扉を開けると、消毒薬のつんとした独特のにおいが鼻を掠めた。
 灯りを絞られた病室はどうにも辛気臭い雰囲気がして慣れない。今が夜明け前だということを差し引いても、この場所に凝り固まった空気は重く澱んで、触れれば掴めそうな錯覚さえ起こさせる。その原因の大半が、現在この病室を利用してる人物にあるのはおそらく気のせいではないだろう。暗がりに目が慣れるのを待って、ケネスは目的の寝台に近づき、間仕切りの暗幕をそっと開けた。
 見慣れた赤いバンダナが目に映る。寝台の枕元で、こちらに背を向ける格好で椅子に腰掛ける軍主は、まるで彫像のように髪一筋すら動かさなかった。彼の視線の先にあるのは、白い敷布に沈んだ青年の青白い寝顔。苦しげに眉根を寄せたまま、浅く呼吸を繰り返す様子は痛ましく、ケネスは軽く唇を噛んだ。
「…カルマ」
 低く落とした声で呼びかける。気付いていなかったわけではないだろうが、軍主はそれでようやくこちらを振り返った。穏やかな表情はいつもの彼のそれだったが、目の辺りに僅かに憔悴した痕も見て取れる。あまり眠っていないのだろう。
「キャリーさんいなかったから、勝手に入ってきた」
「ああ、彼女は今休んでるよ。他に病人はいないし、スノウは僕が見てるから大丈夫だって言ってね」
 カルマは薄く微笑むと、再び視線を寝台へと向けた。笑みを見せたのは一瞬のことで、すぐさまその瞳は張り詰めた横顔の中に沈む。触れたら壊れそうというのは、きっとこういう表情のことをいうのだろうなと、ケネスは思った。
「…スノウ、まだ目覚めないのか…」
「うん…」
 頷く声は消え入りそうに弱々しく。膝の上に置かれたその手が微かに震えていることにケネスは気付く。
 軍主としてのカルマしか知らないものには想像もつかないだろう。たった一人の人の前では、捨てられた子犬のごとく惨めに震える子供。どちらの姿も彼であることに変わりはないのだけれど。
「……おまえも少し休んだほうがいい。ろくに寝てないんだろ?スノウは俺が見ているから」
「ううん、大丈夫だよ。ケネスのほうこそ休んで」
 ケネスは小さく息を吐くと、カルマの隣に腰を下ろした。「こういう時のおまえの『大丈夫』は信用ならない」
「酷いな。そんな風に思ってたの?」
「思われたくないのなら少しは自重しろ」
 呆れたような声で返すと、軍主の口からは自嘲にも似た吐息が漏れた。
「…ケネスには敵わないな。僕にそんな風に言ってくるのはこの船じゃ君とテッドくらいだよ」
 意外な名前にケネスは微かに瞳を細めるが、結局何も言葉にはせず、傍らの寝台へと視線を落とす。
 カルマは腕を伸ばして、掛け布の外に出ていたスノウの痩せた手を取った。
「心配してくれてありがとう……でも、今は僕の気の済むようにさせて貰えないかな…?」
 重く擦れた声でそう請われれば、結局はこちらが折れるしかないのだ。言ったところで聞くような奴ではないことも知っている。諦めは苦笑の下に押し込み、いっそさばさばした表情で、ケネスは軽く肩を竦めた。
「スノウ…早く気が付くといいな」
 身一つで海を漂っていた彼は、昔を知るものが見れば目を背けたくなるほどに衰弱していた。ユウ医師の適切な治療と、軍主と看護婦の献身的な看護のお陰で一命を取りとめはしたものの、未だその意識は戻らず、傷だらけの手足に巻かれた包帯の白さが痛々しかった。敷布に散らばった金の髪も、陽に晒されて赤くなった肌も、すっかり以前のような艶を失い、硬く荒れてしまっている。
 袂を分かち、幾度となく敵対してきた相手とはいえ、それでも彼のこのような姿を目にするのは忍びなかった。自分でさえそうなのだから、カルマの心痛はきっと計り知れないものがあるだろう。
「…う…ん……」
 だから、言い澱むような言葉が彼の口から零れたのを聞いて、ケネスの顔が怪訝そうに歪む。
「どうした?」
 穏やかな声で問えば、カルマがスノウの手を握った手に、力を籠めるのがわかった。
「………早く目を覚まして欲しい…。もう大丈夫だって、スノウの口から聞きたい……。だけど……それと同じくらい……このまま目を覚まさないでくれたらと…そう思う自分もいる」
「な……どうして……?」
「スノウは…きっとまだ、僕を許してくれてはいないだろうから」振り向いたカルマの瞳は、硝子玉のように作り物めいた無機質な光を帯びていた。「目覚めた彼に…いったいどんな顔して会えばいいのか…僕にはまだわからない…」
「おまえ……」
 カルマはスノウから手を離し、椅子の上で膝を抱え込んだ。
「次に会えたら…もう離れないつもりだった。僕はスノウを信じると決めたのだから、これからもずっと、喩え何があっても、僕だけでも彼を守って生きていこうと…そう決めたつもりだった。けれど…いざこうして彼を目の前にすると…考えずにはいられないんだ…。もしかしたら僕がいないほうが、スノウは幸せになれるんじゃないか…僕が傍にいても、却って彼を苦しめるだけなんじゃないか…ってね」
 抱えた膝の上に顎を乗せ、カルマは強張った表情のまま、静かに瞳を伏せた。
「…このまま目を覚まさなければ…彼はもう何処へも行かないでいてくれる……。最低だよね。スノウの身を案じてくれてる君やキャリーさんの前で、僕はこんなことを考えている」
「カルマ………」
「幸せに……なって欲しかっただけなのに……」
 沈痛な声で紡がれた呟きに、ケネスも俯いて押し黙る。
 カルマの迷い。そしてスノウの苦しみ。それは喩え今まで苦楽を共にしてきた自分たちであろうとも、けして立ち入れぬ、彼ら二人だけの領域だ。運命という大きな海流に翻弄され、傷付き、ぎりぎりまで追い詰められたのだろう心情を思えば、その暗い告白を責める権利は自分にはないように思えた。
「スノウ…痩せたな…」
 長い沈黙の後、絞り出すようにやっとそれだけ口にした。
「ケネス…頼みがある」
 まだ僅かに躊躇いの色を見せながら、それでも落ち着いた声音で、カルマはそう切り出した。
「家を…一軒手配して欲しい。此処から然程時を於かずに行ける場所で…戦禍の及ばない、平和な土地に」
「……カルマ、おまえまさか……?」
「それから………君と…ポーラには…この船を降りて貰いたい」
 驚きの余り、思わず椅子から腰を浮かしたケネスの顔を、海色の瞳が見上げる。ランプの光を弾いて揺れるそれは、感情すら映さないままに、ただ穏やかに凪いでいた。
 ―――まるで、最初からこうなることを望んでいたかのように。
 ふ、と諦めを閉じ込めた溜息を漏らすと、ケネスは勿体ぶった仕草で頭を掻く。
「やれやれ…無茶な注文つけてくれるな…。ま、何とかしてみるさ」
「……怒らないんだね」
「おまえが決めたことだ。だったら俺はもう何も言わんさ」
 そう言って軽く手を振り、ケネスは踵を返した。暗幕をくぐろうとしたその背中に、カルマの声が掛かる。
「………スノウのこと、頼むよ…」
「ああ、わかった」
 だから、おまえももう苦しむな。
 続く言葉は、されど胸の内にだけ押し込んで、ケネスは病室を後にする。
 後ろ手に閉めた扉の取っ手は、夜そのもののように酷く冷たかった。
 ―――ここには、未だ明けない夜がある。
 これで良かったのだとは思わない。他にもっと良い方法があったかもしれない。
 孤独に傷つき、後悔に苛まれて足掻いてみても、結局は誰も救われないのかもしれない。
 けれども……。
「今は…おまえの気の済むようにさせてやるさ…」
 闇のしじまに零れた呟きは、どこか吹っ切れたような響きを宿して、静かに夜に広がった。

 
















お題5「苦しい」―――本編の「一人じゃないから」の直前に当たるお話です。
後ろ向きアクセル全開―――迷いない漢前な4主はもはや当サイトにおいては夢のまた夢のようで(苦笑)
ケネスとテッドは当サイトにおけるMr.貧乏くじなので(笑)
これからも存分にスノ&4の二人組みに振り回されて貰おうと思ってます。いやー大変だねー(他人事)





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