■孤独の証明■







「なかなか旨くいかないもんだね」
 デスクに広げた地図を見遣って、ロシアは憂鬱そうに溜息を吐いた。
「予定ではこの辺りまでとっくに開墾が済んでいたはずなんだけど」
「現場責任者の首を挿げ替えますか?尤も、それで遅れを取り戻せるとは思えませんが」
 淡々と事務的に告げられたエストニアの声に、ロシアは暫く思案顔で唸っていたが、やがてお手上げといったように肩を竦めた。
「――――まだまだ、色んなものが足りないよね」
 眼鏡の奥の紺碧の双眸を瞬かせ、エストニアは無言で頷いた。そこには何の感情も浮かんでいない。
 無理もない。数多くの国を併合してひとつの国家を作り上げたものの、集った国は皆それぞれに先の戦で負った痛手を抱えている。広くはあっても気候や地形には恵まれておらず、それゆえ資源も人材も不足しがちなこの地で、マイナスの状態から新しいものを作り上げ、発展させていくのは簡単なことではない。だが、ロシアの遣り方は容赦がなかった。僕は――僕たちは早く、強くならなきゃいけない。西側の国たちより、もっとずっと強く。だってそうでしょう?弱い国に生き残る権利なんてないんだから。
「それでも、以前に比べればずっと作業ペースは上がっています。フィンランドが性能の良い機械を大量に回してくれましたから」
「ああ、君のお友達が頑張ってくれてるんだね。いいなぁ、頼りになる友達がいて。僕もそんな友達が欲しいなぁ―――どうせならフィンランドも、僕たちと一緒になればいいのに。ねえエストニア、そう思わない?」
 それには答えず、エストニアはやはり無表情のままに、手元の報告書へと視線を落とす。
「足りないものを嘆いても仕方ありません。今最重要視すべき課題は食糧難の解消です。動員出来る人員は限られています。当面は大規模な軍事活動は控え、国内の整備を第一に考えるのが得策かと」
「面倒だなぁ……でもまあ、頑張るしかないよね。お金が全てと思ってる人たちに、これ以上借りを作りなくないし」
 他国との外貨の遣り取りは出来れば避けたいところだったが、深刻な食糧事情はやはり自国の中だけで解決するには至らず、不本意ながらも資本主義国からの輸入に頼らざるを得ないのが実情だ。食べるものが少ない―――それはロシアがこの世に生まれてからずっと、何百年にも亘って抱え続けてきた問題だった。
「アメリカ君たちが早く気付いてくれれば良いのにね。本当の幸せはお金じゃ手に入らないんだよって。誰もがみんな同じ条件で、同じように暮らせるような世界になれば、戦争なんてしなくて済むようになるのにって――-―ふふ、みんな纏めてロシアになっちゃえば、つまらない争いも面倒な問題も、全部全部解決出来るんだもんね」
 一瞬、エストニアの瞳に、灰の奥で燻る燠火のようなじわりと熱の籠った光が灯る。それは静かではあったが酷く剣呑だった。あなたがそれを言うのかロシアさん。平然と弱者を踏み躙り、流血の惨事を繰り返してきたあなたが、それを。確かに、真の平和や豊かさは金で手に入れられるようなものではない。ならば、価値観の強要と一方的な暴力によって得られるものだとでも言うつもりか。もし、そう言葉にすれば目の前のこの人はきっと、だって言ってもわからない人にはお仕置きが必要でしょう、と子供のように無邪気に笑うのだろう―――紺碧の瞳はすぐに元通りの凪ぎを取り戻した為、手元の地図に意識を向けていたロシアに気取られることはなかった。
「―――では、そろそろ僕は執務室に戻ります。まだ仕事が残ってますので」
「そう?ご苦労様。あ、報告書、もう少し詳しく纏めといてくれる?あとで上司にも提出しなきゃいけないから」
「わかりました」
 小さく一礼し、エストニアは踵を返した。立ち去りかけた背中に、エストニア、と声が掛かる。足を止めて振り返れば、静かにこちらを見詰めてくる紫水晶の瞳と目が合った。その驚くほどに真摯で純粋な眼差しが、一瞬、エストニアをたじろがせる。
「食料が不足することなく、誰もがお腹いっぱい食べられるような国になれば……みんな、ここにいてくれるのかな?ここにいたいと思ってくれるようになるのかな?」
 エストニアは口籠った。そうだ、と断言出来るほど、今の政治事情は単純なものではない。それをこの人が理解していないとも思えないが、ありのままを口にするのを躊躇わせるほどには、彼の浮かべた表情は繊細で無防備だった。
「そうなれば―――良いですね」
 辛うじてそれだけを答え、エストニアは再びロシアに背を向けた。部屋を出て後ろ手に扉を閉めた瞬間、極度の緊張から解放され、反動で全身からどっと汗が噴き出した。思わずその場にへたり込みそうになるのを堪え、扉に凭れ掛かって大きく息を吐く。その耳に穏やかな声が届いた。
「―――エストニア」
 ゆっくりと顔を上げれば、気遣わしげな表情を浮かべたリトアニアがそこに立っていた。その傍らにはラトビアもいて、不安そうに潤んだ菫色の瞳で見上げてくる。同胞の姿を認め、ずっと凍り付いたままだったエストニアの表情が、漸く安堵の笑みに緩んだ。
「どうしたんですか、二人とも。まだ仕事は終わってないでしょう?」
「―――やっぱり君、顔色が良くないよ、エストニア。何処か悪いんじゃない?」
 額へと伸びてきたリトアニアの手を遮り、エストニアは厭味なほどに落ち着いた仕草で眼鏡を押し上げた。
「大丈夫ですよ。ロシアさんと話して気疲れしただけです。少し休めば治ります」
「そうなの…?なら―――いいんだけど……」
 そこで追求を打ち切りはしたが、じっと自分を見詰めてくるリトアニアの瞳は心配そうに揺らいだままだ。全てを見透かされてしまいそうな感覚に陥り、エストニアは内心焦りつつも、平静な声で帰室を促した。
 やはりリトアニアは鋭い。心優しい彼は、仲間のことを誰よりも気に掛けている。
 だからこそ、隠し通さねばならない。ロシアだけではなく誰にも―――特に、この深緑の瞳の青年には絶対に気付かれる訳にはいかないのだ。






 みんなでひとつになろうよ。それがあの人の口癖だった。
「もっと強く―――誰もがみんな同じ条件で、同じように暮らせるような世界を作れる力を…か。ロシアさんの気持ちもわからないではないんだけどね……」
 執務室の椅子に身を沈めながら、リトアニアは重い溜息を吐き出した。
「思想」ではなく「気持ち」がわかる、その言葉にリトアニアの複雑な内心が透けて見える。生き残る為、他者からの侵略を排除する為に力を欲するのは、国として生まれついた以上逃れようのない本能のようなものだと、自らの経験に照らし合わせてリトアニアはそう解釈している。ただし、その為に如何なる手段を取るか、そして得た力を以って何を為すかはまた別の話だ。
「―――そもそも無理な話だと、僕はそう思っていますよ」
 答えてエストニアは淡々と言葉を紡ぐ。身分や財産を初めとするあらゆる差をなくし、誰もが同じ価値観を共有した世界。成る程、確かに争いはなくなるかもしれない。しかし、努力に見合った対価の得られない社会で、生産性の向上を図るのは容易ではない。人の欲望には限りがなく、それを満たす役割を果たせないシステムの中で、経済成長目覚しい西側の国々に対抗する力を得ようなど、どだい無理な話なのだ。そんな夢物語を本気で信じているらしいあの絶対零度の暴君の愚かさこそが、エストニアには何よりも理解し難いことだった。ましてやその気持ちなど、わかりたくもないし受け入れる意志もない。慮ろうと考えるリトアニアは、やはり人が好すぎるのだ。
「僕たちの進む道に……明るい未来はあるんでしょうか…?」
 俯いたラトビアが落とした呟きが、胸中に不安の波紋を広げる。理想と現実の境界があまりにもはっきりしすぎているこの国では、何が正しくて何が間違っているのかが逆にわからなくなってくる。徐々に麻痺してくる感覚が、迷いを更に助長する。眼鏡を直すふりをして、エストニアは僅かに眉を顰めた。
 ―――あの忌まわしい支配者に引き摺られて、共に奈落の底に堕ちて行くことだけは、絶対に避けなければならない。自分も、同胞であるこの二人も。いつか必ず自由を手に入れる。その日が来るまで、何としてでも守り通さねばならない。
 先ほどロシアが問題にしていた事業の遅れには、実は他ならぬエストニアが一枚噛んでいる。ロシアが突きつけて来る無理な要求を、表向きは忠実に遂行すると見せ掛けて、水面下で巧みに情報を操作し、自分たちの肩に掛かる負担が可能な限り少なくなるように図っているのだ。エストニアの立場と能力を以ってすれば、容易いとはいかないまでもロシアの目を欺くことは不可能ではなかった。
 無論エストニアとて、それが間違っても褒められた行為でないことくらい承知している。だが、力の差はあまりにも歴然とし過ぎており、無闇に抵抗しても傷が増えるだけの結果に終わるのは明白だった。それでも守りたいものがあるなら、そして自身の存在を諦めたくないなら、自分に出来る方法で戦うしかない。
 発覚すればどんな恐ろしい罰が科せられるか、想像すら出来ない。ポーカーフェイスには自信があったが、それでも極度の緊張を強いられる日々に、既に神経も体力も限界近くまで磨り減っている。幾重にも包んだ秘密をふとした気の緩みで曝してしまわないよう、これからは一層気を引き締めて事に当たらねばならない。エストニアは計画を他の二人に打ち明けるつもりは一切なかった。共犯者を増やせばそれだけ露見する可能性が増すからというのもあるが、リトアニアに知れれば彼がどういう反応を示すか、容易に想像がついてしまうことが最大の理由だった。
 彼は必ず止めに入るだろう。―――やめよう、エストニア。俺たちの為に、自分の身を危険に晒すような真似はしないで欲しい―――。深緑の瞳に哀しみを湛え、彼はきっとそう言うのだろう。君には関係ない、これは自分が勝手にやっていることだ―――喩えそう突っぱねたとしても聞き入れられはしないだろう。温厚で控えめな彼は、しかしある面では恐ろしく剛情だ。万一ロシアに気付かれたら、彼は間違いなくエストニアを庇う為に動くだろう。彼にそんなことをさせる訳にはいかなかった。
 正面切って事態を変えられるだけの力もないのに、守りたいなどとはおこがましい以外の何ものでもない。だから、これは全て自分のエゴだ。そんなものの為に、彼を巻き込む気はさらさらない。孤独な戦いに臨む覚悟くらい、とうの昔に出来ている。抱え込んだ恐怖や罪悪感は鋭い痛みを伴って胸を刺したが、この痛みに耐えられるうちは自分の意志を貫いても良いのだと、エストニアは自分で自分にそう言い訳していた。
 顔を上げると、何か言いたげな思い詰めたような表情で、リトアニアがこちらを見ていた。見返して浮かべた笑顔が、不自然なものになっていない自信はあった。大丈夫。僕はまだちゃんと笑える。笑えている。だから―――まだ大丈夫だ。
「明るい未来を目指す第一歩として、まずは食料庫の心配をしましょうか。幸いにして今年は天候に恵まれています。旨くいけば麦もジャガイモも、そして向日葵も、いつもの年よりは収穫が見込めそうです。予断を許さない状況であることに変わりはありませんが―――多少なりとも食糧事情が改善されれば、人々の心に余裕も生まれるでしょう」




 

 エストニアの予測は当たらなかった。
 世界はいつも気紛れに、人々に試練を投げて寄越す。
 風を受けてガタガタと鳴る窓枠の向こうに絶望を垣間見た気がして、エストニアは思い溜息を吐いた。季節はずれの寒波によって白く塗り潰された風景は、この地に生きるものにとって悪夢以外の何ものでもない。
「向日葵……駄目かもしれませんね」
 収穫期を間近に控えていた黄色の花畑を思い起こし、泣きそうな声でラトビアは言った。それに頷くことも出来ず、エストニアは強引にカーテンを引いて外の景色を視界から遮断した。傍らでは帳簿を繰りながら、リトアニアがやはり憂鬱な溜息を落としている。寒波における農業被害の予測とそれによって各方面へどれくらい影響が出るかの予測、出来ることなら終生携わりたくなかった業務だ。
 食料庫はそろそろ限界を迎えつつある。辛うじて自分たちが食べていけるだけは確保してあるが、国民全てを養える量には到底及ばない。国力どころではなく、民衆の不満を抑えるだけで精一杯だった。実りの期待を寸前で吹き消された今の状況なら尚のこと。
 暗澹とした未来に目を向けねばならない現実を思えば、自然と心は重くなり口数も減る。白い絶望に降り込められた屋敷の中は静かだった―――そう、それは違和感を覚えるほどに。
「大変っ…大変よっ!!」
 切羽詰った足音を響かせて、蒼白な面持ちで駆け込んで来たのはウクライナだった。
「ロシアちゃんが……ロシアちゃんがいなくなっちゃったの!!」
 瞬間、部屋をさざめかせた空気が、戦慄によるものなのか歓喜によるものなのかは誰にもわからなかった。椅子を鳴らして立ち上がったリトアニアの指先から、書類の束が音を立てて床に落ちる。
「いつからですか!?」
「わからないの……気がついたらいなくなってて……。屋敷を隅々まで探してみたけど見当たらないの―――こんな吹雪の中に出て行くなんて危ないのに―――!!」
 恐慌を来たして床に座り込んだウクライナの傍に、慌ててラトビアが駆け寄る。振り向いたリトアニアの強い意志を秘めた眼差しに捉えられ、エストニアは息を呑み、そしてその勢いに気圧されるように頷いた。どんな理由があろうと、互いの立場がどうであろうと、放っておく訳にはいかない。取るべき選択肢はひとつしかなかった。
「ラトビアはそのままウクライナさんに付いててあげて―――行こう、エストニア」
「―――ええ、急ぎましょう」
 全く、世話の掛かる―――分厚いコートを身に纏いながら、苦い気持ちでエストニアは奥歯を噛み締めた。こんな悪天候の日に外に出るだなんて、あの人は一体何を考えているんだ。しかもウクライナの話では、外出用の防寒着は全て部屋に残されたままだったらしい。自殺行為じゃないですか―――思わず漏れた愕然とした呟きに険しい顔で同意を返し、リトアニアは屋敷の外へと足を踏み出した。
「時間を決めて、二手に分かれよう。あまり長い間の捜索は、俺たちにとっても危険だ」
 コートの襟元を掻き合わせるリトアニアの声に焦りが滲む。初秋の来訪者とは到底信じ難いほどに、それは酷い吹雪だった。横殴りの風と雪とが辺り一面を覆いつくし、数メートル先の視界すら覚束ない。
 リトアニアと分かれ、白く霞む風景の中を一人歩きながら、エストニアはまるで子供のように無邪気で残酷な氷の国の覇者を思った。柔和なようでいて全く温度の感じられない微笑みも、寒空に煌く星のように凍てついた光を宿した紫水晶の瞳も、まるで当然の権利と言わんばかりに弱者を蹂躙するその遣り口も、何ひとつ好きになれない相手だった。大柄な体躯の割りにあどけなさを残したその声が、夢見るように語る絵空事を知っている。
 みんな同じになればいいんだよ。立場や貧富の差なんてものがなくなって、みんなが同じ思想の下にひとつになれば、戦争も差別も偏見も何もかもなくなる。誰かを羨んだり、それ以上のものを求めて何かを犠牲にする必要もない。ねえ、早くそんな世界になれば良いと思わない?
 まるで、深海の底のような世界だと、エストニアはそう思わずにはいられない。色も音も光もない凪ぎに囲い込まれ、呼吸をすることすらままならないような。そんな世界で、あなたは一体何を思うのですか、ロシアさん。そのような場所に本当に、あなたの望むものがあるのですか?
 だって。頑是無い子供のように言い張る声が聞こえた気がして、エストニアは息を詰め、盛んに瞬きを繰り返した。何もかもを貪欲に飲み込み埋め尽くしてゆく白い雪はまるであの人そのもので、温もりの欠片もないその視界の中に、エストニアは紫水晶の幻を視た。繊細で無防備なその眼差しは、どのような思いを込めて世界を映しているのか。どうすればみんな、ここにいてくれるのかな?ここにいたいと思うようになってくれるのかな?みんながお腹いっぱい食べられるようになれば、飢えに苦しむことのない世界になれば―――、そうしたら僕は一人ぼっちにならずに済むのかな―――?
 急速に頭の芯が冷えてゆくような感覚に、エストニアははっと顔を上げた。あの寂しそうな色を湛えた瞳に、そうなれば良いと告げた自分の声を、複雑に揺らめいたあの時の胸中を、今更ながらに思い出す。確信を込めた足取りで、エストニアは歩き出した。向かう先はそう―――向日葵畑。盛りを終えた花を残念そうに眺め、それでもその次に訪れる実りに思いを馳せていたロシアの顔を覚えている。短い夏の息吹の、その結びに刻まれた記憶。
「――――!!やっぱり―――」
 丈の長い無彩色の上着。白銀の髪。圧倒的な存在感を持って他人を威圧するその人は、しかし今は降り積もった雪の中に融けて霞んでしまいそうなほどに、儚く、頼りなく見えた。
「ロシアさん―――!!エストニア!!」
 聞き慣れた声が後方から響き、エストニアは振り向いた。白い息を吐き出しながら、リトアニアが駆け寄って来る。彼も同じことを考えたらしい。
「駄目―――降らないで。お願い……向日葵を枯らせないで―――!」
 雪避けのつもりなのだろうか、屋敷から持ち出したらしい大きな布を、ロシアは向日葵の上に被せようとしていた。だが、どれほど必死になったところで向日葵全てを覆い隠すことなど不可能であるし、容赦なく吹き付ける風雪にたかだか薄っぺらな布一枚で太刀打ち出来るはずもない。人の存在など、自然の猛威の前では無力も同然だ。
「何をやっているんですか!?ロシアさん!!」
「無理です、こんな吹雪で―――早く屋敷に戻りましょう」
 掲げた布を奪い取ろうとすると、ロシアは小さな子供がいやいやをするように首を振った。
「嫌だよ、このままじゃ―――このままじゃ、向日葵が駄目になっちゃうよ―――」
「向日葵どころじゃないでしょう!!ここで凍死するつもりですか!?」
「だって、だって、向日葵が枯れちゃったら―――食べるものがなくなったら、みんな僕を置いて行っちゃう―――!!」
 リトアニアの制止を振り切り、ロシアはエストニアの手から布を取り返そうと藻掻いた。させまいと揉みあっている内に、ロシアのグレーの上着の胸元が肌蹴け、下に着込んだ白い服が覗いた。
「――――っ!?」
 エストニアは息を呑んだ。それは服などではなく、素肌を覆った白い包帯だった。傍目にも厚く巻かれたとわかるその上に、真新しい血の染みが滲んでいるのを認めて、エストニアは声を張り上げた。
「ロシアさん―――怪我してるじゃないですか、あなたは!!」
 指摘にロシアはびくっと身体を震わせ、慌ててコートの胸元を掻き寄せた。
「だ、大丈夫だよ……こんなの、全然痛くないよ。大丈夫だから―――これくらい何ともないから―――僕はまだ、みんなを守れるから――――!!」
 怯えたような甲高い声が、真っ白な世界に弾けて融けてゆく。
「だから―――何処にも行かないで……僕を、一人にしないで―――」
 大粒の涙をぽろぽろと零して泣きじゃくる、誰よりも強大で残酷な支配者の姿に、エストニアはただ呆然と立ち尽くした。
「落ち着いて下さいロシアさん、傷が開きます!!」
 半狂乱に陥ったロシアの手が、支えようと伸ばされたリトアニアの腕を跳ね除ける。涙を散らして瞬いた瞳が、ふと虚空の一点を見詰めて強張った。
「――っ!?来ないで―――!!」
 ロシアの視線を追い掛けたリトアニアとエストニアの瞳もまた、驚愕に見開かれた。揺らめく仄白い光をその身に纏わり付かせながら、吹雪の中に佇む人影がある。温もりはおろか、生気すら全く感じさせないそれは、古びた鎧を纏った老騎士の姿をしていた。
 あれは―――いや、まさかそんな。
「……冬将軍―――!?」
 凍て付く北の大地の守護者にして、同時に何よりも忌み嫌われる災厄。異国の御伽噺としてしか認識のなかったその存在を目の当たりにし、エストニアの全身に寒さによるものではない震えが走った。恐怖と混乱が脳を支配する。身体が動かない。
「来ないで―――向日葵に……みんなに近付かないで―――!!」
 その光景を、エストニアは俄かに信じることが出来なかった。ロシアがその大きな手をいっぱいに広げて、二人を庇うようにその前に立ちはだかったのだ。吹き付ける雪と風に全身を苛まれながら、ロシアは一歩も怯むことなく幻のように揺らめくそれを睨み付けた。
「負けないよ、僕は―――絶対に渡さないから―――誰も傷付けさせないから―――僕が、僕が、みんなを守らなきゃ―――!!」
 叩き付けるようにロシアがそう言い放った瞬間、亡霊のように佇んでいた老騎士が動いた。光の尾を引き、音もなく迫り来るその姿に、ロシアが甲高い悲鳴を上げる。
「―――ロシアさんっ!!」
 ロシアを抱すくめるようにして雪上に突っ伏したリトアニアの背を掠め、冬将軍はふっと空気に融けるように掻き消えた。ぼろぼろの外套をはためかせた後姿が見えなくなるや否や、荒れ狂う風雪がぴたりと止む。突如として静まり返った世界に、エストニアは言葉もなく立ち尽くした。今までの出来事全てがまるで嘘のように感じられたが、夢でも幻でもない証拠に、降り積もった雪が大地をただ白一色に埋め尽くしていた。
「…っ―――大丈夫ですか!?」
 我に返ってエストニアは、蹲ったリトアニアの許へ駆け寄る。リトアニアの腕の中でぐったりと弛緩したロシアの身体は、まるで生気を失った人形のようだった。血の気の引いた頬、固く閉じられた瞳。僅かに開いた口許に手をやると、酷く微かな弱々しい呼気が指先に触れた。
 自分のコートを脱ぎ、ロシアの冷え切った身体をそれで包んでやりながら、張り詰めた表情でリトアニアは自分よりも少し高い位置にあるエストニアの顔を振り仰いだ。押し殺された動揺が内包されているとはっきりわかる硬い声で、しかしリトアニアは一瞬の躊躇もなく叫ぶ。
「すぐに暖かい場所に運ばないと―――エストニア、屋敷に戻って応援を……!!」
「わかりました!!」
 一も二もなく、エストニアは走り出した。逸る思いとは裏腹に、既に膝近くまで積もっていた雪に足を取られ、なかなか思うように進めない。焦燥の中、意識を失ったロシアの蒼白な顔が、幾度も脳裏に閃いては消えた。苛立たしさが胸中で雲のように渦巻いたが、それがあの人に対する怒りや憎悪からのものなのかはわからなかった。ただ、今のエストニアにわかるのは、助けなければ、というその思いが、事務的な義務感から呼び起こされるものとは何処か違っているということだけだった。






 控えめなノックに応えて、どうぞ、と控えめな声が返される。扉を静かに押し開け、なるべく足音を立てぬよう気を配りながら、エストニアは室内へと足を踏み入れた。
 白いシーツに覆われた寝台の傍らに簡素な木の椅子を引き寄せ、リトアニアはそこに座っていた。エストニアが近付くと彼は振り向いて小さく微笑んだが、その視線はすぐに寝台の上へと戻される。
「替えの氷嚢を貰ってきました。―――ロシアさんは……?」
「ありがとう。―――眠ってるよ。容態も落ち着いてる。鎮静剤が効いてるから、今日いっぱいは目が覚めないと思うよ」
「そうですか……」
 呟いて、エストニアも寝台へと顔を向けた。そこでは、シーツの上に白銀の髪を散らして仰向けに横たわったロシアが、静かに呼吸を繋いでいる。表情は穏やかで、青褪めていた頬にも僅かに赤みが戻っているように見えた。身体を覆う毛布に、血の痕は見当たらない。深く息を落とすと、消毒薬代わりに使用したウォトカの匂いが微かに鼻についた。
 先ほどの光景を思い出し、エストニアは僅かに口許を歪めた。部下たちの手を借りて屋敷に運び込んだロシアの身体は、その大柄な体格の割りに驚くほど軽かった。部屋でリトアニアと共に着替えを手伝ったエストニアは、グレーの長いコートの下から現れた、素肌を隙間なく埋め尽くすように巻かれた白い包帯を目にして絶句した。ところどころ緩く解け、随所に赤黒い血の染みを滲ませたそれは、騎馬に踏み荒らされた雪原を連想させた。
 包帯を全て取り去れば、その下の身体には夥しい数の傷痕が刻まれていた。目を背けたくなる衝動を必死に抑え、エストニアは傷のひとつひとつを注意深く観察した。瘢痕となりかけているもの、肉芽を生じさせ始めたもの、そして付いたばかりと思われる新しいものまで、その形跡は様々だった。
 自分の身体にも、ロシアの手によって付けられた傷痕があちこちに残っている。だがロシアの傷は数においても深さにおいても、エストニアのそれを遥かに上回っていた。明らかに外から付けられたものではない、肉が内側から裂けるようにして開いたその傷痕に、エストニアは見覚えがあった。これと同じものを、自分もかつて負ったことがある。
 不況や災害、政治腐敗等によって国内情勢に揺らぎが出ると、国の化身である自分たちの身体にも当然悪影響が及ぶ。悪寒、高熱、種々の痛み―――風邪に近い症状だが、状態が改善されることなく悪化の一途を辿ると、排出されない毒素は体内でじわじわとその濃度を上げ―――そして限界に達した時、肉体を内側から食い破るのだ。
 確かに今この国は―――ソビエト連邦は大きく揺れている。政治体制にも外交にも様々な不安要因を抱え、慢性的な物資不足に国民の疲労や不満も高まっている。だが、それにしてもロシアのこの傷の多さは異常という他ない。
 まさか。閃光のように胸中を過ぎった確信に、エストニアは戦慄した。
 この傷が連邦の揺らぎによって生じたものであるなら、その下に属する自分たちも、同様に傷を負うのが条理である。だが今、エストニアの身体にそのような傷はない。エストニアだけでなく、リトアニアにも、ラトビアにも―――恐らく他の構成国たちも同じだろう。ならば、考えられることはひとつしかない。
 ―――全ての傷を、ロシアが一人で引き受けていたのだ。
 連邦の傘下に集う国々を、彼は文字どおり身体を張って守っていたのだ。
 何ともいえない苦さが込み上げてくる。
 彼は悪虐な暴君だった。その力で意に沿わぬものを全て踏み躙り、この北の大地を恐怖で支配する、絶対零度の氷の覇者のはずだった。彼が自らの身を犠牲にして弱者を守るなど、絶対にあり得なかった―――あり得ぬはずだったのだ。これまでロシアに対して抱き続けてきた想念が、根底から揺るぎ始めていることに、エストニアは気付いていた。
「……リトアニア。君は確か、明日は早朝から視察の予定が入っていたでしょう。ロシアさんには僕が付いていますから、そろそろ休んで下さい」
「――――でも」
「大丈夫です……大丈夫ですから」
 何が大丈夫なのかもわからぬままに、エストニアは噛み締めるようにそう繰り返した。絞られた灯りを映した深緑の瞳を細め、リトアニアが静かに見上げてくる。その表情は不安ではなく、寧ろ哀しみに曇っているようにも見えた。
 ロシアを介抱していた時のリトアニアの顔を思い出し、彼は気付いていたのかもしれない、とエストニアは考えた。血と汗で汚れた身体を丁寧に拭い、真新しい包帯を巻きなおしている間、リトアニアはずっと、感情の窺えない酷く硬い表情をしていた。何処か痛みを堪えているような―――と、そんな印象をエストニアに抱かせるほどに。
「わかった……ありがとう、エストニア」
 暫しの沈黙の後、リトアニアは諦めたように薄く笑うと、座っていた椅子をエストニアに譲った。
「あとで温かいスープを届けるよ。君も疲れてるだろうし、あまり無理はしないようにね」
「お気遣いありがとうございます―――おやすみなさい」
 見送るエストニアに、リトアニアは小さく頷いて返した。立ち去りかけた背中が、ふと思い付いたように振り返る。
「一人で全てを抱え込んで、一人だけ傷付いて――――そんな哀しいこと、俺はもう、誰にもさせたくないから」
 強くなるよ、俺。
 穏やかな、だが強い決意を秘めた呟きを残して閉じられた扉を、エストニアは引き止めることも追うことも出来ぬまま凝視していたが、やがて溜息と共にゆるゆるとかぶりを振った。握り締めた拳が小さく震えている。
 ―――間違いない。リトアニアは気付いている。恐らくはロシアの傷のことだけではない、エストニアがこれまでやってきたことも、だ。
 何処か縋るような思いで、エストニアは寝台で眠るロシアを見た。子供のようなその寝顔はあどけなく、触れれば簡単に壊れてしまいそうなほどに無防備だった。幾らロシアが大国だとはいえ、あれだけの傷を身体に負って平静でいられる訳はない。立っているのでさえやっとだったはずだ。
 ――――僕が、みんなを守らなきゃ―――!!悲痛な叫びが耳の奥に蘇り、エストニアはその秀麗な眉を顰めた。
 誰がこんなことを望んだ。一個の国として負うべき当然の傷を、誰があなたに肩代わりしろなどと言った。頼まれもしない痛みを勝手に引き受けておいて、それで守ったような気になるなど、自らの分も立場も弁えぬ思い上がりでしかない。叩き付けてやりたい言葉は頭の中に次々と思い浮かんだが、その中のどれひとつとして口にする資格が自分にないことも、エストニアには痛いほどにわかっていた。そして、恐らくは自分がこれまでにしてきた行為が、ロシアの身体の傷を増やす間接的な要因になっていただろうことも。
「ロシアさん………」
 ポツリと小さく、エストニアは呟いた。これまで憎悪と軽蔑の対象としてしか見ていなかった相手の名を、それとはほど遠い感慨を込めて呼ぶなど久しくなかったことだった。
 彼を嫌悪する気持ちが消えた訳ではない。ただ、それが全てではなくなったことを、エストニアは認めざるを得なかった。全身傷だらけになりながら、あの人は泣き言ひとつ漏らさなかった。痛くないよ、と言い張り、怯むことなく立ち続けていた。これら全てが、一人になりたくない―――ただその一心が起こさせた行動だというなら、それは何て純粋で愚かで子供じみた……哀しい願いなのだろう。
「……ロシアさん」
 この人が目を覚ました時、一体どんな言葉を掛ければいいのだろう―――答えは見付からなかった。揺らぐ思いは自分でもその質量を持て余すほどに不明確で、言葉に託せばその瞬間に偽りになるような気さえしていた。だから、ただ名を呼んだ。ずっと憎み続けてきた支配者へ、憎しみ以外の感情を込めて。
 厳かな呟きは、白い静寂に覆われた夜の中に、ただ密やかに哀しげに融けて消えた。
















エストニアと露っさまの歩み寄り切っ掛け話。
露っさまは自分の下の国を暴力(政治干渉)で支配する代わりに、
連邦の代表国として国が受けるダメージは全部一人で引き受けてるんじゃないかな…と妄想したのでこんなお話に。
そして、私は一体どんだけイケメンに夢を見ているんだろう…と自分で書いてて遠い目になった(苦笑)
エストは要領が良くて保身に長けてそうな感じだけど、
プライドが高くて、長いものには巻かれろ系のことはやらなさそうなイメージもあったので、
考えた結果、露っさまの目を盗んで暗躍する策士キャラに落ち着きました(苦笑)
特にカプ要素は考えずに書き始めたんですが、書いてくうちに勝手に愛→立路線にシフトして吃驚。
……ウチのエスト、どんだけリトのことが好きなん?と自分で書いてて遠(以下略)
けど、あくまで片想いなので報われることはありません。ごめんよエストニア。私はそんな君が好きなんだ…(笑)






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