余っていた。
 遠い昔―――それこそほんの子供だった頃から見知った相手だ。あの頃はまだ二人の体格に殆ど差はなかった。同じ高さにあるはずだった彼の瞳が、見上げなければ視界に入らなくなってしまったのはいつの頃からだっただろう。剣も口喧嘩も、彼に遅れを取っているとは今でも思っていないが、こんな風にすっぽりと自分を包んでしまえる温もりを見せ付けられると、やはり男の子なんだな…と思わずにはいられなかった。それは何とも言えない歯痒さと嬉しさと、そして少しの寂しさとを彼女に齎した。
 そういえば、以前にもこんなことがあった―――懐かしさに彼女は口許だけで笑った。トルコの奇襲に遭い、ボロボロになって逃げ延びた自分に、ぶっきらぼうな言葉と共に放って寄越された黒い外套。不器用な彼の優しさをハンガリーは思い―――そして、いつの間にか互いの間に生じてしまった、埋めようもない距離を思った。
 家に帰り着いたら。気合いを入れて、とびきり丁寧にジャケットを洗濯しよう。最近いいお天気が続いているから、きっと明日中には乾くはず。綺麗にアイロンを掛けて、手作りのお菓子でも添えて、家まで押し掛けたら彼はどんな顔をするだろう。お菓子は何を作ろうか―――ドボシュ・トルテ、クグロフ、リゴ・ヤンシ、オーストリアに教わってシュトルーデルを焼くのもいいかもしれない。
 ほろ苦い感傷は小さく折り畳んで胸の奥に仕舞い込み、楽しい計画に思いを巡らせながら、ハンガリーは家路を辿る足を急がせる。
 夜風の冷たさは、もう感じなかった。



















初・普洪小説。
構想は3月頃から頭の中にあったのものの、3巻にあった話と微妙にネタが被ってしまったので、
書こうかどうしようか散々迷ったのですが、丸被りしてる訳じゃないからいいか…と開き直りました(爆)
普洪は喧嘩ばっかりしていた幼馴染みの少年少女が、
思春期に差し掛かってお互いの存在を男女として意識し始めたような、そんな初々しさが好きだったりします。
…と言っても、私的には墺洪ベースの普→洪という構図が一番好きなので、
どうあってもラブラブにはなれない二人で本当に申し訳ない…(汗)
いつもお世話になってる早瀬けいなさんに捧げます。こんなのでよろしければお受け取り下さいv








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