「憎しみって、どうしたら消せるんでしょうね…」
 雪混じりの風に流されそうな呟きを拾い上げ、カルマは、凍てついた谷を一心に見詰める横顔を振り返った。
 名残を惜しむゼファの胸中を慮るように、彼らを乗せた飛竜は谷の周囲をゆっくりと旋回していた。谷を覆う冷たい水晶が、厚い雲の隙間より僅かに洩れてくる陽光を映して、その稜線を灰色のカンバスの中に朧げに浮かび上がらせている。だが、今、ゼファの脳裏に浮かんでいるのは幻のようなその光景ではなく、親友の果てた地で見た、タンポポの花の儚くも優しい黄色だった。
 無意識だろうか、右手の甲をもう片方の手で握り締め、ゼファは言った。
「俺はテッドが好きでした。だから、彼とずっと共に生きてゆきたかった。彼が俺に向けてくれた想いの深さを疑ってはいません。けれど、それがどんなに俺の為を思ってしてくれたことであろうと、俺はこんな別れは望んではいなかった。彼に背中を押して貰った今でも、ふと気がつけば彼に憎しみの情念を抱いている俺を、意識せずにはいられない。何故、どうして、俺にたったひとつ残された希望まで、おまえは奪って行ってしまったんだと…繰り返し、そう思わずにはいられない自分がいるんです。どれほど憎んでも、もうけして届かない。ぶつけることの出来る相手は、もうこの世のどこにもいないのだと知っているのに」
「まだ……許すことは出来ない?」
 僅かに逡巡し、ゼファは小さく俯いた。
「……わかりません。許したいんだ…とは思います。なのに何故…何も知らなかったあの頃のような純粋な気持ちで、彼のことを想うことが出来ないのか…自分でもわからないんです」
 無彩色の世界に落ちた陽だまりを見付けたときは、絶望に閉ざされた心に救いの光が差し込んできたかのような心持ちがした。どれほど苦しんでも見出せなかった迷図の答えを、手に入れたような気さえした。だが、ぼんやりと思考を巡らせているうちに、心の奥深くに埋めたはずの迷いは、再び燠火のようにぶすぶすと音を立てて燻り始めている。
「全て割り切って、楽になりたい。もう、誰も憎みたくないのに―――」
 低く落とされた声は、カルマに返された答えというよりは、独白に近いものだった。落ちた静寂の狭間に、風鳴りと竜の羽ばたきだけが響く。
 カルマは空を見上げた。雪を孕んで垂れ込める雲の向こうに、何かの面影を探すかのように。
「もし、出来るなら…何もかも忘れてしまいたいと思う?全て忘れて、解放されたいと思うかい――?」
 ゼファは瞬きし、傍らに佇む青年の大人びた横顔を見上げた。黒曜の眼差しに気付くと、カルマは小さく微笑み返した。愁いを含んだ、どことなく寂しそうなその笑みに、ゼファは、ああ、と小さく息を吐く。
 きっと彼は――自分などにはまだ想像も出来ないような長い時を、こんな哀しみを幾つも抱えながら生きてきたのであろう。テッドが果てのない道程を、たったひとりで歩いてきたように。水を湛えたような碧い瞳、その感情を超えた静謐さに、見知った琥珀の彩が重なった。
 彼は、そして親友は…許せたのだろうか。割り切れない様々な思い、狂わされた定め、癒せない傷。その全てを受け入れることが出来たのだろうか。諦念や忘却によって、救われたこともあったのだろうか。
 まだ、自分には、そのどれも選べそうにはない。そう考えてしまうのは、幼さゆえの甘さなのだろうか。
「…きっとテッドは、忘れることを許してくれるでしょう。俺が苦しみから解放されるのであれば、忘れてくれて構わないと言うでしょう。でも俺自身が、忘れることを許せない。いえ―――忘れたくないんだと、そう思います。どんなに苦しくても、彼のことが好きだという気持ちは変わらない。彼に出会えて良かったと、俺は今でも思っています。この想いだけは、生涯手放すつもりはありません。痛みも、苦しみも、誰のものでもない、俺自身のものです。生きろ、と。彼は俺にそう言いました。彼と交わした最後の約束だから―――だから…俺はこの命の尽きる最後の一瞬まで、彼のことを忘れる訳にはいかないんです」
「そうか」
 小さく首肯し、カルマは再び薄く微笑んだ。
「君がそう思うのなら、抱えて行くといい。傷は消せなくても、時が痛みを和らげてくれることもある。憎しみがいつかは、愛おしさに変わることもあるように」
「あなたも……そうして生きてきたんですか?」
 一瞬の間があった。カルマはそっと瞳を伏せ、何かを懐かしむような表情をした。
「―――そうだね」
 その声に、いつになく感傷が差しているように聞こえたのは、きっと気の所為ではないだろう。
「どうすれば誰も傷つかずに済むのか―――全ての人が救われるのか……どれだけ探しても、答えは見付からないのかもしれない。けれど……」
 唐突に雲が切れ、狭間より顔を覗かせた太陽が、周囲を鮮やかな光で染め上げた。
 白い光に輪郭を淡く霞ませながら、海から来た青年は静かに微笑う。
「過去を許したいと思うのなら……まずは自分を許してあげることから、始めなくてはならないのかもしれないね」
 自嘲混じりのその声に応えるように、飛竜が一声甲高く鳴いた。そして決意を促すようにその身を翻し、南へと進路を変えると、一際強く羽ばたき始めた。たちまち遠ざかって行く谷の景色に目を細めながら、ゼファは目尻に僅かに滲んだ涙を、カルマに気付かれぬように、そっと払った。
「俺にはまだわかりません……ただ」
 ゼファは瞳を閉じ、ここにいない少年を想った。
 瞼の裏の闇に浮かんでくるのは、目に灼きついて離れなかった最期の苦悶の表情ではなく、陽だまりの笑顔。
 ―――タンポポの花のような……そんな笑顔。
「やっと……彼の笑顔が素直に思い出せるようになったこと」
 風に乱された前髪を掻きあげ、きっぱりと顔を上げて、ゼファは言った。






「これだけが、今の俺にはっきりとわかる、たったひとつの『真実』です」
















お題6「同類」―――4主とテッドの相似性。4主と坊の相似性。
「彼方よりの伝言」での、テッドのお墓参りの帰り道…ということで。





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