与えられた部屋は母屋から少しばかり離れた、納屋の二階だった。
 狭く、殺風景なその場所は一応は掃除されているようだったが、それでも微かに黴臭い臭いが残っている。備え付けの家具は古くみすぼらしく、床は歩く度にギシギシと嫌な音を立てた。
 屋敷の華やかなそれとはまるで別世界のような粗末な部屋だが、ネズミが床を走り回るのが茶飯事であった孤児院を思い出せば遥かにマシなのはいうまでもない。何となく落ち着かない心持ちがするのは、傍に全く人がいないという状況に慣れてない為だと思う。施設には常に自分と同じ境遇の孤児たちが大勢いた。周囲の都合に翻弄されるのは慣れていたが、それでも見知った顔が誰一人としていない場所にたった一人で放り込まれたのは初めての経験だった。
 ここにいることが不満な訳ではない。更に言うなら、育った場所に戻りたいという思いが自分にあるかどうかもわからなかった。自身に選択権のない人生は自分にとっては当たり前のもので、いつの頃からか嘆くことや考えることを放棄する癖がついてしまったようにも思う。だが、昼間に引き合わされた伯爵家の一人息子の白く綺麗な面を思い出せば、やはり住む世界が違う人種と言うのは間違いなく存在するのだと、憧憬とも諦念ともつかぬ微妙な感情が胸に蟠るのを自覚せずにはおれなかった。
 けれどそれはずっと前からわかっていたこと。理由もわからぬ不安が胸の内に重く降り澱んでも、所詮世界は自分などには手の届かないところで動いているのだ。出来る抵抗と言えば、精々小さく溜息を吐くことばかり。
 明日は早くから水汲みと薪割りの仕事を言い付かっている。カルマは固い寝台の中に潜り込んだ。何年も使われていなかったと思えるそれは、人の温もりを拒むかのように冷たかった。胸にじわりと込み上げてくる痛みを押し殺そうと、毛布を頭から被ってギュッと目を瞑る。
 床の軋むギシッ、ギシッという音が微かに耳に飛び込んできたのはそんな時だ。
 空気を震わせ伝わってくる振動の重みは大人のものではない。躊躇いがちな、頼りなげなその音は、カルマに昼間会った人を思い出させた。素早く毛布を跳ね除け、寝台から降りる。ランプの一つすらない部屋ではあったが、幸いにして窓は大きく、差し込んでくる月明かりだけでもなんとか周囲を見分けることは出来た。
 か細い足音が部屋の前で止まるのを待って、カルマは扉を開けた。
「あ……」
 ノックより先にこちらが出てくるとは思ってもみなかったのだろう。瞳に驚きを浮かべて僅かに後ずさったその姿は、やはり伯爵家の少年であった。夜目にも明るい金の髪と白い顔は、黴臭い部屋の中にあっては殊更場違いなもののように思えた。
「……何か御用ですか?スノウさま」
 教わった相手の名前を思い出しながら、カルマは慇懃に尋ねた。彼と自分の身分差は、ここに来る前からとくと言い聞かせられている。失礼があってはならない。
「う、うん…君が一人で寂しがっているんじゃないかと思って」
 明らかに強がっている響きを含んだその声で紡がれた言葉に、それでも一瞬胸が詰まったような苦しさを覚えたのは何故なのだろう。
 しかし、自身の物思いに目を瞑るなど、カルマにとっては容易かった。
「お気遣いありがとうございます、スノウさま。でも大丈夫です。それよりスノウさまがこんな所に来たりしてはいけません。叱られます」
「え、遠慮しなくていいんだよ。君は僕にとって弟みたいなものだもの。寂しいときは傍にいるのが当たり前でしょう?」
「スノウさま…」
 聞き分けのない相手の肩に宥めるように触れてみれば、微かに震えているのに気がついた。怖い夢でも見て、眠れなくなってしまったのだろうか?父親の寝台に潜り込むにはそろそろ自我が邪魔をする年頃と思われる彼の脳裏に咄嗟に浮かんだのが、おそらくは年の近い自分ということだったのだろう。
 自然と綻んだ口許に、一番驚いたのはカルマ自身だった。
「…はい、ありがとうございます。嬉しいです」
 途端にパッと明るくなった彼の表情を見て嬉しくなった自分に戸惑いながらも、表面上は何でもない振りを装って、カルマはスノウを部屋の中へ招き入れた。一人でなくなったことに安心したのか、先程までのおどおどした様子が嘘のようなはしゃぎぶりで、スノウは興味深げに部屋の中を眺め回し、狭いだの暗いだの勝手なことを言っている。それでも苦笑混じりの声で促せば、素直に寝台へと向かった。マットの固さにやはり不満を洩らしはするものの、おとなしく毛布を被って丸くなる。空けられた隣に潜り込めば、毛布の中には二人分の温もりがじんわりと広がった。それが思いのほか安心出来る場所であるのに気付いて、やはりカルマは戸惑う。
 違う世界の人なのだと、そう、思っていたのに。
「寒くないですか、スノウさま?」
 努めて平静な声を出す。感じる温もりは嬉しくとも理性は冷静に働いた。喩えスノウ自身がどう言おうとここが彼に相応しくない場所であることに違いはない。こんなことはもう、これっきりにしなくてはならない。異なる世界との距離をこれ以上縮めてはならないのだ―――。
 だが、こちらのそんな思いも知らずに、無邪気なお坊ちゃまは非難の声をあげる。
「それ、なしにしようよ」
「え?」
「だからさ。スノウさま、って呼ぶの」
 闇の中、凝らした視線の先で、スノウの青灰色の瞳が微笑んだ。
「言ったでしょ?君は僕の弟みたいなものだって。だからスノウさまだなんて呼ばなくていいんだよ」
「で、でも…」
 今度ばかりは動揺を隠し切れず、カルマは狼狽した。自分がこの屋敷にどういった理由で引き取られてきたのか知らない訳ではない。思いや努力だけでは越えようもない壁というものがこの世には存在するのだということを、カルマは子供ながらに感じていた。だから、喩えスノウが望んでくれたことであったとしても、それは叶えられるものではない―――。
「駄目です。スノウさまはスノウさまです。スノウさまに失礼な口を利いたら、伯爵さまに叱られます」
 慇懃な口調は崩さない。自らの内に芽生えたこの傲慢な望みに、気付いてはならない。
 けれど、必死に保とうとするその距離を、彼はいとも簡単に飛び越えてみせて。
「だったら、他に誰もいない時だけでも。二人の時だけでいいよ。スノウ、って呼んで欲しい」
 頬に触れた皇かな手の温もりに、泣きそうになる自分がいた。
「スノウ……」
「うん。よく出来ました」
 にっこりと。満足そうな笑みを顔中に浮かべて。
「おやすみなさい、カルマ……」


 不安になるのはきっと、ここが本当に自分の居場所なのかどうか、まだ自信がないからだ。
 見知らぬ世界。頼れるものなど何一つない、孤独のみに塗りつぶされた場所。
 けれど、隣に感じる温もりは、夢でも幻でもなく確かにここに存在していて。
 ―――強がっていたのは本当は彼ではなく、自分のほうだったのかもしれない。
「スノウ…」
 聞こえてはいないだろうと知りつつも、もう一度その名を口にする。
 彼が先程してくれたように、その頬にそっと手を添えた。白く柔らかな手触りは、やはり自分とは違う世界の人なのだと感じさせるには充分で。
 けれども。
 不意に胸を満たした寂しさを、振り払うように瞳を閉じる。
 感じている温もりは二人同じものなのだと―――せめて今だけでも、そう信じていたかった。

 
















お題1「始まり」―――4主がスノウを呼び捨てにするようになった切っ掛けということで。
4主は基本的に強い人だけど、やっぱり一人で寂しくない訳はないと思うのですよ。
でも本人は構われないのが当たり前って思ってるから寂しいって感情を自覚してなくて、
で、スノウが意識せずに言ったひと言で初めて自分の気持ちに気付く…みたいな。
周囲に流されるままにしか生きられなくて麻痺していた心が、
温もりに触れて初めて自我を持って動き出す―――とかだったら良いなと勝手に妄想してみました。





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